表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
WarHead  作者: のりお
2/8

 男は幸せに暮らしていた。恋も仕事も順調、友達は多い、いわゆるリア充、もっと言うとパリピだ。その男がある日、空間に裂け目を見つける。その裂け目のむこうから、じっと自分を覗く眼があった。

 男はしばらく、その目と見つめ合った。

 それをきっかけに、いろいろなことを疑いはじめる。この世界はもしかしたら、薄皮いちまいで覆われていて、そのむこうに、まったく違う世界が、ほんとうの世界があるのではないか。

 街の風景は、じつはハリボテではないのか。電車の人込みはホログラムではないのか。なにもかも虚構ではないのか。

 むろん、そんなのはただの妄想だ。しかし、男は空間の裂け目から自分をのぞく、生々しい、うす気味悪い眼を見てしまったし、その妄想を妄想として、切って捨てるだけの証拠や材料は、いくら探しても見つからなかった。

 男は、その薄皮をはぎ取ってやりたくてたまらなくなる。まず、部屋の壁紙を剥ぎはじめる。建物の壁を穿ちはじめる。空間の裂け目は見つからないけれど、男は安心するどころか、ますます不安を募らせていく。

 そのうち、野良犬や野良猫をつかまえてきて、生きたまま皮を剥ぐようになる。やがて、恐怖に駆られて、恋人や友人を監禁し、嘘やごまかしはもうやめろと喚きながら、皮膚を剥ぎだす。

 ついには、カンナで自分の身体をそぎはじめる。

 僕がいま読んでいる小説の筋書きだ。

 僕は、その男の気持ちが、まったく分からないかというと、じつはそうでもなかった。


 現実とは、なんだろう。

 この世界は物質でできていて、ここで起こることはすべて、物理の法則で説明がつく。それは確かだ。

 けれども、ほかに、唯心論という考え方があるそうだ。

 心だけが実在していて、僕たちが五感をとおして感じるものは、すべて、心のあらわれに過ぎない、と受け止めるのだ。

 この考え方は、ただの理屈だろうか。言葉遊びだろうか。

 脳にある種の機能障害を抱えるひとたちは、人間の顔を見分けることができないそうだ。文字を文字として認識できないひとたちもいる。

 つまり、僕たちは、脳だとか、精神だとかのフィルターに依存して、この世界を認識している。それらがあまりに自然に機能しているので、うまく実感できないだけだ。

 僕たちは、そのフィルターがなければ、家族の顔を記憶することも、文字を読むこともできない。この世界に存在するものはすべて、河原の小石や、サバンナの航空写真みたいに、意味を失って、雑多な、似たようなものごとのなかに、埋もれていってしまう。

 たとえば、幽霊を見たとか、三メートルのカマドウマを見たとか、ちっちゃいおじさんを見たとか、なんでもいい。とにかく、怪異が起こったとする。それがどのレベルで起こっているのか、認識するのは難しい。現実世界の、物理的な原因にもとづいて起こっているのか、それとも、僕の脳や精神がなんらかの変調をきたして、そのように見えているだけなのか、分からないのだ。

 かりに、僕の精神が僕をだまそうとしていたとして、では、僕の精神が変調をきたしている証拠をつかむことは、可能だろうか。

 そんなことは無理にきまっている。僕は精神をとおして世界を認識するより、ほかにないのだから。

 だれもが、自分の精神に、隷属している。絶対的に支配されている。

 つまり、妄想は妄想として、完結しうるのだ。

 その、鏡の迷宮から、確実に抜け出す方法は、ない。

 それが答えだ。


 そのようなわけで、いま、僕の眼前にひろがっているこの現象について、あれこれ考えても仕方ない。ただ単に、空間がバグっただけの話だ。

 だいたい、家電やソフトウェアなんかしょっちゅう不具合を起こしているじゃないか。インフラ基幹システムだって、それどころか、人間だってバグる世の中だ。空間がバグったって、なにも不思議ではない。

 それに、これが初めてではなかった。

 もう、何度も体験している。

 授業中にそれが起こったこともあったし、歩行者天国のまんなかにいて起こったこともあった。たぶん、自分のあたまがおかしくなったのだろうと思う。なぜなら、終わるとすべて辻褄があっていたから。おまえ、あのときどこにいたんだとか、なにをしていたんだとか、そんな話になったことは一度もない。

 だからこれはきっと、自分だけの、内的な体験なのだ。

 壊れたのは空間ではなく、僕自身、というわけだ。

 それ以外に、説明のしようがない。


 深夜二時をすこし過ぎて、僕は空腹をおぼえてコンビニへむかった。そうしてゲーム雑誌をぱらぱらとめくっていると、突如としてそれは起こった。

 視界が暗転し、雑誌コーナーが丸ごと闇にうもれた。ファミレスのネオンも、信号も、外灯も、なにひとつ点っていない。客も、店員も、忽然と消えてしまった。

 困ったな、まだ買い物を済ませてないのに。

 コンビニに、強い光がさしこんで、影がのびた。僕は目を細めて、ガラス張りのむこうを見やった。大通りを、遊園地のパレードのような、リオのサンバのような、にぎやかな行列が進んでいる。

 ガラス張りから夜空を見上げれば、緑色にひかる文字列が、逆流する瀧のようにすらすらと流れていた。

 通りのあちこちに拡張現実のポップアップのようなものが出ているが、文字化けを起こしていて読むことができない。

 これらの現象は、明るい昼間に見るとなかなか間抜けだけれど、夜に遭遇すると不気味なほど迫力がある。僕はすこし怖くなってきて、ポテトチップスとパックの紅茶をとって、レジに三百新円を置き、コンビニを出た。

 そうして無人の、拡張現実ふうの装飾にあふれた街を、うつむいて歩いた。ときおり道路のまんなかで停止している乗用車を覗きこんでみる。速度メーターは五〇キロを指し、ギアはドライブに入っているが、運転手はいない。カーナビやディスプレイが暗い車内のなかで青白くひかり、文字列の滝をたれ流していた。

 この状況ではマンションのエレベーターは動かないので、裏手にある非常階段を使うしかなかった。

 駐車場をつっきり、駐輪場を過ぎたところで、僕はふと、足を止めた。

 階段の物陰に、黒い戦闘服をまとった女性がしゃがんでいた。うかつなことに、気付いたときには、すでに目のまえだった。

 あ、と僕は言った。

 女性は、きまずそうに「こんばんは」と言った。

 暗くてよく見えなかったけれど、女性はとても若いひとのようだった。たぶん、僕とそう違わないだろう。怪我をしているみたいだ。戦闘服の、腕のあたりが血で濡れて、コンクリートに滴っている。

「あ、あの、大丈夫ですか……」

 僕はどうしていいか分からず、声をうわずらせた。空間がバグっている状況では救急車なんか呼んでも来てくれないだろうし、警察に通報しても応答があるかどうか分からない。それ以前に端末が動かない。

「とりあえず、血をとめないと。いま、薬箱、もってきますね」

 僕は非常階段をかけあがろうとして、ふと気づいて、

「もしかして、危ないことに巻き込まれて身を隠していたりとかします? だったら、ウチに隠れますか。すぐ上だから……」

 と、呼びかけてみた。

 女性は腕を押さえながら立ち上がり、それから遠慮がちに、

「でも、ご家族に迷惑じゃ……」

「大丈夫、いまは僕しかいないから。お母さんと二人暮らしなんだけど、お母さんいま海外旅行に行ってて……」

「……じゃあ、お邪魔してもいいですか」

 戦闘服の女性が、階段の陰から月明かりのなかへと出てくる。僕は思わず息を飲んだ。彼女はとてもきれいな人だった。長い黒髪は磨いたみたいに艶やかで、顔立ちはわりとはっきりしていた。完璧なあごのライン。首は細くて長い。

 僕は彼女のうつくしさに気付いて、胸が苦しくなるほどの気後れを覚えた。その凛とした眼を見ていられず、つい顔をそむけて、

「ついてきてください」

 といい、階段を上がった。

 彼女はうしろから、

「きみもディフェンダー使いなの? いまはディフェンダーをインストールしていないみたいだけど。所属はどこ?」

「あー……」

 僕は高槻軍事高校に願書を出してはねられたときの痛みを思い出しながら、

「ただの高校生です」

「ほんとうに」

「いま、きみ『も』と言ったけれど、あなたはディフェンダー使い、なんですね」

 少なくとも、こんな夜中に戦闘服を着て怪我をして身を隠していれば、まちがいなく「その筋の人」だろう。

 彼女は、うん、と頷いて、

「詳しくは言えないけれど、作戦中にミスっちゃって」と、心配そうに通りのほうをふりかえり、「たぶん、追ってこないと思うんだけれど、もし危険なことになっても、なるべくきみには迷惑をかけないから」

 僕は、ああ、とため息をついた。

 ゲームの世界で無双するけれど、現実の世界では傷ついた女の子を守るどころか、力になることすらできない。学校には居場所がない。見てくれはこんなだ。彼女と並べば、美女と珍獣、といったところか。

 なんだか嫌になってきた。

「ごめん、やっぱり迷惑だよね」

 彼女は、足をとめた。僕のため息を誤解したようだ。

「違う、そうじゃないんです」と、僕は強く言った。「なんにもできない自分がちょっと情けなくて」

 このひとはディフェンダー使いだから、その気になれば僕なんか瞬殺できる。そういう心配はしていないはずだ。だから、僕は思いきって、遠慮がちな彼女の腕を引いた。

 彼女はおとなしく付いてきてくれた。

 四階まであがって、自分のうちのオートロックの前まで来て、僕はやっと、空間がバグを起こしているあいだ、ロックがカードキーに反応してくれないことを思い出した。

 バツがわるくなりながら、無駄と知りつつカードを当てていると、

「わたし、開けられるけど」と、彼女は言った。「やっても、いいかな」

「え、うん……」

 彼女は微笑んで、

「ロックは壊さないから大丈夫。フリーズ状態を一時的に解除して、ハッキングするの」

 そうして、じっとロックを見つめる。ものの二秒としないうちに、錠が外れた。

「すっげ……」

「べつにすごくないよ。ディフェンダーに搭載されたAIが勝手にやってくれるから」

 僕は彼女を家にあげた。洗面台を貸して欲しいというので、脱衣所に案内した。そうして薬箱をもっていくと、ちょうど彼女は戦闘服のチャックをおろして、脱ぐところだった。黒のタンクトップが膨らんでいる。水色のスポーツブラが見えた。腕にはタトゥーのような模様がある。僕はすぐに脱衣所を出た。

「必要なものがあったら、なんでも言って」

 僕は声をかけながら、彼女の腕に浮かんでいた模様のことを考えた。ディフェンダーをインストールすると、左の上腕に、機種に固有の文様が現れる。羽根と盾は、ワルキューレだったか。社名までは忘れたが、たしかドイツ製で、白兵戦に特化したタイプだ。ということは、彼女は見かけによらず、脳筋のノリでごりごり行くタイプなのかもしれない。

 彼女が戦うところを見てみたい気がした。

「ありがとう」と、彼女は声を返してきた。「そういえば、自己紹介まだだったね。わたし、遠野めぐみ。高槻軍事高校の一年生。きみは?」

「石上レイ……」

 高校はそのうちやめるつもりだったから、言わなかった。

 彼女が、うっとうめき声をあげた。傷口を洗っているのだろう。

「遠野さん、大丈夫?」

「よかったら、めぐみんって呼んで」と、彼女は気さくに言った。「みんなにそう呼ばれているから。きみはあだ名とかある?」

 学校ではおいチビデブとかそこのクソとか呼ばれているけれど、それはあだ名じゃないだろう。僕は、ない、と答えた。

「じゃあレイくん、でいいよね」

 僕はすこしだけ嬉しかった。お母さん以外に、僕をファースト・ネームで呼んでくれる女性はいなかったから。

「べつに、呼び捨てでもいいよ」

「男の子の名前を、あまりそんなふうに呼んだことがないけれど、ためしに呼んでみよっか。……ねえ、レイ」

「なに」

 いやー、なんだか彼氏みたい、と言って、めぐみは楽しそうに笑った。

 くっそー、性格もかわいいな。好きになってしまったら責任をとって欲しい。


 めぐみは止血を終えた右腕をあげて、白い腋を左手で隠しながら、居間のソファにもたれて、うつらうつらし始めた。

 僕はもっと、めぐみと話をしていたかったけれど、きっと疲れているだろうし、と思ってあきらめ、部屋にひきとろうと、立ち上がった。

「もうすこし、いて……」と、めぐみは眠たげに目をひらいて、言った。「さっき、すこし怖い目にあったから、ひとりになりたくないの」

 空間のバグの影響で、エアコンが動かない。それで仕方なく、窓を開けていた。緩やかな夜風が流れ込んできて、レースのカーテンをふわりとさせた。

 液晶テレビやアナログの時計のまわりには、拡張現実ふうのポップアップが出て、緑色や青色に光っている。そのひかりがめぐみの横顔を白く浮き上がらせていた。

 僕は、カウチに座った。すると、めぐみは安心したように、目を閉じた。

「わがまま言って、ごめんね……」

「いいよ」

 めぐみはすぐ、寝息をたてはじめた。僕は、そのすうすうという音を聴きながら、めぐみの戦闘服を観察した。腿のあたりに、ブランドと軍事会社の名が刻印されているのに気づいた。クラウディエッジ。たしか、五大財閥のひとつ、タービュランスの系列だったはずだ。

 めぐみは多分、そこと契約している。

 高槻軍事高校に通う生徒のうち、優秀なものは軍事会社と契約して、サイバー・セキュリティの問題に対応したり、財閥どうしの水面下の衝突に関与したりする。

 めぐみは恐らく、その任務のなかで負傷したのだろう。

 僕はめぐみの白い寝顔を見つめながら、いろいろなことを思った。世界は動いているのに、僕はとりのこされている。僕は脇役だ。モブキャラだ。めぐみの力になりたくても、遠くで祈ることしかできない。

 カウチにもたれて、足を組もうとして、ぱんぱんの腿では足さえ組めないということに気付いて、暗澹となった。デブにはかっこうをつけることさえ許されないのか。残酷すぎはしないか。

 夜風がそよいで、僕はふと、磯の匂いを嗅ぎつけた。めぐみはもうぐっすり眠ってしまったようで、腋をかくしていた左手がだらりと腰のあたりに落ちている。すこし窪んだ腋が、ぼうっと白んでいた。

 僕は、その神々しいほどの純白さに吸い寄せられるようにして、めぐみに近づいた。そうして、きれいな、潮の香りのする腋に、そっと鼻をちかづけた。

 その瞬間、僕は凍り付いた。

 後悔と自己嫌悪が、怒涛のように押し寄せてくる。

 めぐみは起きていた。目をうっすらと開き、黒い瞳で、僕を見ている。

「ご、ごめん」

「だめだよお……」めぐみは恥ずかしそうに身体をよじり、小さくなって腋をかくした。「わたし、お風呂に入っていないんだから……」

「ほんと、ごめん。やっぱり僕、部屋に戻る……」

 僕は逃げるようにリビングから出た。


「ああ……バカ……」

 僕はベッドのうえで、かるい悪寒と熱帯夜の寝苦しさに身もだえした。この世界に僕ほどキモいヤツがいるだろうか。なんであんなことをしたんだろう。たったあれだけの誘惑にすら耐えられない僕。見た目だけでなく中身までキモいのだから救いようがない。

 朝が来たら、めぐみにどんな顔をしたらいいのだろう。永遠に夜が明けなければいいのに。

 よく考えてみれば、そもそも、分不相応というものだ。僕があんな美少女と仲良くなれるわけがない。なに夢を見ているんだ。現実を直視しろ。とにかく明日、エロゲーを買ってこよう。そしてこの惨劇のことはきれいさっぱり忘れよう。

 僕は胸がはりさけそうになりながら、朝を迎えた。そうしておそるおそるリビングへ行ってみると、めぐみはいなくなっていた。僕は心底、ほっとした。

 空間のバグは、いつのまにか収まったみたいだ。ベランダから外を見渡せば、広場でお年寄りたちが太極拳の練習をしていた。公園の芝生と樹木のみどりが目にしみる。拡張現実のポップアップも、文字化けも、わけの分からないパレードも、どこにも見当たらなかった。

 そうだ、空間がバグっている間に起こったことなんか、あてにならない。めぐみはきっと、僕のいろいろな願望が生み出したまぼろしなんだ。だいたい、ありえないだろう、美少女が僕とふつうに話をしてくれるなんて。

 たかが幻影に、なにをびくびくすることがある。

 そう思うと、僕はやっと気持ちが落ち着いてきた。

 お湯をわかし、インスタントの味噌汁と納豆と卵の朝食を済ませて、僕ははじめてソファのうえの書置きに気付いた。読むのも恐ろしかったけれど、目についてしまった以上は仕方ない。とりあげた。


 レイくんへ

 ゆうべは本当にありがとう。学校に遅れちゃうからもう行きます。わたし普段はちゃんとお風呂にはいるからぜんぜんくさくないんだよ。いいにおいがするんだよ。

 よかったら、メールください。めぐみん


 かわいらしいうさぎの絵と、メールアドレスが添えてあった。この筆跡と絵のタッチはどこからどう見ても女子のものだ。僕が無意識のうちに捏造しようとしてもとうてい不可能だ。

 とすれば、遠野めぐみは、僕の願望の産物などではなく、実在の人物なのだろうか。

 しかし、だったらなおさらだ。恐ろしくてメールなんかできるわけがない。でも……登録だけはしておいた。

 どのみち、そこ宛にメールを出しても、どこにも届かないだろうし、よし届いても、返事なんかこないだろうけれど。理屈抜きに、そんな気がする。


 エロゲを買いにいこう、エロゲを。

 シャワーを浴びて下着を身につけたところで、僕は寒気を感じてソファに座り込んだ。今日も太陽は燦々としている。長い長い夏はまだ始まったばかりだ。寒いなんて訳がなかったけれど、僕は身体が震えるのをどうすることもできなかった。

 僕は昨日、公園で蚊にさされたことを思い出して、その痕をかきながら、マラリアかな、と思った。体温計を出して熱をはかると、三十八度五分。ウェアラブル端末ではかってもおなじだった。

 病院にいこうかなと思いはしたけれど、ただの夏風邪かもしれない。とりあえず、午前中は寝て、様子をみることにした。

 そうして夕方、目を覚ましたら、全身を筋肉痛とだるさで覆われて、ほとんど身動きがとれなくなっていた。吐き気がして、咳がとまらず、喉が棘を刺されたみたいに痛む。病院へ行くどころか、出歩くことすら考えられない。

 熱は三十九度五分を超えていた。意識がもうろうとするのに眠れない。うつらうつらすると、喉に激痛が走ってたたき起こされる。そうしてほとんど寝られない状況がまる二日ほど続いて、僕は妄想にさいなまれはじめた。

 具体的になにがどうというのではなかったけれど、意味もわからず恐ろしく、そして不安だった。なにか大切なことが思い通りにいってくれないような、いや、それどころか、とても厄介なことが起こりそうな予感が、頭にこびりついて離れなかった。気付くと、口が勝手にうめき声をあげていた。

 喉と胃はもう、水とヨーグルト以外のなにも受け付けなくなっていた。汗が滝のように出る。時間の感覚がなくなり、身体的な苦しみと、妄想の訳のわからない恐ろしさとが、延々とくりかえし襲ってきた。

 熱い、熱くて死にそうだ。

 寝込んで、一週間くらいしただろうか。いや、二週間くらい過ぎているような気もするし、一か月くらい経ってしまったような感じもする。端末で日付を確認しようにも、ディスプレイを見るだけで吐き気がこみあげてくる。どのみち日付がわかったところで苦しみが終わるわけじゃない。僕はほうっておくことにした。

 ときおり空間はバグをおこした。緑や水色の文字列が、部屋の光と闇のなかでちらついて、やがて消えた。遠い車の音が忽然としなくなり、しばらくすると、もとに戻った。そのあいだずっと、僕は熱にうなされ続けた。

 ふと気づけば、学校にぜんぜん連絡をしていなかった。ときどき、インタホンがけたたましく鳴った。固定電話が鳴った。端末が鳴った。けれども僕は頭がぼうっとするばかりで、手を伸ばすことさえできなかった。どうせ、がんばって這っていっても、たどりつく頃には、止まっている。

 もしかしたら、ほんとうに死ぬかもしれない。

 僕は、そのことを意識しはじめた。

 コップに水を汲みにいくことすら、つらい。トイレをベッドのうえで済ませてしまおうかと思ったことも、たびたびだった。

 死ぬなら死ぬで、それでもいいか、と思った。どうせこの先も脇役しかまわってこない。かっこいいディフェンダー使いたちの活躍を横目に見て、むなしさを感じるだけの未来だ。いじめられてひきこもりに追い込まれ、レールを外れた人生だ。執着するほどのものじゃない。

 けれど、最後にひとめだけでも、めぐみに会いたかったな。

 それから、できれば楽に死にたい。

 切実に、そう思った。

 浅い眠りにおちて、ふと気づくと、ベッドがやたら揺れていた。天井のライトが流れている。ここはどこだ。お母さん……お母さんだ。涙で化粧をぐちゃぐちゃにして、僕をのぞきこみ、ごめんね、ごめんね、とくりかえしている。なにか、お母さんに謝られるようなことをされただろうか。僕はおかえり、のつもりで微笑んだ。とうに声が出なくなっていた。それからまた、意識が遠のいた。

 白づくめの病室で、僕はやっと、生きている感覚を取り戻した。ベッドから身を起こすなり、茶髪をあでやかに巻いたキャバ嬢が抱きついてきた。女のひとはどうしてこう、いい匂いがするのだろう。すこしして、それがお母さんだと分かった。腕のなかのお母さんは、信じられないほど小さかった。幼い頃からずっと見上げてきた母親の、背中がこんなに頼りないものとは思わなかった。

「あー、死ぬかと思った」と、僕はしみじみ言った。喉の調子がまだ戻ってないのかもしれない。なんだか声がすこし低くなった気がする。「おかえり。海外旅行たのしかった?」

「あたし、最低の母親だわ。レイくんがなかなか電話に出てくれなくて、学校に電話したらレイくんが登校していないって言うから、あわてて帰ってきたの。そしたらレイくん、ベッドのうえで死にそうになっていて……。あたし、彼とは別れる。子供のことが心配だから帰るっていったら、男子高校生なんだから平気だろうって。あんなことを言うひとだとは思わなかった」

「そのほうがいいかもね」と僕は言った。そのうえ妻子持ちだ。そんな男と一緒にいても、お母さんがしあわせになれるとは思わなかった。

 お母さんは湿った長いまつげを指でぬぐいながら微笑み、僕をまじまじと見て、

「レイくんは痩せればイケメンになるって、ずっと思ってた」

 はて、なにを言っているのだろう、この人は。

 その二日後、僕は退院をゆるされた。マンションに帰ってきて、まずは汗をながそうと浴室に入り、シャワーのノブをひねったところで、思わず鏡を二度見した。

 だれだこいつ!

 病院を出たときから、視点がすこし高くなったかな、という気はしていた。たぶん十センチくらい背が伸びている。けれどもそれより、あのぶよぶよした身体が、いい感じの細身にかわっていた。胸板ができ、喉仏がすこし出ている。

 その上に、どこかで見たことのある顔がのっていた。

 思い出した、アルバムのなかの父親だ。

 骨格のレベルで輪郭がサイズダウンしている気がする。目元は凛然として、鼻筋はとおり、唇はきりっとしていた。頬はすっきりして、太っていた頃はうっとうしいだけだった長めの髪が、いまではそれなりにいい感じになっている。

 僕は声に出していった。

「だれなんだよ、この人……」

 鏡のなかの、死んだ父親とそっくりの男は、さわやかな笑みを浮かべていた。


 ベルトのうえにお腹が乗らないというのは、とても素敵なことだと思う。

 丈がすこし足りないのにダブダブの制服を着て、ひさしぶりに登校してみると、クラスの女子たちの態度が手のひらをかえしたように変わった。落ちて机のしたに転がってきたシャープペンをひろってあげると、ちゃんと嬉しそうにお礼を言ってくれる。それまでろくに話したこともなかった女子が、身体のことを親身に労わってくれる。話しかけてもさっさと会話を切り上げるような返ししかしてこなかった女子が、むこうからアニメの話を振ってくる。びっくりするほど話が弾む。これがふつうで以前がひどかったのか、以前がふつうでいまが優遇されているのか、僕には分からない。どうであれ、素直に嬉しかった。嬉しいどころじゃなく、ありがたみをかみしめた。人情が、ひとの温もりが、身に染みた。

 ただ、その一方で、このひとたちはまた僕がぶくぶくと太ったら冷ややかになってしまうのかなと思うと、どんなに可愛らしく見えても、いまひとつ胸がときめかなかった。

 昼休みに、カツアゲグループのリーダーに呼び出された。

「調子に乗るなよ、テメエ」と言っている。

 僕は不思議と落ち着いていた。十センチ背が伸びたせいもあるだろうし、遠野めぐみみたいに可愛い女の子がディフェンダー使いとして命がけで戦っている現実に触れて、僕のなかでなにかが変わったせいもあると思う。僕はなぜか、カツアゲなんてやってるしょうもない奴に、負ける気がしなかった。しょせん、抵抗しない奴を相手にいきがっているだけの雑魚だと、飲んでかかっていた。

 そうして、この状況が格闘ゲームだったとしたらどう対応するだろうと考えた。

「オラ、恒例の持ち物検査だ、さっさとバッグを出せ」

 僕はバッグを差し出すポーズだけして、そいつが目のまえまでくると、思いっきり股間を蹴り上げた。アレが潰れたとしても僕は知らない。ひとからものを奪おうとするほうが悪い。それからみぞおちを殴って呼吸をとめてやり、まえかがみになったところへ、髪をつかんで顔面に膝蹴りを入れた。

 やろうと思えばちょろかった。

 いままで、なんだったんだろうと、拍子抜けしたくらいだ。

 そいつはすっかり戦意を喪失し、よろよろと逃げようとする。僕はうしろからベルトをつかんで引きもどしたけれど、怯えきったそいつの顔を見ていたらなんだか可哀相になってきて、そこで攻撃の手をとめた。

 僕はそいつに土下座をさせて、学校で二度とカツアゲをしないと誓わせ、教室に戻った。

 帰り際になって、僕は職員室に呼び出された。カツアゲグループがチクったらしい。カツアゲしようとしてやりかえされて先生にチクるとか、プライドがないのだろうか。僕は腹のそこから呆れたけれど、その場で停学を言い渡されたのには参った。学校を休めるのはありがたかったけれど、お母さんに心配をかけてしまう。

 連中がこの件を警察沙汰にしなかったのは、カツアゲしていたのがバレると困るからだろう。学校も学校だけれど、僕はそんなどうしようもない連中に、登校拒否にさせられかけたのだと思うと、ひたすら、乾いた笑いしか出てこなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ