三
西暦二二二年、現在の湖南省にあたる一帯で、蜀軍と呉軍が激突した。夷陵の戦いである。僕は趙雲に扮して蜀軍側から参戦し、なんとか呉の陸遜の火計を阻もうと、躍起になって敵陣に突入して、ふと気付けば、武侠小説に出てくる悪役みたいな連中に、ぐるりと取り囲まれていた。
敵中に孤立してしまったらしい。
「なんだと!」と趙雲こと僕は言った。
我ながら、張飛もびっくりの猪武者ぶりである。
劉備様からお叱りの声が飛んでくる。味方の足並みを乱すな、と。
僕はごめんなさいごめんなさいと呟きながら必死に槍を振るい、何百という呉の将兵を蹴散らしたけれど、敵はあとからあとから湧いてきて、にっちもさっちもいかない。そのうち、自軍の陣地がつぎつぎと陥落し始めた。
火計が史実どおりに発動してしまい、おのれ江東の放火魔め、無念でござる、とうめきながら、ソフトリセットしようと思ったとき、僕は闇にうもれてぽつねんと部屋に取り残されていることに気付いた。濛々たる土煙も、天をゆるがす鬨の声も、どこへやら。まさに、つわものどもが夢のあと、だ。
また、空間がバグを起こしたらしい。
こうなると、退屈なものだった。ゲームはできないし、テレビも見られない。端末も動かない。小説や漫画を読もうにも、薄暗くて読みにくい。
ベッドのうえで、天井を見上げながら、ぼうっとしているくらいしかなかった。
そのうち、テレビの液晶画面に青白いひかりがちらつき始め、やがて、ノイズのひどい映像がうつった。
近くの運送屋の倉庫らしい。よく前を通るのですぐに分かった。防犯カメラの映像だろう。戦闘服を着た、三〇代くらいのひげを生やした男が、トラックの荷台によりかかっていた。脇腹のあたりをおさえて、肩で息をしている。
数秒おいて、おおきな黒い影のようなものが映りこんだ。たくさんの細長い足がついている。それがバグった空間の淡いひかりのなかで、わらわらと蠢いていた。
ずり、ずり、という感じで、倉庫のまえの広場を進んでいる。
戦闘服の男は、意を決したようにトラックの陰から踊りでて、手からプラズマに特有のまばゆい光を発した。光は黒い影を直撃し、身体がすこし抉れ、白煙が上がる。
黒い影は前脚をおおきく振り上げて、男に叩きつけた。男は地面のうえを派手に転げて、倉庫の外壁に叩きつけられた。
男が、くるしそうに血を吐いている。
僕のなかで、恐ろしいという気持ちと、近くへ行ってみたいという気持ちがせめぎあった。なにより、男が心配だった。
すこし悩んだあと、意を決して、リビングへ出た。そうして、お菓子の黄色い缶をとりあげ、玄関へ行ってコンバースの運動靴をつっかけ、ドアの間にその缶をかませて、非常階段めがけ、走った。
僕は蜘蛛ともゲジゲジとも形容しがたい黒くて大きな化け物を遠目に見ながら、金網を越え、倉庫の外壁のそばでぐったりとしている戦闘服の男にかけよった。
コンクリートがいちめん、血で染まっていた。防犯カメラの映像で見たよりずっと酷い。
「大丈夫ですか」
小声で呼びかけてみる。
男は苦しそうに眼をひらき、「ディフェンダー使いか、所属はどこだ」と言った。「なんだ、ディフェンダーをインストールしていないのか。いったい、なにをしに来た」
「僕はただの高校生です。あなたが部屋のテレビに映って、それで心配になって……」
「そうか。しかし、それならなおさらだ。すぐに帰れ」
「でも……手当てをしないと」
「棄ておけ。どのみち俺は助からんよ」
男は言いながら、目元をけわしくして、僕のうしろのほうを見た。ふりかえると、あの黒い化け物が、身体をこちらに向けて、ぞわぞわと無数の足をうごかし、迫ってくる。
こっちに気付いたようだ。
近くでよく見てみると、この異形は、0と1の羅列や、プログラミング言語からなるソース、文字化けを起こした文字列などで構成されているみたいだった。それらの黒いテキストが密集して、怪物のかたちをなしている。
「やむをえん、いいかよく聞け」と、男は僕の腕を掴んで、「きみにはディフェンダーの耐性と素質がある。それもかなりのものだ。ディフェンダーを入れていないのに、この空間のなかに存在していることが、なによりの証拠だ。だから、いちかばちか、やってみろ」
「やってみろって……」
「あれと戦うんだ。あれはああ見えて、あんがい動きが素早い。見つかってしまった以上、逃げ切るのはむずかしいだろう。……いま、俺のインストールしているディフェンダーをきみに渡す」
男はそう言って、全身から光の粒子を放出しはじめた。粒子はやがて右手のうえに凝って、銀色のチェスの駒のようなものをかたちづくった。男は、それを僕に手渡して、
「あれは『バグ』だ。暴走した人工知能とも、ウィルスとも言われているが、いまはそんなことはどうでもいいな。とにかく、あれの情報障壁をうまいこと崩して、侵入し、プログラムを破壊するんだ。それであれは消滅する。プラズマで攻撃するのは、あくまで敵の防御フィールドを削ってリソースに負荷をかけるためだと思え。俺がなにを言っているか分からないかもしれないが……」
「いえ、だいたい分かります」と、僕は言った。「たぶん……」
「ほんとうにきみはディフェンダー使いではないのか」
「一時期、憧れていて、いろいろ調べたことがあって……」
僕は立ち上がって、インストールを念じた。手のなかの銀色のオブジェが、脳波を察知して光をおびる。いま、僕の耐性の有無を調べているのだろう。むかしのディフェンダーにはセーフティ機能がなく、耐性のない人間が無理にインストールしようとして精神に異常をきたしたり、脳と脊髄に熱を生じて死んでしまう事故がよく起こったらしい。やがてナノマシン群体が粒子となって火の粉のように散り、僕の皮膚のしたへともぐりこんでいく。
脊髄から脳に沿って、軽い圧迫を感じた。
視界にウィンドウが現れ、メーカーと機種名が表示された。南部重工の七六式。量産型だが、それは悪い意味ではなかった。基本性能がしっかりしているから、大勢に選ばれ、量産される。七六式は安定感のある優秀なディフェンダー・システムだった。
僕はティーシャツのそでをめくってみた。上腕に馬の頭をかたどった模様が浮かんでいる。インストールは成功だ。僕は興奮をおぼえた。耐性なんかないとずっと思っていたのに、実はあったのだ。
「おい……気を……付けろ……」
僕は男に注意をうながされて、ふりかえった。化け物の黒い前脚がおおきくしなり、迫ってくる。僕はなにもしなかった。分厚い防御フィールドが、なんなくその前脚を弾く。
思わず笑みが浮かんだ。
ブラウザが、僕とこのバグという化け物のリソースを比較して表示している。その桁がひとつ違っていた。これなら、どう戦ったって負けようがない。
男の言ったことは嘘ではなかった。
どうやら、僕には、かなりの耐性と素質がある。
僕は右手にプラズマを呼び出して、黒い化け物にむかって突っ込んでいき、その閃光を無造作に叩きつけてやった。ゼリーみたいな防御フィールドがざっくりと裂けて、密集した黒い文字からなる皮膚を広範に焼く。おおきくえぐれた傷口が、うっすらと青白い光を帯びているのは、バグが修復にリソースをつぎ込んでいる証だった。
七六式にハッキングを指示すると、情報障壁は一秒もしないうちに突破できた。これで、敵の腹のなかに腕を突っ込み、心臓を掴んでやったことになる。
僕は快哉を叫びながら、その心臓を握りつぶした。
黒い影は、くるしそうに無数の足をばたつかせたあと、霧が散るようにして消えた。
「よく……やった……たいしたもんだ……」
僕は、男に駆け寄って、傍に膝をついた。
男は目を閉じて、「その七六式は……きみにやる……心配してきてくれた礼だ……」
「しっかりしてください。空間がもとに戻ったら、すぐ救急車を……」
僕は大声で呼びかけたけれど、返事はなかった。
口元に手をあててみる。男の呼吸は、止まっていた。
僕は男のそばについて、空間のバグが終わるのを待った。終わりしだい、通報するなり、救急車を呼ぶなり、しなければいけないと思ったからだ。
ところが、そのあたりに流れていた文字列が忽然と消えて、倉庫の照明に光がもどると、男も血の痕とともに消え失せてしまった。まるでなにもなかったかのようだ。けれども、全てが幻だったという訳でもないようで、僕のなかにはちゃんと七六式が残っていた。
マンションに帰って、興味のおもむくまま、あれこれとディフェンダーをいじってみた。システムを初期化し、メールアドレスの設定を終えて、知らないアドレスから着信があるのに気づいた。ヘッダーを見ると、ほんのついさっき、届いたもののようだ。
差出人は、淡河ヒカル。
淡河とは、仮想現実のなかで模擬戦をやった、あのイケメンだろうか。珍しい名字なので、たぶんそうだろう。しかし、どうやって僕のメールアドレスを調べたのだろうか。ふにゃちんとはアカウントの友達機能を介して連絡をとっているので、メールアドレスは教えていなかった。
とにかく、読んでみた。
カシューさん(石上レイ様)へ
突然のメールごめんなさい。ふにゃちんこと津田から連絡を取ってもらおうと思っていたのだけれど、きみはずっとゲームにも模擬戦のシステムにもログインしていなくて、連絡の取りようがなかったのです。それで失礼を承知のうえで、ほんとうはしてはいけない方法で、きみの本名やら、メールアドレスやらを調べさせてもらいました。
というのも、時間的な猶予がなかったのです。きみはついさっき、情報的に崩壊した空間のなかで、周防ロジスティクスのエージェントから七六式を借りて、バグを倒しましたね。そのことが、ディフェンダーの情報共有システムを介して、各社に広まっています。
もう分かったと思うけれど、きみにはディフェンダー使いとしてすさまじい才能がある。どこの軍事会社も、即刻、きみの身元を調べて、スカウトに乗りだすことでしょう。明日にでも、マーカンタイル・セキュリティサービスや、ザルツブルク・インターナショナルなど、一流どころから声がかかるかもしれません。
俺たちが所属しているのはクラウディエッジといって、五大財閥のなかではいちばん小さい、タービュランスの系列の軍事会社なのだけれど、決して悪くないところです。できれば、きみにはウチの所属になってもらいたい。じつは俺は、高校生だけで編成されたチームのリーダーを任されていて、強い仲間は喉から手が出るほど欲しいのです。それで、きみに気持ちを伝えたくて、このとおり、メールを書かせてもらいました。
ぜひ、いちど会って話を聞いて欲しい。時間はいつでも、場所はどこでもいい。いますぐ来いというなら、すぐ行くよ。
淡河ヒカルより
追伸。きみは入試のときに耐性なしと判断されたけれど、それはなぜだか知りたくありませんか。あまり愉快ではない話かもしれないけれど、興味があるなら教えてあげます。
というか、ほんとマジいっかい話を聞いてみておねがい!
僕はすぐに返信を口述筆記した。クラウディエッジ……忘れもしない、遠野めぐみの所属する軍事会社だ。この話をことわるなんていまの僕にはちょっと考えられない。
まためぐみに会える! ありがとう淡河ヒカル!
二〇分後、僕はマンションからすぐのバーミヤンの駐車場で、夜風を切り、タイヤを軋ませて進入してくるオートバイを見た。高槻軍事学校の制服を着ている。黒にちかい濃紺のスラックス。学校指定のワイシャツはないので、生徒は開襟とか色付きとか、好きなものを着てくる。かれはふつうに白いやつを着て、裾を出していた。黒の細いタイをゆるくかけている。
ヘルメットを取ると、銀のメッシュの長い髪がふわりと揺れた。美少年、淡河だ。
かれは小走りになって、自動ドアのあたりで僕のすぐ傍を素通りし、店員にむかって、あとから連れがくると告げた。
僕は、その店員に、連れが待っていると言って、窓際の、淡河のテーブルのむかいに腰をおろした。
「こんばんは。メールくれたよね」
淡河は疑わしげに僕を見て、
「……石上くんの、代理のひと?」
「いや、本人」
「待ってくれ。身長も体格もぜんぜんちがう。俺が仮想現実で戦ったのは、ごめん、もっと小柄でぽっちゃりした人だった。それに中学の卒アルも見たけれど、顔つきが違うみたいだ」
「あれから身体を壊してひどかった。医者は、マラリアの合併症だと言ってた。しばらく臥せっていて、気付いたらこんな風に」
僕は、両手をひろげた。
「激やせして、背も伸びたって?」
「うん」
淡河は、ふーん、と言って腕を組み、
「ひとつ、聞いてもいいかな」
「うん」
「きみはあのあと、遠野めぐみを家に泊めてくれたね。彼女が眠っている最中に、なにをしたんだっけ」
淡河は、本人なら知っているはずだ、と言わんばかりに尋ねる。
僕はバツがわるくなり、窓のそとの、ヘッドライトの流れに目をむけて、
「……腋の匂いをかごうとした。こころから反省している」
「まちがいない、きみは石上レイのようだね」
やっと淡河は認めてくれた。それにしても、ひどい本人確認だ。まあ、自業自得ではあった。
「めぐみんとは、いや、遠野めぐみさんとは、親しいの?」
「彼女は俺のチームのメンバーだよ。もちろんよく話すけれど、恋愛的な意味では親しくはないから安心して。……なんだよ、遠野をうしろに乗せて連れてくるんだったな」
「連れてきて欲しかったな」と、僕は言った。「ああ、それから、さきに返事をしておくよ。メールの話がほんとうなんだったら、僕はクラウディエッジさんのお世話になりたい」
「そうか、ありがとう」淡河は安堵したように、あの甘い笑みを浮かべて、「でもきみは未成年だから、お母さんの了承が必要だ。そこで、すこし問題があってね……」
「淡河くんは……」
「ヒカルと呼んでくれ。どうせ、そう呼ぶようになるんだから。そのかわり、俺もきみのことをレイと呼んでいいだろう?」
「うん。で、ヒカルは、入試のときに僕が耐性なしと出た理由を教えてくれる、と言っていたね。じつは思い当たることがあるんだ。僕の父親はディフェンダー使いで、仕事中に亡くなっていて」
「知っている。調べさせてもらった」
「耐性なしと出たのには、お母さんが関わっていたのかな」
ヒカルはすこし視線をそらして、「端的に言うと、そういうことになるね」と言った。「今年の三月ごろに、ハッキングを専門にやっている、あるフリーのディフェンダー使いの口座に、石上ユキの名義で、つまりレイのお母さんの名義で、振込があったことが確認された。額は百万新円。相場よりかなり高い額だ。他方、学校の事務局のサーバーの、復元されたデータのなかから、そのハッカーのものと思われるアクセスログが出てきた」
「結果が書き換えられたんだね」
「そうだ」
「やっぱり……」
けれども、僕はお母さんを責める気にはなれなかった。その気持ちはよく分かったし、心配してくれて嬉しくもあった。
ヒカルは続ける。
「じつは遠野から、情報的な崩壊を起こした空間のなかをディフェンダーもいれずに歩いている少年を見つけたと報告をうけて、それがハッキングして調べたカシューの登録情報と一致していて、俺たちはほんとうに驚いたんだ。こいつ、やっぱり只者じゃなかったって。けれども、学校の不合格者のリストからもおなじ名前が出てきて、訳がわからなかった。学科は合格ラインに達していたから、なにかあるなと思って、内々に調査してみた。ディフェンダー使いはハッキングも専門だからね」
かれはオーダーを聞きに来たウェイターにドリンクバーと杏仁豆腐をふたつ注文し、それから僕にほかに食べたいものあるかと尋ねた。僕は首をふった。
「どのみち経費で落ちるから、頼まないと損だよ」
「それより、話が聞きたい」
わかった、いずれにしてもだけれど、とかれは言って、
「それだけに、レイのお母さんはきっと、この話を喜ばないだろうな。けれども、ここから先は、親子でじっくり話しあって決めることだ。結論が出たらすぐに連絡して欲しい。端末の番号の交換をしよう」
僕たちは、その手続きをした。
ああそれから、とヒカルが言いかけたとき、店の自動ドアがひらいた。ヒカルがそっちに顔をむけたので、つられて見やると、黒いスーツ姿の、髪をアップにしたきれいな女性が、ヒカルにむかって微笑みかけ、手を振った。ヒカルはなぜか、不機嫌そうに舌を鳴らした。
その女性は僕たちのテーブルに近づいてきて、ヒカルにお疲れさま、と声をかけた。ヒカルは返事をしない。それから彼女は僕にむかって、
「初めまして」と、落ち着いた声で言った。「クラウディエッジの保安部門の担当役員をしている、喜多嶋夕海です」と、名刺をさしだす。
「あ、どうも、石上レイです」
僕は名刺を受け取って、目をおとした。緑色の鳥っぽいロゴが印刷されていて、ほかには役職と名前、電話番号とメールアドレスが載っているだけの、シンプルなものだった。
あらためて、夕海を見上げた。目元は涼しげで、おだやかな表情が、とても上品に感じられた。薄くひかれた口紅が、白い肌にひきたって、僕に強い印象をあたえた。
夕海は椅子をひき、席について、
「淡河くんから聞いていると思うけれど、ウチはあなたにとても関心があるの。いちどゆっくり、お母様も交えてお話がしたいわ。もし受けてくれるのなら、高槻軍事高校に転入して、会社の寮に入ってもらわないといけないのだけれど、そのあたりのことを……」
とつぜん、ヒカルが腕を伸ばして、夕海の頬をつかんだ。僕はびっくりした。ずっと年上の、きれいな女性に、こんな乱暴なことをする人だとは、想像もしなかった。
夕海は逃げるわけでも、避けるわけでもなく、されるがままになって、恥ずかしそうに眼を潤ませている。耳が真っ赤だった。
「かれと話をしている最中に、勝手に割り込んで来られてはこまるな」
ヒカルが、怒気を孕んだ声でそう言うと、夕海は小さな声で、
「ごめんなさい……でも、わたしもかれと話をしないといけないから……」
いったいどういう関係なんだろう。
「レイ、俺とこのひとの関係が気になるかい?」と、ヒカルはさっきまでとは別人みたいな、冷ややかな声で言って、「こういう関係だよ」と、ほとんど無理やりに唇を重ねた。
夕海は、嫌いなものを食べさせられている子供みたいに目をきつく閉じていた。ん、ん、と言いながら、ちいさく首を振っている。
彼女はヒカルになにか弱みでも握られているのだろうか。僕のなかで、エロゲ的な妄想が膨らんだ。
ヒカルは怯える美女の耳元に口を寄せ、甘い声で、
「どうだ夕海、初対面のイケメンのまえで強引にキスをされる気分は」
「おねがい……いじめないで……」夕海は切なげに言って、僕に瞳をむけ、「石上くん……彼の機嫌があまりよくないみたいだから、今日のところはこれで失礼するわ。詳細は彼から聞いてね」
軍事会社の若い女性重役は、立ち上がって、乱れた服装を整えながら、それでもヒカルにむかって親しげに微笑みかけ、またね、と言って入り口のほうへ歩いていった。
ヒカルは、その後姿を、うっとりとした目つきで見守っていた。
「なんだか、変態臭がしたよ」と、僕は言った。「ヒカルと仮想現実のなかで戦ったときから、このひと、もしかしたら根っからの女ったらしかもしれない、と思ったけれど、それをこえて、変態的な女ったらしだったとは……」
「負傷した女の子が眠っているすきに、腋のにおいを嗅ごうとしたやつに、言われたくないな」
それを言われるとぐうの音も出なかった。
「レイは知らないかもしれないけれど、ああいう風にされるとときめいてしまう女性もいるんだよ」銀髪の美少年は窓のそとの夕海にむかって手を振りながら、「それに、誤解がないように言っておくけれど、俺はあの人が好きで好きでたまらないんだ。……夕海はああ見えて、仕事のストレスですり減っていてね。それに、離婚調停が長引いていて、ふさぎこんでいる。だから、すこしでも彼女の心を軽くしてあげたくて。それに、もうこんな時間だ。夕海には、はやく帰って休んで欲しかった」
ちょっとなにを言っているのかわからない。
僕は腕時計を見た。深夜二時をすこし過ぎている。ヒカルが昼間っからこれをやっていたら、アカンやつ認定しなければいけないところだけれども、この時間帯に、ほぼ無人のファミレスでやるのだったら、……いや、ぎりアウトか。
マンションのエレベーターのまえで、お母さんと一緒になった。
このひとはあいかわらず体型がぜんぜん崩れない。ドレスみたいな黒のワンピースがよく似合っていた。長いまつ毛の目がとろんとして、すこし充血している。アルコールがまわっているせいか、ミュールとペディキュアで飾られたすらっとした脚を、歩きにくそうにしていた。
「おかえり」
「レイくんもね」
扉がひらいて、籠に入ると、お母さんは僕の肩にもたれてきた。
「女の子と遊んできたの?」
「いや……」
お母さんは悪戯っぽく笑って、
「脱衣所に長い髪が落ちてたよ」と、内緒話でもするように言った。「そうだよね、レイくん、もう十五歳だもんね。でも、ゴムだけはしなきゃ駄目だよ。しないでする男、ほんと、最低だから。しないでするなら、責任とりな。レイくんのお父さんは、ちゃんと取ってくれたよ」
「ほんと、違うし」と、僕は言って、「もしかして、お父さんとは、できちゃった結婚?」
お母さんは、屈託なく、うん、と頷いた。
「聞いておいてなんだけど、両親のそういう話、あまり知りたくなかったな……」
「どんどん、お父さんに似てくるね」お母さんは両手で僕の頬をはさんで、「いろいろ思い出しちゃう」
エレベーターがとまり、マンションの部屋に入って、お母さんはティーシャツとハーフパンツに着替え、洗面所で化粧を落としはじめた。それが終わると、リビングに戻ってきてソファに座り、おおきく伸びをしてから、美容液を塗りだした。
僕は台所へむかうついでに、
「なにか、飲む?」
「烏龍茶、飲みたーい」
戸棚からグラスをふたつ出して、冷凍室から氷を取っておとし、ペットボトルの烏龍茶を注ぎ、リビングに運んだ。
「ありがとう。そこに置いといて」
僕は意を決して、カウチに座り、
「お母さん、話があるんだけど」
「なにー?」
「あのさ、クラウディエッジっていう軍事会社から、うちに来ないかって誘われているんだ。行ってもいいよね」
お母さんは、ふと手を止めたけれど、すぐに動かし始めて、
「ディフェンダー使いになりたいって言ってたけどさ、まだ諦めてなかったの」
「うん」
「でも、レイくん、耐性ないじゃん」
「それが、あるみたいなんだ」
ハッキングの話は、しなかった。
「ねえ、いいでしょ」
お母さんはお肌の手入れを続けながら、しばらく黙っていたけれど、
「あたしハンコ押さないから」
と、ほとんど抑揚のない声で言った。
その平坦さが、かえって分厚い岩盤のように感じられた。とりつくしまもない。僕は途方にくれて、手元を見つめた。
「お父さんが死んじゃったのも、ディフェンダー使いになったせいなんだよ」お母さんは声に爆発の気配をのぞかせながら、「レイくんになにかあったら、あたし、どうしたらいいの」
「お願い、お母さん……」
「ダメだっていってるでしょ。もう聞きたくないから、やめて」
お母さんは、すこし涙声になっていた。
「僕、ぜったいに死なないから。ぜったいにお母さんを悲しませないから」
「レイくんのお父さんも、おなじこと言ったよ」と、お母さんは突き放すように、「すっごい優しい声で、ユキのこと絶対に悲しませないって。あたし、すっかりだまされちゃった。あーあ、男って、どうして嘘ばっかりつくんだろうね」
やっぱりこじれた。僕は黙って、部屋にひきとり、夢と新しい生活を諦めなければならない痛みを胸に感じながら、眠りについた。
昼ちかくになって、僕はめずらしく、お母さんにたたき起こされた。
「レイくん、ディフェンダー使いになるんでしょ。ディフェンダー使いって、よく知らないけれど、軍人でしょ」
「軍人じゃないよ……傭兵だよ……」と、僕は目をこすりながら言った。
「とにかく」と、お母さんは腰に手を当てる。「戦うお仕事でしょ。なのに、お昼までだらだら寝てていいの? 規律正しい生活をしなきゃいけないんじゃないの?」
「お母さんは夕方まで寝てるじゃん……」
「だって、あたしはキャバ嬢だもん」
僕は、そこでやっとお母さんの言っていることの意味が分かって、跳ね起きた。
お母さんは僕の髪を撫でて、
「さっき、喜多嶋さんていうひとから電話があったよ。レイくん、寮に入らなきゃいけないんでしょ。準備しなきゃいけないんでしょ。ほら、手伝ってあげるから」
「ありがとう」僕はじんときて、「お母さんのこと、絶対に悲しませない」
「そんな約束、できないでしょ。オトコだったら、守れない約束はしない。……だいじょうぶ、甘い仕事じゃないって、あたし、ちゃんと分かってるから」
「ううん、絶対に悲しませない」
僕は、すっぴんで、バンダナを巻き、エプロンをかけたお母さんを、抱きしめた。
「そういうことは彼女にしてあげなよ。マザコンって言われちゃうぞ」
お母さんは、くすぐったそうに言った。
「べつにいいよ。だって僕、マザコンだし」
「もう、子供なんだから……」
お母さんは、僕の首と肩のあいだに頬をあてて、背中に腕をまわした。