五
台風十一号が今晩から明日にかけて蓬莱島を直撃する予定だとポータル・サイトのニュースが伝えていた。朝六時の時点ですでに、寮の窓は強風にがたがたと音をたてていて、庭では木立が激しく揺れていた。僕は会社が手配してくれたタクシーに乗って、チームのメンバーよりすこし早めに登校した。
高槻軍事高校の校舎は打ちっぱなしとガラス張りで構成された美術館みたいな建物で、校庭にはスポーツの設備が充実していた。とくべつなところと言えばおおきな射撃訓練場があることくらいだ。僕は軍事高校という響きから、基地や駐屯地みたいなところを想像していて、きっと自動小銃と荷物を担がされて、軍歌のようなものを歌わされながら、校庭を何周も走らされるのだろうと思って、戦々恐々としていたから、学校の外観を見て、かなりホッとした。
職員室へ行って、担任の二宮から、学校の説明を受けた。この学校には保安要員やエージェントやディフェンダー使いとして軍事会社に所属したり、あるいはアルバイトをしている生徒が多く、それに合わせて、かなり柔軟なカリキュラムが組まれているということだった。端的に言うと、科目ごとの出席数を満たし、中間期末をパスすれば、あとは仕事でもバイトでも自由にやって構わない、という仕組みだった。昼間、仕事が入って授業に出ることのできない生徒は、その日だけ夜間に通っても構わなかったし、忙しいときは一時的に通信制に移って、週に一回、レポートを提出すれば問題ないということだった。最悪、授業の模様を収録した動画を視聴してもいい。そのかわり学校はいっさい生徒の尻を叩いたりしないから、自己管理を徹底しろよ、と担任の二宮は言った。こういう学校の常で、学期末になると出席数やテストの点数が満たない生徒が大量に出て、補講や追試などでそうとうバタバタするという。おまえは大丈夫かと訊かれたので、しばらく病気で臥せっていて、期末がやばそうだと、正直に言った。二宮は無言で僕をしばらく見つめたあと、会社に相談してみろ、と言った。裏技がいろいろとあるみたいだった。
僕が所属することになる傭兵Ⅲ科は学校の花形で、ディフェンダー使いを志望し、その耐性を持つ生徒が集められていた。そのなかでも、実戦レベルにあって軍事会社と契約を交わしている生徒はごく一部だという。おまえなどは実はエリートで、クラウディエッジから出向してきた理事からくれぐれもよろしく頼むと言われているが、おれは昔気質でおまえをえこひいきするつもりはないから調子に乗るなよと、二宮から釘を刺されてしまった。
「それから、これはクラスの皆に言っていることなんだが」と、かれは急にシリアスな口調になって、「石上も軍事会社に所属している人間だから、ほかの会社といろいろないざこざや遺恨を抱えることになると思う。けれど、クラスにそれを持ち込むのだけは勘弁してくれ。ここは学び舎だ。おれは担当している生徒どうしがクラスで殺し合いをするのだけは絶対に見たくない。そんなことになったら即刻、教員をやめるつもりでいる。その程度の約束すら生徒に守らせることのできない奴に、教師をやる資格はないからな。……石上、ここには仕事のあれこれを持ち込まないと、約束してくれるな」
「……わかりました」
担任は僕の肩をポンと叩いて、じゃ、教室に案内する、と言った。
おれは赤シャツに屈しない坊っちゃんを心から敬愛している、みたいな話を、担任から聞かされながら、湿った風の吹きあれる渡り廊下を通って、教室に入った。
教室のなかは国際色が豊かだった。金髪に青い目をした白人の男女がいれば、ドレッドヘアの黒人もいたし、ヒスパニック系だかアラブ系だかの人もいた。東洋人は半分くらいだ。
僕は、担任から紹介されて、クラスメイトたちに挨拶をしたけれど、拍手してくれたのは窓際のうしろのほうに固まっているクラウディエッジの仲間たちだけで、ほかはほとんど無反応だった。それどころか、目も合わせてくれない。雰囲気が異様だった。
ちょうど、チームの仲間たちのすぐ近くに空席があって、僕はそこの席を宛がわれた。
メッセンジャー・バッグを肩にかけなおして、机のあいだを歩いていくと、きれいな白人の女の子が僕に微笑みかけてくれた。細身の身体と、ストレートの長い金髪と、水色の瞳。長い首にチョーカーがよく似合っている。なんだか妖精みたいだ。けれども、僕はこの独特の空気のなかで、なんとなく違和感をおぼえて、七六式を起動させ、ステータスを確認して、思わず背筋が寒くなった。ほんの僅かだけれど、情報障壁にアタックを受けていた。彼女は、僕が不審を抱いたことに気付いて、すばやく攻撃を引っ込めたみたいだった。僕はひきつった笑みをかえして、席についた。
きれいな花には棘がある、というやつか。マジ怖い。
隣のカオリに、
「あの子はどういう……」と、そっと尋ねてみると、
「学級委員のソフィア・ガンツ。割合いい人よ」と、彼女は応えた。
「あんた、転入早々に、外人の美少女に鼻の下を伸ばしてんじゃないわよ」と、蘭が後ろから言う。
「いや、そういう訳では……」
誰も、ソフィアという女のことを気にしていないのだろうか。
僕は七六式のブラウザを呼び出してウェブにつなぎ、学校のサイトに侵入して、ソフィア・ガンツの個人情報を参照した。ドイツ出身、ザルツブルク・インターナショナルに所属するアナライザーで、ハッキングや情報の収集や分析、仲間の支援などを担当しているみたいだった。ポジション的には、蘭とおなじだ。
あれは軽いいたずらのつもりだったのか。僕の隙を突こうとしていたのだとしたら冗談では済まない。
それにしても、このクラスを覆っている息苦しいムードはなんだろう。それに、転校生の僕に、ソフィア以外、だれ一人興味を示さない。
「ここの雰囲気、独特だね……」
エイジが椅子をさげて、僕の机に肘をかけ、
「みんな、おまえにビビってんだよ。なにしろおまえは、どこの軍事会社も手におえなかったバグを、瞬殺しちまった男だからな。とくに軍事会社と契約している連中は、現場でおまえと遭遇したら絶対に殺されると思って戦々恐々としているはずだ。いや、笑い話じゃねえんだよ。いくらクラスメートといっても、所属する軍事会社どうしが対立すれば、命がけで戦わなきゃならないからな。それなのに、仲良くできるわけがねえ」
「で、この空気……」
僕は教室を見渡して、すこし切なくなった。
「おまえも、よその軍事会社のヤツとはあまり仲良くならないほうがいい。あとでつれえから。もっとも、むこうが仲良くしてくれねえだろうけど」
「そっか。こういう学校はこういう学校なりに大変なんだね……」
担任が期末テストの日程を黒板に書きだした。僕は七六式にそれをテキストにして記録するよう指示しながら、僕がくるまで空いていたというこの席のことを考えた。おそらく、沢口という、亡くなったメンバーが使っていたのだろう。たしか、現場でディフェンダー・システムがフリーズしてしまい、命を落としたと、蘭が言っていた。
沢口くんとは、どんな人だったのだろうか。そのことに想いを馳せていると、突然、拡張現実のウィンドウが浮かび上がり、映像が映った。
茶髪の、すこし目じりのさがった青年が、ちょうど、この席に座っている。コンビニで買ってきた弁当を食べている光景が見える。ヒカルたちと冗談を言い合っているシーンが見える。僕はそれらを眺めているうち、沢口くんにすこしだけ親しみを覚えた。
それにしても、なぜこんなものが見えたのだろう。沢口くんがみずからの情報を仮想空間に紐つけしていた訳でもないだろうに。あるいは、七六式が、ウェブ上の断片的な情報をかきあつめて、拡張現実の形式に再編集し、僕に過去を垣間見せてくれたのかもしれない。
ディフェンダーは基本的に使用者の思考に反応して動くから、理屈のうえではおかしくはないのだけれど、あまり聞いたことのない話ではあった。
「ラッキー、一時間目は空き時間だわ」と、エイジが言った。「おまえら、午前中の予定はどうなってる?」
「射撃の実習とか、ディフェンダーの模擬戦とか、ズラッと入っていて、けっこう忙しいんだけど」と、カオリは難しそうな顔をして、「がんばるのは明日からにして、今日は昼までサボっちゃおっかな。台風がくるまえにお買い物を済ませたいんだよね」
「単位は余裕をもって取っておいたほうがいいわよ」と蘭。
「レイ、おまえはどうなん。暇ならゲーセン行って対戦やらね」と、エイジ。
「僕、しばらく寝込んで学校を休んでたから、それどころじゃないんだ……」
エイジは、僕の予定表をとって、
「うわなんだこれ地獄だな。朝から晩まで学科がみっしりじゃねーか」
「ご愁傷様」と蘭がなんだかうれしそうに言う。
「よかったね。かわいい女の子をさがしてる暇ないよ」と、めぐみが冷淡に言った。
もしかして怒ってる?
「津田も更科も、できれば余裕をもって単位を取ってくれよ。おまえらが落第したらリーダーの俺が叱られるんだから」と、ヒカル。
「大丈夫、ぜったい迷惑かけない」と、カオリ。「ねー津田」
「お、おうよ……」
「ほんとうに大丈夫か?」ヒカルがふたりに疑わしげな目をむける。
ホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「じゃ、がんばってね」めぐみはバッグを肩にかけて、早々に教室を出ていった。蘭とカオリがそれに続く。
「レイ、遠野のまえでよその女の話はしないほうがいい」と、ヒカルは小声で言った。「とくにソフィア・ガンツみたいな美少女の話は駄目だ。……じゃ、またな」
「授業に付き合ってやろうかと思ったけど」と、エイジは僕に予定表を返して、「数学はちょっと無理だわ。……なあ、サボっちまえよ」
僕はそうしたいのはやまやまだけど期末のことを考えたら到底無理だと言った。するとエイジは淋しそうに教室を出ていった。かれはもしかしたら、ハナから期末を諦めているのかもしれない。そんな顔つきだった。
数学の授業は実習棟の三階にある第三学習室で行われるらしい。僕はバッグをかついで廊下に出た。そうしてすぐ、おなじクラスの女子に呼び止められた。黒髪のショートの、男装が似合いそうな、さっぱりした感じのひとだ。
ニーハイの長い脚。ガーター・ホルスターに、自動拳銃を挿していた。
「あんた、クラウディエッジに入っちゃったんだ。かー、淡河に先を越されたわ。じつはあたしたちも、あんたのこと狙ってたのよ」
と、その人は言った。
「あんたに七六式を譲ったディフェンダー使いは木戸さんて言ってね。現場で何度も一緒になった」
「ということは、きみは周防ロジスティクスの所属?」
「そう。木戸さんの仇をとってくれて、ありがとね。あたし、あのひとの奥さんと子供さんに会ったことがあってさ」
「そうなんだ……」
「名前、まだ言ってなかったね。黒木碧っていうの。よろしく」
「こちらこそ」
「でね……」と、碧は声をすこし落として、「ソフィア・ガンツのこと、警告しておこうと思って。さっきあの女、あんたのディフェンダー・システムに侵入しようとしたでしょ。軍事会社どうしの対立を学校に持ち込むのはマナー違反なのに。タチわるいのよ、あいつ。それに、あんたたちのアナライザーの望月さん、ガンツに侵入の糸口を付けられていることに気付いてないと思う。もしかしたら、いい人だと思っちゃってるのかも。いちおう、警戒はしておいたほうがいい。いざというとき、命取りになるかもしれないから」
「わかった……」
「そんだけ。じゃあね」
碧が歩き去っていく。そのうしろ姿を、僕は漫然と眺めた。そうしてふと、予期しないものに目をとめた。廊下の角から、めぐみが顔だけを出して、僕を見ていた。視線が合うと、彼女はあやしく微笑んで、ゆっくりと顔をひっこませた……。
あれはきっと、完璧に誤解をしている。僕はダッシュでめぐみのあとを追ったけれども、廊下を曲がったときには、彼女の姿はどこにもなかった。
ちゃんと説明しなきゃ、ちゃんと説明しなきゃ、とぶつぶつ呟きながら実習棟の階段をあがって、ふと気づくと、屋上のドアのまえに立っていた。はめごろしの窓から見える空は暗く曇り、フェンスは強風にがちゃがちゃと鳴っている。
小雨がパラつき始め、屋上のコンクリートに斑を描いていた。
蒸し暑かったせいもあって、僕はなんとなく風に当たりたくなって、重いドアを押し開き、外へ出た。そうして、給水タンクの脇のあたりに、また拡張現実っぽい映像を見た。
夕日が高層ビルのかなたへ落ちていこうとしている。たなびく雲は桃色に輝いていた。黄昏のひかりのなかで、長い金髪が燃えるようだった。
ソフィア・ガンツと、沢口くんが、抱き合っていた。
僕はそれを見た瞬間、なにもかも分かったような気がして、ただちに裏付けにかかった。付近のラブホテルやビジネスホテル、観光用のホテルのネットワークをかたっぱしから呼び出しては、防犯カメラに侵入して、映像検索をかける。なにもひっかかってこない。すこし考えてから、沢口くんとソフィアの画像を一般的な形式で削除した状態のものをいくつか作って、ふたたび映像検索をかけると、いくつかのデータが引っかかってきた。
すべて、削除済みのものだ。僕はそれらを、AIに復元させてみた。
そうして僕は、ソフィアと沢口くんが、そういう関係にあったことを確信した。
ソフィアは鏡に囲まれた丸いベッドのうえで、沢口くんにブラのホックを外させながら、ヒカルと望月の情報をさりげなく要求した。ディフェンダーのセッティングに関するもののようだ。沢口くんは手をとめて、それを拒んだ。沢口くんが背をむけると、ソフィアは顔を歪め、すさまじい目つきでそれを睨んだ。
金髪の美少女の白い腰に彫られた、青いハイビスカスのタトゥーが見える。やがてことが終わり、沢口くんが寝入ってしまうと、ソフィアは沢口くんのディフェンダーに侵入を試みはじめた。彼女が空間に呼び出したと思われるタッチパネル方式のウィンドウをAIに補完表示させてみた限りでは、そう考えるより他にない。ウィルスを仕込もうとしているらしい。しかし、自動モードの情報障壁に阻まれた。ソフィアはそれでもごりごりと侵入を試みて、部分的に障壁を突破することに成功したが、ウィルスを埋め込むには至らなかった。かわりに、沢口くんのディフェンダー・システムの基幹部分が、一部破損してしまった。
沢口くんのディフェンダーが現場でフリーズしてしまった、ほんとうの原因は、それだ。
僕は舌打ちをして、学校のサーバーに侵入し、授業の出席状況のデータを参照して、ソフィアがいまなんの授業を受けているかを調べた。数学の授業はもう捨て置くことにして、音楽室のまえへ行き、一時限目が終わるのを待った。
滝廉太郎の花の旋律が聞こえてくる。
やがてチャイムが鳴り、ほかのクラスの女子たちに混じって、ソフィアが出てきた。彼女は僕に気付くと、映像のなかで沢口くんにしたのとまったく一緒の、あの可憐な笑みを浮かべた。
僕は、「話があるんだけど」と、ソフィアに言った。
ドイツ系のきれいな少女をともなって屋上にむかう途中、廊下を歩いていた生徒たちが、忽然と消えた。そうして、空間に不気味な文字列が流れはじめた。
空間バグだ。いやなときに起こってしまった。バグが終わるときに収束が起こる。辻褄あわせが起こる。僕とソフィアのうち、どちらかが死んでも、学校には痕跡が残らない。そのことがソフィアに間違った判断をさせる恐れがあった。
僕はため息をついて、屋上のドアをひらき、ソフィアを先にいかせて、僕も強風のなかへと出た。
ソフィアの金髪がなびいている。
「日本の男の子ってみんなシャイなのに、あなたは違うのね……」
彼女はあいかわらず、誘いかけるような、不気味な笑みを浮かべていた。
「話って、なにかしら」
「きみは沢口くんのディフェンダーに侵入しようとしたね。それでシステムの基幹部分を傷つけた。それが原因でかれは現場でディフェンダーをフリーズさせてしまい、死んだ。つまり、きみは学校に軍事会社の事情を持ち込んだことになる。マナー違反だよ」
「いったいなんのこと」
「いま、映像ファイルを見せる」
ソフィアは、黙り込んだ。
「そっちから仕掛けてきたのだから、僕たちには報復する権利がある。でも、僕は仲間たちにこの話をするつもりはないし、きみに報復もしない。二宮先生との約束もあるからね。そのかわり、金輪際、僕と仲間には手を出さないと約束して欲しい」
とつぜん、ソフィアは涙をこぼし、手で口元をおおった。
「お金が……必要だったの。会社から言われて、断れなかった。どうしても、淡河くんと望月さんの情報が必要だって……。お父さんが病気なのよ。遺伝性の疾患で、レトロ・ウィルスを使った治療をするしかないの。それには、膨大な治療費がかかって……」
僕はネットワークを呼び出し、ソフィアの個人情報から、ドイツの父親の勤め先を参照した。会社のサーバーの記録によれば、かれは今日も元気に通勤していた。それどころか、ここ数年、二日連続で休んだことがない。
僕は、そうなんだ、とだけ言った。
「わたしも、あんなことになるとは思っていなくて……」
「沢口くんのことは事故だと思っておくことにするよ。それじゃ」
僕は背を向けながら、光学ステルスとジャミングを重ねて仕掛けた。案の定、彼女に見せた幻影は、すぐにプラズマの焔に包まれた。
そのときすでに、僕はソフィアの隣に立っていた。
「悪いけれど、きみは僕に勝てない。……次やったら、ほんとうに怒るよ」
彼女は、僕の気分ひとつで脳幹を焼かれかねない状況にあることをやっと理解したらしく、真っ青になって、がくがくと震えはじめた、
その足許に、小雨とはべつの染みがひろがった。僕は、きったねえ、と思いながら飛びのいた。
屋上のドアをあけて、階段をおりていくと、ヒカルが廊下を走ってきた。そうして上履きをすこしすべらせて、僕のまえで止まった。
「レイがソフィア・ガンツに関心を示した意味がやっと分かった。あいつは上にいるのか」
「うん……」
「クソ女が」と、ヒカルは顔に怒りをあらわにして、「空間がバグを起こしているし、ちょうどいい、ブチ殺してやる」
「待って」
「なぜ止める」
「沢口くんは、たぶん、報復を望んでいない。あの人のことが本気で好きだったんだと思う」
「けれど、だまされていたんだぞ」
「それが許せなかったら、彼女から情報を求められたことを、みんなに知らせただろうし、その場で彼女との関係を切ったはずだよ。沢口くんは板挟みになって、苦しんでいたんじゃないかな」
「………」
ヒカルには、思い当たることがあったのだろう。自分を落ち着かせるように、ため息をついた。それからすぐ、長い金髪をポニーテールにした、グラマーな女子――蘭が、階段をかけあがってきた。
彼女は肩で息をしながら、
「ごめんなさい、完全にわたしのミスよ。……ソフィアを始末してくるわ」
僕とヒカルは、その腕を左右からつかんだ。
「いいんだ」と、ヒカルは言った。「レイが殺害に反対している。リーダーとしてかれの意見を尊重したい」
「……そう」
「けれども、レイ、言っておくぞ。あいつがまた、俺たちにふざけた真似をしたら、つぎは殺すからな。俺にはみんなを守る責任がある。わかってくれ」
「うん、それは理解してる……」
蘭はその場にぺたっと座り込んで、眼を潤ませた。
「沢口が死んだのは、結局、わたしのせいだったのね。わたしがもっとしっかりしていれば……」
ヒカルは傍にしゃがみこんで、蘭の背中にそっと触れた。
「あまり自分を責めるな。気づかなかったのは俺もおなじだ。望月はほんとうによくやってくれている。感謝しているよ」
「ごめんね、沢口……」
蘭が顔をふせると、涙があごから落ちて、ストッキングにちいさな水玉を描いた。
ようやくその日の授業を終えて、昇降口へむかうと、めぐみが下駄箱のまえにぽつんと立っていた。
彼女は僕に気づくと、ぎこちなく笑みを浮かべて、
「一緒にかえろ」
「あ、うん」
僕は上履きをしまって革靴を出しながら、さて、どうやって機嫌をなおしてもらおうかと、頭を悩ませた。
昼頃には本降りになりそうだった雨も、いまはあがっていたけれど、依然として風は強く、体育館の脇のクヌギは、枝葉をしきりにざわつかせていた。
並んで歩きながら、めぐみは無言だった。
なにか喋らなければと焦るほど、言葉が出てこない。ときおり風が穏やかになると、ほんのりと柑橘系のいい匂いがした。僕はそのことを何度も言おうとして、結局いつまでも黙っていた。
「午後の授業をサボって、カオリと一緒に香水を見にいったの」と、めぐみは沈黙に耐えかねたように言った。「大人っぽい香水をつけてみたかったけれど、高校の制服から、ブランドの香水の匂いがしたら、なんか変だよね。精いっぱい背伸びをしてる、遊んでる子みたい。だから、シトラスにしてみた」
「うん……」
「あーあ、はやく大人になりたい。わたし、JKとかもういい。高級な香水の匂いが似合う、素敵なおねえさんになりたい」
「いまでも、充分に似合うと思うよ……」
「似合わないよ」と、めぐみは怒ったように言った。
黒髪がさらさらとなびいている。めぐみはときおり、スカートを両手でおさえた。僕はめくれて欲しいような、欲しくないような、その想いのあいだを揺れ動きながら、なるべく彼女の腰や腿のあたりを見まいとした。
「蘭とカオリから聞いたよ」と、めぐみはうつむいて、「レイくんが寮にきた日、高そうな香水の匂いをぷんぷんさせてたって。もう、年上のカノジョがいるなら教えてよ。ねえ、どんなひとなの。こんど、会ってみたいな」
「そんなのいないから」
と、僕は強く言った。そうして、蘭とカオリを味方につけないかぎり、この恋はいつまでたっても実らないんじゃないか、という気がしてきた。
「じゃ、どうして香水の匂いなんか……」めぐみはなんだか泣きそうだった。
「お母さんだと思う」と、僕は言った。「いつもシャネルの香水をつけてるから」
黒髪の美少女は、とつぜん立ち止まって、ハッ、と言った。
「どうしたの」
「……レイくん、お母さんと抱き合ったりするの?」彼女は別人みたいに険しい目つきで、僕を見る。「だって、そうでもしないと、匂い、うつらないよね。ふつう、香水って、首とか胸元につけるんだよ。肌にじかにつけるんだよ」
「そ、それは……」
「レイくん、もう十五歳だよね。幼稚園の子とかじゃないよね。なのに、お母さんと、まだ、香水の匂いが移るようなことを、しているの?」
「………」
めぐみはきれいな顔をゆがめて、
「わたし、レイくんがマザコンとか、ぜったいにヤダ……」と、掠れた声で言う。
それから僕たちは、寮に帰るまで、言葉を交わさなかった……。