プロローグ
カランカラン
今日もまた、真鍮のベルが鳴る。ドアのOPENと書かれた看板を揺らしながら。
そうすると聞こえるのは、どこか凛として、でもたっぷりの愛嬌を振り撒いた、あの声が耳に届く。
『いらっしゃいませ!ようこそPEARへ!』
このお店PEARは、中は喫茶店、外は花屋となっているのだ。都会の中にあるにしては、その辺りだけ空気が違っていた。植物の出すマイナスイオンは、喫茶店の中にも満ちていて、華やかだがお淑やかな香りを放っていた。喫茶店はカウンターとテーブル席があり、木製の家具達は静かに、そして優雅に喫茶店を彩っていた。
『おひとり様ですね?どうぞこちらへ』
そして彼女は神来社 悠。後ろで綺麗に三つ編みをした髪をなびかせながら、店員を誘導する。彼女はこの喫茶店と花屋の唯一の店員だ。テキパキと、流れるように仕事をこなす彼女に、見蕩れる人も少なくないだろう。エプロンがあれほど似合う人はそうそう居ないと思う。
おっと、もう1人大事な人を忘れていた。
『マスター、モーニングセット1つ』
「、、、」
マスターの名前は櫨木 礼。
マスターの口数は極端に少ない訳では無いが、話す所はあまり見かけない。渋くいつも変わらないその顔は、何を考えているか分かりにくい。あれで子供に怖がられないんだから、不思議でしょうがない。
だが、その腕は確かで、今頼んだモーニングは格別に美味い。花で飾られたトースト二枚に、淹れたてのコーヒー。それに、サラダも野菜に混じって花が添えられている。
この喫茶店は花屋も営んでいるので、料理の全てに必ず花がある。特にトーストのシロップは季節によって変わるので、色んな味が楽しめる。
花屋というと、一見人があまり来ないように見えるが、意外と子供たちが多く訪れている。神来社さんが花屋の管理をしていて、その知識も豊富だ。そのため夏になると、小学生が自由研究の為に来ることもしばしばある。
そんな喫茶店には、色んな客が訪れる。
老若男女、子供から老人まで皆に愛されるこの場所は、時代の流れが激的に早まる中、羽を休められる止まり木だろう。
カランカラン
ほら、またあのベルが鳴る。
慌ただしくも、どこかまったりとした時間が流れる今日この頃。
この喫茶店PEARの日々を
ご紹介しよう。
『花の手入れ、一通り終わらせました!』
ドアの横にある窓から、ひょっこりと顔を出すとまだ開店していない静かな店内が見える。
『ってあれ?マスター、どこにいるんですか?』
「先程からいるが」
『わっ!?礼さん静かすぎるんですよ、全然気づきませんでした』
いつもの早朝の支度。花のお世話を終えたら、先に仕込みをしている礼さんの手伝いをする。路地の人一人通れる細い隙間を通り、裏口から中へ入る。私が厨房に立つことはほとんどないけど、それでも、馴染むような感覚がする。
『あっそういえば礼さん』
「なんだ」
ぶっきらぼうな声だが、彼女は気にせず続ける。
『そろそろ桜の時期ですけど、発注先はいつものあの人の所で良いですよね』
「あぁ、頼む、それとナデシコは大丈夫そうか」
『はい、何個かもう咲いてますよ。マスターも合間を見て行ってきたらどうですか?』
「私はこちらだけで十分だ」
そう言い、礼さんは後ろの棚の戸を開け、ガラス瓶を一つ取り出す。その瓶には、その青紫色が色褪せることなく、砂糖によって白く宝石のように輝きを出している。この春の時期に食べる花だと、一番有名だと思うのが"スミレの砂糖漬け"。顔色変えず取り出したかと思うと、パクリと食べてしまった。
まったく、この人こういうお茶目な部分があるからなぁ。と呆れ半分、ありがたさ半分の顔で礼さんを見る。すると、礼さんはすっと手を出してきた。その手にはスミレの砂糖漬けがあった。
『どちらも見ればいいのに』
それだけ言って、彼女はスミレの砂糖漬けを受け取り食べた。
「君はそうしてくれ」
彼女が食べたのを確認し、礼さんは仕事に戻った。スミレの砂糖漬けは、いつもと同じように、甘さと上品な香りが黄金率で成立している。うん、さすが礼さん、甘くて美味しい。そう思いながら少し味わうと、仕事を手伝い始める。
PEARの開店時間は、他の喫茶店と大して変わらず、六時から開店する。そろそろ時間なので看板を回そうとドアを開けると、見知った常連客が一人、煙草を咥えて佇んでいた。
『苧環さん。今日も開店前からいらっしゃってくれたんですね。もう少し後から来れば良いじゃないですか』
コートを着た男は彼女に気づいていなかったのか、少し遅れて返事を返す。
「俺が来たくて来てんだからいいんだよ」
『苧環さんが良いなら何も言えませんが、まだ冬みたいに冷たいです。身体を冷やしてしまいますよ』
「なら今日は、少し熱めの珈琲をもらおう」
そう言うと煙草を胸ポケットに仕舞い、店内へ入って行く。気を利かせてくれたのか、煙草に火は付いていなかった。というか、私まだ看板かえてないんだけれど、と思ったけど常連さんはいつもこうかと思い、看板をOPENにかえる。気持ちを切り替えて、私はPEARへ帰る。
「お前は相変わらずの仏頂面だな櫨木」
「御注文を」
この二人はいつもこうだ。苧環さんは煽り、礼さんはピリピリしたオーラを放つ。どちらも顔が怖いのだからたまったもんじゃない。これで子供が居たら大泣きものだ。でも幸いな事に、苧環さんは毎日朝にしか来ない。モーニングセットは頼まず、ただ珈琲だけを飲んで仕事へ行く。
それが気になり、前に一度『なんで珈琲だけ頼むんですか』と尋ねたことがある。予想通りと言ったら予想通りだが、上手くはぐらかされてしまった。「男は静かに珈琲を飲むのがいいんだろ」と言われたのだ。
『苧環さん、最近ここら辺はどうなんですか?』
「ん?そうだな。最近は事件数も少なくて助かってるんだよ」
『そうなんですね、なら子供たちは安心できますね。さすがエリート刑事です』
彼、苧環 廉太郎は、県警の捜査第一課の刑事なのだ。
『コーヒーお持ちしました』
「ありがとう」
時間がゆるりとすぎていく。私はただの一店員にしかすぎないが、こうやってお客さんと一時を共有できるのがとても嬉しい。私たちが提供する時間が、より良いものとなるよう、頑張っていこう。
時間は忙しいお昼時になり、色々なお客さんが訪れる。多くは仕事の合間に来てくれる会社員の人だが、お爺様お婆様方も来店してくれるのだ。そんな事を考えながら接客していると、久しぶり、と言っても一週間ほど来なかった常連さんが来てくれた。その女性は、もう春を先取りして、明るい色でまとめた服はとても似合っている。トレンチコートを優雅になびかせながら入ってきて、私を見つけると、その端麗な顔を輝かせて近づいてきた。
「こんにちは!悠ちゃん!」
『お久しぶりです。紗苗さん』
紗苗と呼ばれる女性は、彼女の手を取ると「会いたかったよー!」と冷たい手でニコニコしながら手を握りながらブンブンと振る。
『わぁ、手が冷たいですよ、紗苗さん』
「今日やっと依頼が終わったから、すぐかっ飛ばして来たわよ。もう最近は忙しくて忙しくて」
手を離し、いかにも疲れていますという顔をする。
『デザイナーの職には就いたことがないので、想像することしか出来ませんが、紗苗さんが頑張っているのは知っていますよ。今日はゆっくりしていってください』
フリーファッションデザイナーの漣 紗苗と言ったら、超凄腕デザイナーとして有名だ。でも紗苗さんは、世界進出などは考えておらず、日本で活動している。
「うぅ、悠ちゃぁん。うん、今日はとびきり甘い物食べる」
『はい。是非そうしてください。席はどこをご希望ですか?』
「カウンターでお願い」
『かしこまりました』
夕方頃は学生さんが多くなってくる。子供の常連客はやっぱり少ないけど、それでも顔を出してくれる人もいる。家までの帰路の途中に、ちょこっと軽食を食べて帰っていくようだ。
「店員さん、注文いいですか?」
『あ、かしこまりました!』
「フィナンシェとスムージーを一つずつ。以上で」
『かしこまりました。少々お待ちください』
もちろん、興味本位で来店してくれるお客様もいるので、もう一度来てくれるように接客をする。いつもと代わり映えはしないが、保つことは頂点になることより難しいから、その点では私の得意分野だ。
『お待たせしました。フィナンシェとスムージーです。何かありましたら、直ぐにお申し付けください』
フィナンシェは押花を貼り付け焼く。そうすることによって花柄のお菓子になるのだ。バターの香りと花の香りがティータイムにぴったりなのだ。この時期のスムージーは、ローズハニーというバラのシロップをベースにして果物とヨーグルトで甘さを足す。PEARは季節限定料理が多いが、スムージーは季節に合わせて出しているドリンクだ。毎年、味付けを礼さんと相談している。
そうやって努力して作った料理を認めてもらって、美味しそうに食べる姿が、私は大好きだ。
「今日は良い日だなぁ!静井!」
「それはお前にとってだけだ、七海」
ベルが鳴り、騒がしい男子の声が聞こえてきた。その声を、私は聞いたことがある。
『いらっしゃいませ。七海君、静井君」
彼らの元へ小走りで行く。女子学生が多い中、学生の常連では珍しい、唯一の男子学生。
「こんにちは」
「こんにちは!神来社さん、今日カウンター席空いてますか?」
落ち着いていて、眼鏡をかけて知的な印象の静井君。対象的に、明るくて静井君をいつも引っ張っているのが七海君。そういえば、彼らはバレーボールの全国大会の常連校で、スタメンなんだとか。確かそれが理由で、最近来店する頻度が落ちたはず。来てくれるのは嬉しいが、忙しい彼らがその大事な時間をここに割いてくれるのは、本当にありがたい話だ。
『空いていますよ。席に案内しますね』
「いよっしゃ!俺何頼もっかな」
「テンション下げろ騒々しい。他の人の迷惑だ」
二人が座ったのを確認すると、水を注ぎながら話しかけてみる。
『二人とも、学校はもう始まったんですか?』
「明日からです。景気づけとかなんとか言って、朝から電話してきたんですよ」
「それ言わなくていいだろ」
『ふふっ、ありがとうございます』
もうそろそろ新学期が始まる時期なのか、学校に通っていた時期をすっかり忘れていた気がする。水を出しながら話を続ける。
『それにしても七海君。今日は随分と機嫌が良いですね。何か嬉しいことがあったんですか?』
「おっ、気づいちゃいましたか!」
静井君は相槌を打たず水を飲み、面倒くさそうに聞いている。
「実は、彼女とデートの約束できたんですよ!」
『わぁ、大進歩じゃないですか』
「部活が一段落するまで待っててってお願いしたんですよ」
「その間に逃げられたりしてな」
「縁起でもないこと言うなっ」
『彼女さんと付き合ってみて、どんな感じなんですか?』
「まぁ付き合ってみたらチャラいというか、少し印象変わったけど、許容範囲です!」
「楽観主義者はおめでたいよな」
「お前ー、俺のモテ期が羨ましいんだろ」
「どうしたらそんな風に考えられるのか、教えてほしいものだな」
二人のいつもの会話は、とても彼ららしい。他愛もない、日常の会話。でも、彼女さんの話はちょっと気にかかる。私の杞憂かもしれないが。
「夜になる時間が、だんだん遅まってきましたね」
『そうですね。春が来たって気がします』
「神来社さん、体を冷やさないよう気をつけてくださいよ」
『御忠告感謝します。粛賀さん』
「いやいや、単に僕がそうなって欲しくないと思っただけです。ここは好きなので」
夜はだんだんと人が少なくなり、会社勤めの常連客の人しか居ないくなる。その常連客でも男性は、粛賀さんしか居ない。前から思っていたが、粛賀 聡という名前は中々珍しいが、PEARの常連さんは珍しい名前が多い気がする。
『あの、粛賀さん。目の隈、大丈夫ですか?』
「あぁ、すいません。仕事が中々片付かなくて。今日は久しぶりに終電前に帰れそうです」
笑顔をしているが、目のこともあり陰りが見える。確かに粛賀さんは、ここ最近店に訪れなくなった。紗苗さんといい、皆さんも頑張っているからこそ、私も頑張ろうと思える。
『もう少しで閉店時間ですけど、ゆっくりしてってくださいね』
「はい、ありがとうございます」
『看板下げました、礼さん!』
PEARの閉店時間は、かなり遅めの九時。もう辺りは真っ暗で、遠くで人々が騒ぐ声がする。
「今日はもう帰るといい」
『断っても帰らせるんでしょう、まぁ礼さんらしいですけど。分かりました。お休みなさい』
控え室のドアを開ける。礼さんはいつもあぁだ、私の事を気にかけてくれてるのはありがたいけど、礼さんだってもう年なのに。
裏口から出ていく。冷たい風が吹いて、腕に鳥肌が立っている。まだ肌寒い空気を吸い、喉が痛い。
街灯が規則的に道路を照らしている。歩き慣れた、見慣れた道。でも、空気や景色はほんの少し変わっている。何年か前に出来たショップ。毎日挨拶を交わしていたご近所さん。前はあったのに、気づいた時には無くなっていた、色んなもの。それに気づけるだけ、私は幸せ者だろう。