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輝鑑 後世編纂版  作者: 担尾清司
第一部第二話:高品位高等書生、垣屋孫四郎として初陣を飾るのこと

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第菊(14)章:浦上軍の反攻 01

 文明十六年十二月備前、三石城に帰還した浦上則宗は家臣団から赤松政則敗死などの報告を聞き、妙な顔をした後に安堵した。何せ彼は幕府本陣より内諾を受け取ったばかりなのだ、その際に幕閣が山名家が何の許可も得ずに赤松領に攻め寄せたことを知っており、自身の策はまだ失策となっていないことを知っていた。

「惣領閣下が討たれたは、誠か」

 念のため聞いておく則宗。それも無理からぬことで彼は元々赤松元家の孫である慶寿丸を赤松家に据える算段を立てており、一度は却下されるものの足利義尚はそれに頷いていることを確認しており、交渉次第では再考を促すことは可能であった。第一何せ政則本人が死んでいるのである、故に足利義政も強くは出られないだろう、そういう算段の下家臣団は新たな赤松家当主を擁立しようとしていた。だが……。

「ははっ、かくなる上は想定通り代わりの赤松家惣領を立てる他御座いますまい」

「それなのだがな……」

 家臣団の提案に頭痛を抑えながらも、まだ万策尽きた訳ではないこともあって則宗は京での状況を説明し始めた。

 

「なんと……」

 この時期、既に有馬慶寿丸らの実家である有馬家の有力分家である有馬右京亮が山名家に寝返ったことからも判る通り、赤松家は切り崩されつつあった。更に赤松一族の庶家の内、在田、広岡などが親山名家系の赤松家当主を擁立して急場を凌ごうとも画策しており、文字通り播磨国衆は四分五裂していた。故に播磨でそれを止め、備前美作に及ばないようにするのも手ではあったが、浦上則宗は更に播磨奪還のために次策を練りつつあった。

「どうやら、山名家に新しく就いた軍配師の所為かもしれん、そしてそやつ、余程巧みにして用意周到と見える。かくなる上は、別の養子を据えた上で、上様に山名の無道を訴え御敵にして頂く他あるまい」

 なお、補足事項ではあるが、実は赤松家にはいろいろな分家が存在し、何もいくら子がいない政則を討ち取ったとしてもそれで即赤松氏の族滅を意味するわけではなく、宇野則貞にせよ読者世界では政則の婿養子となった七条義村にせよ、苗字こそ異なる庶家であったものの祖は赤松宗家に連なる者であり、遺伝子的に考えれば十全に継げる資格は存在した。何せ、赤松家という一族は山名家と違い、鎌倉時代より既に播磨国某所の地頭として着任していたのである、山名家とは地盤の年数が文字通り桁違いと言えた。だが、叙述世界において赤松政則は子を成さずに討ち死にした。故に直近の正統性に関しては、どの分家であってもさして変わらない程度には危ないと言えた。根本的に、庶家という存在は既に家督相続権から一度脱落した存在である、それは上は足利家から下は国衆に至るまで、変わらぬ法則といえた。苗字とは、そういう意味も存在していたのだ。

 ……ちなみに、則宗は予測できなかった(当たり前だ)が、山名家に新しい軍配師が迎え入れられたという事実は存在しない。強いて言えば孫四郎のことだが、孫四郎は垣屋家の嫡子であり、山名家累代の家臣と言える存在である、それに逆浦が宿っているなどという事実はいくら則宗でも看破できるはずも、なかった。

「……無念で御座りまする……」

 無念がる家臣団に対して則宗はある事実を基に激励を開始した。その、事実とは。

「何案ずるな、もし御敵指定が叶えば山名家は進退窮まるだろう、なればその時こそ復仇の時よ」

『……ははっ!!』

「して、如何なる算段で御座りましょうや」

「山名家は赤松家を幕府の承諾無しに攻撃しておる、故に討伐令要請ではその点を衝こうと思うておる」

 ……山名家は、一つ致命的な失策をしていた。それは幕府命令である御内書を無視したことである。とはいえ、それはあくまで後世に赤松遺臣が編纂した書である蔭涼軒日記にだけ書かれてるだけであり、浦上則宗が根拠無しに激励のためそう言っただけ、ということも考えられる。事実、この後山名家は幕府主催の六角家討伐にも、また斯波家主催の越前奪還戦にも招かれておりもし命令無視が事実であるならば斯波家はさておき幕府はそもそも山名家を動員しないであろう、というのが定説である。

「……なるほど、然らば……」

「ああ、この際赤松家の家名を継げる資格のある分家ならば誰だって構わん、庶家でもこの際問題点は捨て置く、儂ではさすがに最早年老いておるし浦上で名が通り過ぎたが、入苗字出来そうな者を調べ上げよ」

 実のところ、則宗は完全に怒り心頭に発していた。何せ則宗は一時政則を廃しようとしたものの、政則が一番辛い時期であろう嘉吉の乱、即ち当時の赤松家当主である満祐の将軍暗殺から始まる反乱、から禁闕の変、いわゆる南朝勢力の皇居乱入事件、に始まる剣璽相奪戦、なお長禄の変において北朝側の勝利で一応の決着を見る、に至るまでを全て一緒に行動しており、文字通り艱難辛苦を共にした仲である。股肱の臣とも言うべき仲は、確かにまだ心中に息づいていた。

 なお、こちらも補足事項ではあるが、神璽とは文字通り天皇朝由来の朝廷決定印……という名目がある宝石のことである。まあ要するに八尺瓊勾玉やさかにのまがたまのことで、天叢雲剣と一緒に剣璽として扱われることが多い。ちなみにその「剣」についてだが、壇ノ浦で一緒に沈んだ天叢雲剣(まあこれも沈んだのは形代なのだが)と違い、勾玉の方には形代は存在しない……と編者は認識している。なお、八咫鏡にも剣同様形代が存在する。鏡は幸いにして失われた事は無い。

 そして「相奪」と編したのは、震旦の伝国の玉璽問題と違い一応はどちらも皇統を継いでいる存在であるため、どちらが日本国皇帝になったとしても血統上は問題ないと思われるため、「相」奪と編させて頂いた。

『……ははっ!!』

「おのれ政豊め、松田を捨て駒にしたつもりかもしれんが、勝負はこれからよ」

 ……斯くて、浦上則宗の第二次赤松家再興運動を名目とした反攻作戦が始まった……。

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