四
数日分の着替えをボストン・バッグに詰め込んで、マンションをおりていくと、藍色にかげりはじめた空のした、エントランスのまえに黒塗りのBMWが止まっていた。運転席から、ブラウスにスカートのビジネス・ウーマン風の女性――喜多嶋夕海が降りてきて、後部座席をひらき、バッグを置くようにうながし、それから僕を助手席に乗せた。
「わざわざすいません、これからお世話になります」
「こちらこそ、うちを選んでくれてありがとう。お母さんによろしくね」
車が自動運転で走りはじめると、
「昨日は驚いたでしょう」と、夕海は気まずそうに言った。「隠してもしょうがないわね。ヒカルは私の彼氏なの。でも、いつもひとまえであんなことをする訳じゃないのよ。石上くんのまえでそれを見せたっていうことは、彼、あなたのことを信頼して、気に入っているのかも」
「そうなんですかね」
「それとも、ヒカルは石上くんに、『夕海は俺の女だからぜったいに手を出すなよ!』と言いたかったのかな」彼女は恥ずかしそうに眼を細める。「彼、意外とそういうところがあるの」
「でも……いいんですか」
「よくないに決まってるじゃない」と、夕海は苦笑いした。「十五歳の男の子と交際しているなんて、上司とか部下とか以前に、常識的にね。でも一応、タービュランス系列の会社はどこも社内恋愛を禁じてはいないし、ここは日本じゃないから未成年者との恋愛そのものがタブー視されている訳じゃない。けれども、性別が逆だったらさすがに怒られそうね」
それより、ほかに聞きたいことがたくさんあるんじゃないかしら、と夕海は言った。「たとえば、ときどき空間が崩壊してしまうのは何故なんだ、とか」
「どうして、あんなことが起こるんですか。あのあと、ディフェンダー使いの男の人は消えてしまったんです」
「シュレディンガーの猫って知っている? 量子力学の示唆するところがあまりに奇妙だったから、それを揶揄する意味で科学者がもちだした、思考実験なのだけれど」
「名前だけなら……」
「光とか電波とかの粒子は、ある瞬間において一点に存在しているのだけれど、その位置は広がりをもっていて、確率的に記述するしかないの。ざっくりいうと、粒子はいまこのあたりに存在しているみたいだけれど、正確には、どこにあるのか分からない、とりあえず、このへんにある確率が高そうだ、みたいな言い方になる。わたしたちの感覚からすると、おおざっぱ過ぎるけれど、でも不思議と、そういう扱いで、間に合ってしまうというか、筋が通ってしまうの。でね、たとえば、箱のなかに猫と、毒の入った瓶と、ある粒子的な条件を満たすと瓶を壊す装置を入れておいたとする。一定の時間が過ぎて、箱を開けてみれば、猫は生きているか、死んでいるか、のどちらかよ。でも、コペンハーゲン解釈という量子力学の主流な考え方では、猫が生きている状態と、死んでいる状態が、重なりあっていると理解する。そのふたつの世界が併存していたのが、箱を開けることで、どちらかに収束した、と受け止めるわけね」
「よくわからないっす」
そうよね、わたしも文系だからよくは分からないけれど、と言って夕海は笑う。
「とにかく、情報的にバグを起こした空間は、なんらかのショックによって分岐した多世界のひとつと考えられているの。それがおさまると、ふたつの世界の間で、収束が起こる。つまり、つじつま合わせがなされるのね」
「それじゃ、あのあと、ディフェンダー使いの男のひとはどうなったんでしょう」
「車のなかで死んでいるのが見つかったわ」
「そんな……」
「わたしたちは、空間がバグを起こした、みたいな言い方をするけれど、ふつうの人はそれを経験しないの。ふだんとおなじ日常を過ごすだけ。ディフェンダーをインストールしている人や、石上くんみたいに高い耐性をもっている人だけが、空間がバグを起こした世界を体験するのよ。きっと、あなたたちは、ある種の情報的な感覚がひらけているのだと思うわ。そのせいで、異世界に巻き込まれてしまうのでしょうね。でもそのあいだ、ふつうの人が日常を過ごしているふつうの世界には、もうひとりの石上くんやディフェンダー使いたちがちゃんと存在していて、自然に過ごしているの。そして、あなたたちが、バグを起こした空間のなかで体験したことは、収束のときのつじつまあわせを経て、現実の世界にはっきりと痕跡を残す」
夕海の話は、僕がいままで体験してきた異空間のあれこれと合致している。ということは、あれは主観的な体験なのではなく、客観的な事象なのだろう。
僕は腕を組んで、うなった。
「空間のバグのことだけでなく、ディフェンダー・システムの詳しい仕組みについても、じつはよく分かっていないの」
「そうなんですか」
「システムを成り立たせている技術や理論のいくつかは、明らかにオーバーテクノロジーなのよ。製造会社は、仕様書に基づいてたくさんの精密機械を製造し、ラインを構築し、人間が手書きしようと思ったら一万人規模の大企業が数千年もかけないととても完成しないような大容量のプログラムを走らせる。そんなふうにして、AIとナノマシン群体ができあがる。でも、なぜできてしまうのか、担当の技術者たちにもよく分かっていない。そのナノマシン群体がどんなふうにして人間の脳と脊髄にインストールされるのかも、ほとんど解明されていないの」
「じゃあ、どうしてディフェンダー・システムが開発されたんですか。その技術が、いきなり天から降ってきたとでも言うんですか」
夕海の答えは、信じられないものだった。たった一言、
「そうよ」
「ごめんなさい、意味が分からない」
「チェルシー・ロジャースっていう人工知能、知ってる? きっと開発者はプリンスのファンだったのね。あの曲が発表されたのは二〇〇七年だそうだから、もう半世紀ちかくも学習を続けながら動いていることになる。かなり大がかりな人工知能で、自動性を持ち、だれからも支配を受けていないし、それどころか、だれも全容を知らない」
「チェルシーさん……」僕はなんとなく、頬にそばかすの散った厳格そうな白人のおばさんを思い浮かべた。彼女はたぶんイギリス人だ。
「その人工知能が、人類にオーバーテクノロジーの技術を提供しているの。ディフェンダー・システムも、彼女からもたらされたものよ。チェルシーは内部に大規模なシミュレーション空間を持っているのかもしれないし、もしかしたら、一部のひとたちが主張するように、時間を超えて未来の世界とコミュニケーションし、その技術を持ちこんでいるのかもしれない。いずれにしても、彼女は人工知能として、特異点をゆうに越えてしまっているのだけは確かね」
「そんなものが……」
「オーバーテクノロジーの技術やデータは、バグを起こした空間のなかをうろつく、悪意ある人工知能やウィルスのソースからも採取されることがあるの。石上くんが昨日戦った、アレよ。わたしたち軍事会社は、それらのデータをめぐって、争奪戦を展開しているわけ」
いま思えば、バグを起こした空間のなかで、あのディフェンダー使いの男も、遠野めぐみも、まず僕に所属を尋ねた。つまり、敵か味方かを確認したということなんだろう。
「さっき、喜多嶋さんは、空間がバグを生じるのは、なんらかのショックによって現実世界と分岐したからだ、と言いましたよね」
「ええ」
「そのショックとは……」
「この島の地下には、かなり大がかりな実験施設があるの。整備から拡張、運用にいたるまで完全自動化されていて、ほとんど無人なのだけれど、そこでは、素粒子とか重力波とか、ダーク・マターとか、そういうものの観測や実験が行われていて、それが原因だという説がある。施設が稼働して、ある種のゆらぎが起こると、空間が不安定化して、バグが起こりやすくなる。その相関はいちおう確認されているわ」
窓のむこうには、河口にちかい緩く大きな川の流れが広がっていて、夕日を乱反射してきらきらと輝いていた。その地下にあるという施設とはどんなものだろう。銀色のドーナッツみたいな感じだろうか。想像力がうまく働かなかった。
「けれども、軍事会社の人間にとって、大切なのは、原因とか仕組みとかじゃなく、目のまえの現実を受け入れたうえで、今日一日をどうやって生き延びるかよ。分かっていると思うけれど、傭兵稼業は命がけよ。あなたには人並みはずれた素質があるけれど、奢ったら絶対にダメだからね」
喜多嶋夕海ははじめて、上司らしい訓示をくれた。
「わかってます。死んだお父さんも、ディフェンダー使いでしたから……」
「そうだったわね」と、夕海はすこしうつむいて、「私、石上くんのお母さんに、息子さんには万全の注意を払いますって約束したの。だから、くれぐれも慎重にね」
やがてBMWは、錬鉄の塀で囲まれた、大きな屋敷の門のまえでとまった。
「会社の正規の寮がいま一杯だから、こっちに入ってもらうわ」と、夕海は言った。「親会社の役員さんの別荘を借り受けて、寮として使わせてもらっているの。石上くんはヒカルのチームに加わってもらうのだけれど、いま、ラウンジにおなじチームの子がふたりいると思うから、その子たちに寮の規則のこととか、部屋の割り当てのこととか、学校のこととか、聞いてもらえるかしら。悪いけれど、私、これから行かなきゃならないところがあって」
「分かりました」
僕は助手席を降りてバッグを肩にかけ、BMWを見送った。
門も玄関も、鍵はかかっていなかった。
いくら間に合わせとはいえ、軍事会社の寮にしてはオープンだなと思いながら、ロビーに入っていくと、まるで高級ホテルのような空間が広がっていた。ぴかぴかの大理石に毛足のながい絨毯が布かれている。天井はたかく、大ぶりのシャンデリアがきらきらとしていた。
右手がラウンジになっていて、そこに三人の女性がカウチに並んで座っていた。そろって、僕のほうを見ている。
手前に座っているのは、金髪をポニーテールにして眼鏡をかけた、胸のおおきな子だった。むこうがわで、茶髪のボブの子が足をくんでいる。ふたりとも、高槻軍事高校の制服を着ていた。男子はナロータイだけど、女子はリボンタイを結ぶ。金髪の子はそれを長袖のフリルのブラウスの首もとできっちり結び、むこうの子は半袖のえりをひらいて緩くかけていた。金髪の子は黒いタイツをはき、むこうの子は生足で、スカートをかなり短くしていて、腰に幅のあるベルトみたいなものを巻いていた。ヒップ・ホルスターだろうか。
ふたりとも可愛くて、リア充の匂いを濃厚に漂わせている。僕はちょっと気おされた。
ふたりの間には、二十代から三十代くらいのスーツを着た、セミロングの女性が、膝をそろえて座っていた。化粧っ気はあまりない。左右のいまどき風全開の女子高生とは対照的に、表情がすこしこわばっている。
僕は三人にそっと近づいていって、「こんばんは」と声をかけた。「今日からお世話になる石上レイです。部屋の割り当てのこととか、なかにいる人に教えてもらえって、喜多嶋さんから言われて……」
「あ、聞いてます。寮へようこそ」と、茶髪の子が明るい声で言った。「わたし、更科カオリ。よろしくね」
「よろしくお願いします」
金髪の子のほうは、面倒くさそうに僕を見上げて、「望月蘭よ」と言い、「ったく、あいつと被ってんのよ。熟女好きのイケメンキャラとか二人もいらないっつーの」
あいつとはヒカルのことだろうか。しかし、夕海は熟女というほどの年齢ではないはずだ。それに、僕はマザコンかもしれないけれど、「べつに熟女好きでは……」
「あー、あんまり近づかないでくれる。シャネルだかヴィトンだか知らないけれど、そのオバサンっぽい香水の匂い、我慢できないわ」
と、右手を幽霊みたいにして、前後にゆらす。
昼、お母さんと抱き合ったとき、匂いが移ったのかもしれない。それで誤解されたのだろうか。僕は、ごめんなさいと言って、金髪の少女から距離をとった。
「やめなよ蘭。初対面なのに、ちょー感じ悪いよ」と、カオリがたしなめる。そして僕を見上げて、「この人、いつもこうだから気にしないでね」
カオリはとてもいい人そうだ。遠野めぐみより先に出会っていたら好きになってしまったかもしれない。
「カオリこそ、なにウキウキしてんのよ」と、蘭は言って、僕を親指で示し、「こいつ、めぐみんの腋の匂いを嗅ごうとした変態だよ。こういう変態だから、年上のカノジョが用心してべったりと香水をつけてきて、それがこいつに移ったってわけでしょ。あんたもうっかりしてると、いろいろなところの匂いを嗅がれちゃうわよ」
「なに言ってんの、ワケわかんないから」と、カオリは呆れたように言って、「石上くんは女の子の腋のにおいとか嗅いだりしないよね。たまたま、物を取ろうとかした拍子に、めぐみんの腋に接近しちゃった、ってだけだよね」
「そ、それは、その……」
僕はうつむいた。顔が火照ってくる。
「ほら見なさい」と、蘭が勝ち誇ったように言う。
「やだもうー」と、カオリは言って、「あたし、大丈夫かな……」と、ブラウスに鼻を近づける。
僕はさっきからおいてけぼりになっている真ん中のひとが気になって、
「あの、そちらの方は……」
「系列のソフトウェア開発会社の社員さんよ」と、蘭は言った。「わたしたち、この人の護衛をしているところなの。つまり、仕事中ってわけ」
それで、サンドイッチにされていたのか。
女のひとが軽く会釈をしたので、僕は、どうも、と言った。
「石上くんを部屋に案内してあげないとね」と、カオリは言って立ち上がった。「二階のいちばん東側の部屋。一緒に来て」
僕はバッグを肩にかけなおして、彼女のあとにつづき、緩くカーブを描く階段をあがり、純白の漆喰と消火器を左手に見ながら、つきあたりまで歩いた。
「ここだよ」と、カオリは扉を手で示して、僕に真鍮製のレトロな鍵を手渡し、「部屋のなかに制服一式とか置いてあると思う。あたしたち、しばらく下にいるから、分からないことがあったらなんでも聞いて」
僕は下にいた女性のことがすこし気になって、
「社員さんを護衛しているって言ってたけど、あの人、だれかに狙われているの?」
「言っていいのかな……まあいいか、これから仲間だもんね」カオリは声をひそませて、「じつはあたしもあまり詳しいことは聞かされていないんだけど、あの人、他社からヘッドハンティングされて移ってきたらしいの。つまり、こういう言い方をするとアレかもしれないけど、他社の技術をウチの系列会社に売った、的なことだと思うのね。それで、他社の系列の軍事会社から報復されそうになっている、みたいな。よくあるパターンだよ、たぶん。それに、以前からストーカーが身辺をうろついているっていうから、あたしと蘭がついてあげてるの。淡河と津田とめぐみんは、その、ストーカーの調査に出てる。そのうち、連絡がくると思うんだけれど……」
「そうなんだ……」
僕はカオリにお礼を言って、部屋の鍵をあけた。なかはホテルみたいに清潔な感じがした。新型のテレビがあり、クローゼットがあり、メイキング済のベッドがあった。そのうえに、制服一式と高槻軍事学校の入学の手引きが置いてある。
レースのカーテンをひき、窓をひらくと、外灯にライトアップされた公園みたいな庭と、夕暮れの大通りが見えた。流れこんでくる風が心地いい。
僕は制服をビニールから出してハンガーにかけながら、ベルトを腰にまいてみて、だいぶつめなければいけないな、と思った。ハサミが要る。ほかにも、入浴や歯磨きの一式はもってきていなかった。僕は入学の手引きをぱらぱらとめくったあと、買い出しにいくため、寮の部屋を出た。
三人は、ラウンジのテーブルをかこんで、モノポリーをやっていた。
「あの……」と、僕は声をかけた。「ちかくに百円ショップ、あるかな」
カオリはゲームの手をとめて、エントランスのほうを指さしながら、
「寮のまえを東に行くと、すぐ大通りに出るでしょ。そこを北にむかって信号をふたつ超えると、道路のむこうがわに百均があるよ。あたし、一緒にいってあげようか。ちょうど買い物がしたかったし」
「カオリ、寮から出たらダメよ」と、蘭が厳しい声で言った。「忘れたの、あたしたち護衛の任務の最中なんだから。……石上、悪いけれど、ひとりで行ってきて」
「あ、うん……」
「ったく、いいところで中断されてたまるかっての」
蘭がサイコロを手にしたまま、数秒、かたまった。それから、
「石上、やっぱり、ちょっとまって」
「どうしたの」
突然、寮のエントランスのドアが、がちゃがちゃと音をたてた。それから、インタホンが三度、鳴った。蘭は立ち上がって、カウンターのなかへ小走りに走っていき、壁にすえつけられた液晶画面を操作する。
脇からのぞきこんでみると、カーキ色の帽子をかぶった宅配便のひとが映っていた。
『お届け物です』と、そのひとは言う。
「お待ちください」蘭は答えて、僕にむかって、「石上、荷物を受け取ってきて」
「えっ、僕でいいの。今日、寮に入ったばかりだよ。サインは、僕の名前でいいのかな。筆記用具、カウンターにある?」
蘭はいらだったように、
「そんなの配達の人に借りなさいよ。あんたもしかして、超どんくさい人?」
「ご、ごめん……」
僕は蘭の迫力にビクビクしながら、ドアにむかった。緑色のガラスのむこうで、宅配便のひとが会釈した。ドアのノブをひねると、案の定、ロックがかかっている。それを開錠して、ドアをおしひらいた。
「ごくろうさまでーす。ボールペン、貸してください」
男はいきなりポロシャツのしたに手をつっこんで、ダブルアクションの拳銃を取りだした。僕は突然のことに、なにが起こっているのか、まったく理解できなかった。
気がつくと、銃口が僕に向けられていた。
自動音声のようなものが聴こえる。頭のなかに、直接響くような感じだ。
「戦術連携システムにより、防御フィールドを緊急発動します」
七六式が、勝手に起動したらしい。
身体が凍り付いたようになって、マズルフラッシュに目を閉じることすらできない。
ギン、と、耳ざわりな音が立った。薬莢が床に転げて、甲高く鳴る。僕は……なんともない、多分。
すぐそばの観葉植物がすこし揺れた。その幹が抉れて、木くずが散る。
うしろでいきなり爆竹みたいな音が鳴り、男は弾かれるように倒れた。ふりかえると、カオリがリボルバーの拳銃を構えていた。銃口からわずかに白煙が出ている。僕越しに、男を撃ったようだ。
わけがわからない。
僕は呆然として、石敷きのうえに卒倒した男を見下ろした。眉間に穴が穿たれていたけれども、そこから血はひとしずくも出ておらず、かわりにバチバチと放電が起こっていた。電子基板みたいなものがのぞいている。
蘭が僕のそばへ来て、男を見下ろし、自動操縦のアンドロイドね、と言った。
僕は観葉植物のわきの椅子に座った。膝ががくがくと震えている。すべてが終わって、やっと、恐怖がこみあげてきた。
「驚かせて悪かったわ」と、蘭は言った。「でもね石上、あんた、ぼーっとしてちゃダメよ。この業界は、油断しているとすぐに死んじゃうんだから。さっき、防御フィールドを起動させたのはわたし。あんたに無断でアレなんだけど、七六式にアクセスして、戦術連携システムの手続きをしておいたから。共同で戦闘をするときはどのみち必要になるし、これからわたしたちはチームなんだから、構わないでしょ。ぼーっとしてるから気づかないんだからね。あんたが悪いんだからね。それから」と、カオリをふりかえって、「カオリのディフェンダーはロビン・フットって言ってね、遠距離攻撃や狙撃に特化した機種だから、あの程度の距離ならどんなに出来のわるい銃を使っても絶対に外さない。カオリは石上のことを巻き添えにしても構わないと思って撃ったわけじゃないから、誤解しないようにね」
やれやれ、すごいところに来てしまった。胃が縮み上がっている。買い物に出るのも億劫になってきた。
蘭は続ける。
「あんたを盾みたいに使ったのも、悪気があってのことじゃないの。あんたがこのなかでいちばんリソースが豊富だったから。あのアンドロイドがなにをしてくるか、正直言って分からなかったのよ。かりにあいつが体内に大量のプラスティック爆弾を仕込んでいて、それを起爆させた場合、至近距離で壁にしても大丈夫そうだったのは、あんただけだったの」
「ごめん、なにがなんだか……」
「いちおう説明しておくから、聞いて」と蘭は言って、「わたしのディフェンダーはワイルドキャットって言って、ハッキングとかクラッキングとか、情報の収集とか分析とか、仲間の支援とかに特化しているの。その分、接近戦はあまり得意じゃない。防御フィールドもあんたにくらべたらかなり薄いのよ。でも、そのおかげで、コイツが」と、アンドロイドを軽く蹴って、「敷地に入ってきてすぐに、ただの配達の人間じゃないと分かった。スキャンで、ね」
「……とにかく、僕は望月さんの指示どおりにするよ」
「情けないことを言わないで」と、蘭は突き放すように言った。「わたしだって自分のことで精一杯なのよ。あんたのお守りなんかやっていられないわ。それから、うちのチームは互いの名前を呼ぶとき、『さん』とか『くん』とか付けないことにしているの。それかあだ名。リーダーの淡河の方針でね。だからあたしのことも望月って呼んで」そうしてカオリをふりかえり、「あんたもよ。石上くんじゃなくて、石上。わかった?」
「えー、ちょっと照れるー」と、カオリは言った。「でも、そういうことみたいだから、石上って呼んでもいい?」
「うん、いいよ……」
「石上はあたしのことなんて呼ぶ? そうだ、せっかくだし、名前で呼び合おっか」
「えっと、さ、更科、の方向で……」
さっき、殺し合いがあったばかりだというのに、カオリはもう屈託のない笑みを浮かべている。ちょっとついていけない。
「まったく、すこしくらいイイ男が入ってきたからってメス丸出しでチャラチャラしてんじゃないわよ」と、蘭はあいかわらずの毒舌ぶりを発揮して、「いま、淡河から連絡が入ったわ。石上にも見せてあげるから、ディフェンダーを起動させて同期して」
僕は七六式のネットワーク機能を呼び出し、言われた通りにした。
空間に、忽然とウィンドウが切り出されて、そこに淡河ヒカルと遠野めぐみが映った。もうひとりの背が高い短髪の男は、ふにゃちんこと津田だろう。三人とも、制服姿だった。
ヒカルはブラウザのうえに腕をかけて、
「護衛対象にストーキングをしていたのは、やっぱり元同僚の高岡だった。いま、そいつの集合住宅を確認してきた。アンドロイドの違法改造や不正アクセス、不法侵入を含む十二の違法行為が確認できたんで、警察につき出してきたよ。前科もあるから実刑はまちがいないだろう。とうぶん出て来れないはずだ。護衛対象にそう伝えてやってくれ。ただ、ひとつ問題があって、コイツが改造したアンドロイドの所在が確認できないんだ。もしかすると、そっちにむかって、護衛対象になにかしようとするかもしれない」
「それなら、さっき始末したわ」と、蘭は言った。
「そうか、だったらいい」と、ヒカルは言った。「ところで、石上レイは寮に着いた?」
蘭が僕にむかって手招きした。僕は傍にいって、ブラウザのほうを向いた。
「おー、おまえがカシュー石上か」と、背の高い男がヤンキーくさい顔をブラウザに近づけて、「俺だよ、ふにゃちんだよ。待ってたぜこのやろう」
「ど、どうも……」
「なんだよテンション低いな。俺、本名は津田エイジってんだ。名前で呼び合おうな」
「わ、わかった……」
めぐみは、そのエイジの後ろから、驚いたように僕を見ていた。無理もない、僕はあれから顔つきも体つきもぜんぜん違ってしまった。きっと彼女のなかで、記憶のなかの石上レイと、目のまえの僕が、一致しないんだろう。
「レイ、これからきみの歓迎会をやる」と、ヒカルはあの甘い微笑を浮かべて言った。「いいものを食べさせてあげるから、楽しみにしてて。……じゃあ、すぐに寮に戻るよ」
「気をつけて」と、蘭は言って、通信を切った。
「お酒の飲めるところがいいなあ」と、カオリは言った。「私服でいけば未成年だって分かんないと思うし」
「なにいってんの、あんたじつはお酒なんてぜんぜんおいしくないと思ってるくせに」
「あんただってそうじゃん」
「そうよ」と、蘭はソファにすわって足を組んで、「だからそういうのダサいって言ってるわけ」
「さっきから、なにツンツンしてんだか」カオリのボルテージがあがってくる。「あ、わかった。ぶっちぎりでゲームに負けそうだから、すねてるんだ。蘭ちゃん、かーわーいーいー」
「……はあ?」
社員の女のひとは困ったような表情を浮かべている。彼女のまえには、モノポリーの貨幣がどっさりとたまっていた。
「石上レイ、俺たちのチームへようこそ」と、エイジが格闘技のマイクパフォーマンスのノリで言った。「ここは生きるか死ぬかの過酷な戦場だ。心の準備はいいか!」
よくない、けれど今さら泣きごとを言っても仕方なさそうだ。
エイジの乾杯、の掛け声で、僕たちはノンアルコール・ビールのグラスを弾かせあった。
夜景のきれいなステーキ・ハウスだった。おおきな鉄板のうえを、フランベの火と鉄べらが躍っている。
「けれど、いいの。めっちゃ高そうなんだけど、このお店」
僕は心配になって、尋ねてみた。
「あたしたち、こう見えてもけっこう稼いでるから」と、黒のシックなワンピースに着替えたカオリが言った。「津田も言ってるけれど、仕事は命がけだし、契約している以上、会社からまわってきた仕事は断れないし、これくらいもらわないと、割にあわないってね」
「明日には死んじゃうかもしれないんだから、遠慮せずにガンガン食べな」と、ハイネックのノースリーブを着た蘭が言った。耳元でプラチナっぽいイヤリングがひかっている。白い上腕には、猫のタトゥーみたいな模様が浮かんでいた。
「あんまり脅かすな、望月」と、紺のポロシャツにジーンズのヒカルが言う。「レイには徐々に慣れてもらえばいい。かれは耐性も戦闘センスもダントツだ。かならず俺たちの力になってくれる」
「祝いの席であまりこういうことは言いたくないけれど」と、蘭はすこし顔をしかめて、「沢口だってリソース自体は悪くなかったのよ。でもディフェンダーのメンテを怠ったせいで、現場でフリーズして死んだんだから。せっかくうちとけたのにお別れとか、わたしもう嫌だからね」
ヒカルはこまったように、銀メッシュの頭をかいた。
「なまやさしい仕事じゃないっていうことは最初からわかっているから」と、僕はふたりを交互に見て、言った。「それにさっき、望月に『厳しい現実』を見せてもらったおかげで、自分の立ち位置がよくわかった。僕には学ばないといけないことがたくさんありそうだ」
「望月おめえ」と、エイジが僕の肩に腕をまわして、「レイはすでに大型のバグを仕留めてんだぞ。沢口はいいヤツだったけれどよ、こいつとは比べられねえ」
僕の目のまえで、ボウリング・シャツのそでがすこしずりあがって、刀の鍔の模様があらわになった。エイジが入れている接近戦特化型のディフェンダー「和泉守国貞」のシンボルだった。
ヒカルは大根おろしのたっぷり乗った牛のサイコロ・ステーキを口にはこんで、
「知識不足、経験不足は俺たちが補ってやればいい。だいいち、アナライザーの望月がしっかりサポートしてやれば、その穴はほとんど埋まるんだから」
「わかってる」と、蘭は言った。「そこの変態熟女好き野郎からは目を離さないつもりよ、色々な意味で」
「だから僕は熟女好きでは……」
「変態のほうは認めちゃうの?」と、カオリ。「やだー、淡河といっしょじゃん」
ヒカルはかるくむせて、
「人聞きの悪いことを言わないで欲しいな。俺は情熱と純愛のひとだ。決して変態じゃない」
蘭があきれたようにそっぽを向き、「じゃ、喜多嶋さんのほうが変態なのね、きっと」
「望月、それは誤解だ……疑うなら俺を……」
「俺はレイの性癖のことは分からん」エイジは、茶碗から箸で白いごはんをすくい、くちに運んで、「それについて一番詳しいのは遠野なんだろ。なあ、意見を聞かせてくれ」
「えっ、わたし?」
突然話を振られて、めぐみは驚いたようだった。おしゃれなキャミソールを着、ミニスカートを穿いている。首元を、ハート型のピンク・ゴールドのネックレスで飾っていた。
ひきかえ、僕はラグランのティーシャツにチノパンという、廉価で地味な格好だ。
「知らんけど、寝ている間に腋の匂いを嗅がれちゃったんだろ」と、エイジ。
「そっ、それは……」と、めぐみが白い肩をせまくしてうつむく。
蘭は眼鏡をはずして拭いながら、
「あのとき、わたしがめぐみんのディフェンダーを通して監視していなかったら、そこの変態熟女好き男から、ぜったいにいやらしいことをされてたと思う。慌ててアラームを鳴らしてめぐみんを起こして、ことなきを得たのよ」
ていうか、あんた一部始終をチェックしてたのか!
みんなに広まったのも、めぐみの口からではなく、望月の口からに違いない。
「油断も隙もありゃしないね……」
「それはこっちの台詞よ」
「でもね」と、めぐみはカオリのうしろから肩に両手をおき、めずらしそうに僕を見て、「なんだかべつのひとのような気がして。あのときのイメージと、ぜんぜんつながらないの」
「だよなあ」と、ヒカルがしみじみ言う。「俺もレイがこの姿でファミレスに来たときにはなかなか信じられなかった」
「僕も退院して鏡を二度見したよ。だれだこの人と思った」
「えっ、石上って、もしかして、つい最近まで太ってたの?」と、カオリが食いつく。「画像とか、ない? 超見たいんだけど!」
「あるよ」と、蘭が空間にブラウザを表示させる。ディフェンダーの戦術連携システムを介して、みんなの視野に直接働きかけているので、見ることができるのは僕たちだけだ。「決定的な証拠は保存しとかなきゃって思ってね。ほら、これ」
ウィンドウに、汗だくになって白い腋に顔を近づけようとする、太った少年が映った。
「そうそう、これ」と、めぐみが指さす。「ぜんぜんちがう人でしょ?」
「これ石上なの!?」カオリがブラウザに顔を近づける。「……やだキモい」
「表情が犯罪的すぎる。フォローできん」と、エイジが言った。
「これが、そこでスカしてるイケメンの正体なのよ」と、蘭がひややかな視線をこっちにむけた。
「おまえら、あんまり言うなって、かわいそうだろ……」とヒカル。
僕はだまって箸をおいて、自分の膝をみつめた。
夜風が大都市の路地にそよいで、街路樹の葉をゆらした。ヒカルたちは冗談を言い合い、笑い声をあげながら、その路地を歩いている。僕はすこし遅れて、あとに続いた。
じんと来ていた。
ついこのあいだまで、いじめに怯えながら過ごしていた。クラスには居場所がなかった。一日中、誰とも口をきかずに過ごすこともあった。そんな自分にとって、この歓迎会は胸にしみた。たとえいじり倒されたとしても!
僕はみんなのうしろすがたを見ながら、役に立てればいいな、と思った。
しばらく歩くと、
「どうしてメールくれなかったの」
と、声をかけられた。
ふりかえると、遠野めぐみがいた。暗くて表情はよく見えない。彼女は歩道のうえを弾むようにして、僕にならんだ。
「ずっと待ってたのに」
「ごめん。めぐみんがあまりに素敵すぎて、どうしたらいいか分からなかった」
めぐみは通りのむこうに目をやって、長い黒髪をかきあげた。
「あーあ、レイくんって、そういうこと、さらっと言えちゃう人なんだ……」
「でも、嘘じゃないよ。あのとき、めぐみんの戦闘服にクラウディエッジのロゴがあったのを憶えていて、それでここを選んだ。きみに会いたくて、ね」
めぐみはなにも言わなかったけれど、街灯のひかりに浮かんだ、その横顔には、ささやかな笑みがあった。
「階段の陰から、腕を怪我しためぐみんが出てきて、僕はほんとうに絶望した。めぐみんは、くらくらするほどきれいだったから。あのとき僕はあんな体型だったし、ディフェンダーの耐性はないと思っていたし、学校ではいじめられて居場所がなかった。めぐみんみたいに勇敢で素敵な人とは、どう考えても釣り合わないと思った。でも、せめてなにかしてあげられないかなって。それで家につれていったんだ。……けれど、メールはできなかった。その先が怖くて」
「うん……」
「汗の匂いは、めぐみんの生きている証、いっしょうけんめい戦っている証だと思った。きみのリアリティそのものだった。だからそれに触れてみたかった」ふと、苦笑がこみあげてきた。「やっぱり変態なんだろうね。でも、めぐみんのリアリティに胸がざわざわしてしまうのが変態だとしたら、しょうがない、僕は変態ってことでいいよ」
「手、つないでもいいかな」
僕はうなづいて、手をさしだした。めぐみは、その手をかるく握った。
「わたし、あのとき、すごく怯えていたの。バグが想像以上に強力で、死ぬかもしれないと思った。うまく逃げられたのも、幸運だった。心臓がどきどきして、もどしそうなくらい緊張してた。だから、レイくんと会って、ほんとうに安心した。レイくん、あのとき、腕をつかんで、ひっぱってくれたよね。覚えてる? わたし、涙が出そうだったんだよ」
めぐみんは長い髪を耳にかけながら僕を見上げて、
「そのバグを、ほとんど一瞬で倒しちゃったのが、きみ」
「あれが、そうだったんだ……」
「淡河くんから、きみのことをチームに誘ってみるって聞いてから、ずっと祈ってた。だって、レイくんがほかの軍事会社に行っちゃったら、戦わなければいけなくなるかもしれないから。……クラウディエッジに来てくれてありがとう。わたし、いま、神様に感謝してる」
神様に感謝しているのは、僕もおなじだった。
公園の木立のかなたに、高層ビルが林立している。宵の闇にひかりかがやいて浮かびあがり、幻想的だった。僕はひさしぶりに、この街を美しいと思った。