第捌(8)章:有馬の変 07
「くっ、有馬街道とはこんなにも危険な道であったか!」
刀工としても知られる政則は自画自賛しても差し支えないほどの逸品である愛用の脇差し一本のみを握りしめ、本来ならば守護としての格式を表すために履くはずの多層構造である何枚草履ですら履く際の時間を惜しんでか、あるいは守護惣領とばれないための偽装工作によるものか、足軽中間が履くであろう足半に温泉から上がった際に来ていた湯帷子だけで有馬街道を走る赤松政則は、到底守護惣領とは言い難い姿であった。
旗本や小姓の過半を影である別所則治に預けたまま僅かな供回りと共に逃げる彼を見た者は煌々と照る月明かり以外は誰もいなかったが、それが逆に幸いした。今の彼の正体を知る者が発見した場合、江戸時代のように儒教に気触れているわけでもない当時ならば十中八九落ち武者狩りに変貌すること請け合いだからだ。
そして、兵衛こと有馬の温泉宿より有馬街道を進もうとした彼には二つの道が存在した。北へ行き美囊郡淡河へ抜けるか、西へ行き八部郡谷上へ抜けるか。だが、彼を奇襲した相手は山名家の精鋭部隊、垣屋氏である。淡河へ抜けた場合、その三木城を囲む垣屋豊遠ら本隊に発見される。そう考え、彼が導き出した答えは谷上へ抜ける西の道であった。……それが、彼にとって黄泉比良坂同然の坂道であることも知らないで。
「若! 敵が指定地点を通りました!」
興奮て多少声を荒げ若――つまりは孫四郎――に報告する物見忍者。物見忍者特有の視力を以てまだ正体こそ判明していないものの、間違いなく敵といえる状況証拠を兼ね備えた存在が眼前の若様の指定している地点を通り過ぎたことを確認した彼は、その眼前の若様がどれだけの知謀を持ちうるのかと思い興奮していた。
「そうか」
それを確認した孫四郎はなんの感慨深さも見せずに無表情で頷いた。先ほど報告に来た物見忍者はその冷静な態度を見てますます眼前の若様の知謀に惚れ込み、興奮を隠そうとしないまま続けざまに尋ねた。それに対して若こと孫四郎は声の高さを咎めた後に、極めて冷静な態度で平常通りの口調を以て作戦の詰めを下令した。
「どういたします!」
「静かに、ここで気づかれたら仕舞いだ。
……花山坂の伏兵と箕谷は松が枝の伏兵に合図、当初の想定通り上谷上村から下谷上村の辺りに敵を誘い込む。敵を袋小路にまで追い込み、用意している印字打ちで討ち取れ」
「……ははっ」
孫四郎に咎められて声を低くする忍者衆。ますます高くなる自身の株に一切気づかないまま、孫四郎は赤松政則暗殺作戦の大詰めを開始した。時は文明十六年も年の暮れ、後の太陽暦に直して二千百四十五年の年始覚めやらぬ頃のことであった。
「おのれ山名政豊……、いや、おのれ垣屋宗続!
まんまといっぱい食わされたわ……!!
じゃが、今宵が月夜で助かった……覚えておれよ、必ずこの恥は貴様の首級を対価に雪いでくれようぞ!」
孫四郎に泳がされていることにも気づかずに、孫四郎の父親である宗続に対して呪詛を吐き、息を切らしながらも助かるためには走るしかないと信じて有馬街道をひた走る政則達。彼は別所らを生贄に捧げて自分は助かると、最期まで信じて疑わなかった。確かに、刺客のうちかなりの割合は現在、有馬の宿である兵衛を血で汚しながら赤松政則の旗本と交戦中である。自分はかろうじて切り抜けることに成功した、そう思うのも無理からぬことであった。
……その日は先ほども述べたとおり月齢も満月にほど近く、非常に視界としては見晴らしがよいのでどの道を走れば目的地――すなわち政則にとっての味方拠点――にたどり着けるのかがはっきりわかっており、ゆえにもし彼が味方の拠点にたどり着ければ垣屋宗続などを討ち取るべく兵を集めることに成功しただろう。だが、結果論的に言えば……先ほどまで幸運と書いていたことではあるが、月齢が明るかったことは完全に仇となりつつあった。
「あれが因果ならこれも因果、か……」
今からやろうとしている行為、よくよく考えれば非常に縁起の悪い行動ではあるが……。これも生きるためだ、縁起などに関しては「科学的では無い」と諦める他あるまい。
「若?」
まさか、この若はこの土壇場で怖じ気づいたのか?いや、そんなはずは、だが……。
「赤松政則は一撃で殺せ。しくじるなよ」
迷いを捨てろ、そしてせめてもの慈悲だ。……せめて、せめて苦しまないように、そして逃がさないためにも一撃で供回り諸共に決めねば。
「もちろんでございます。……それでは皆、構え!」
……なんともやれやれ、我等の腕を信じ切れておらなんだだけか。造作も無い、この距離でこの人数の印字打ちならば、供回り諸共殺せるというのに。……この若、その辺りはまだ幼いな。
「それでは皆、構え!」
眼前の敵を討ち取る用意が出来たのか、声を高く張り上げて周囲の忍軍に届くように命令する指揮官の忍び。そしてそれは、容易に赤松政則にも聞こえた。……無論、それも織り込み済みではあったのだが。
「!!」
突如として響く敵らしき人物の声に、赤松政則達は一瞬だけ怯んだ。そして、その隙を逃すほど周囲の影は未熟でもお人好しでも、なかった。
「放てぇぇっ!!」
……前鉄砲時代において、集団が遠距離攻撃で同一目標を狙い定め討ったのはこの赤松政則の事例が空前にして絶後である。




