心の旅路-3
●ネル様無双
ここが元居た世界とどういう関係の世界なのか、さっぱりあたしには判らない。
ここのあたしは弓の貴族として生まれ成人したネルじゃなくて、小学二年生の女の子加藤乃愛だ。
あっちの世界で八歳の女の子と言えば、早い子は結婚している場合もある。勿論本当の夫婦生活はまだまだ先だけれど、妻として城や館を預かる留守大将を務めたり、領地の差配をしたりもする。法的には立派な大人なだけれど。
この世界での八歳は、下手すると幼女と呼ばれかねないちっちゃな子供。家事の手伝いさえする子は少ない。
十五年間過ごして来た世界の常識と、覚えてはいるけれどこの世界の常識が噛み合わず、驚かせられることばかりだ。
「えーっ!」
びっくりしたのは病院付属の養護学校。先生がベッドの前までやって来きて教えてくれる。
ベッドの上を前後に動くテーブルに本とノートを置いてマンツーマン。
本当は同じ教室でお勉強する所なんだけれど。怪我や病気で遅れて居る上、患者は歳もお勉強の進み具合も違うからこうなっている。
「なにこれ凄い」
乃愛と言う子の記憶にはあったけれど、授業のおさらいで凄いと思ったのは掛け算九九と言う便利なもの。なんてったって、あたしが知ってる方法の何倍も計算が速くなる。
改めて凄いと感心して、今日も小児病棟から訪ねて来た。
「ねぇスジラド。あんたも九九使ってたの?」
「こっちじゃ常識だからな」
「それにしても便利ね。こんな子供の内に教えて良いものなの?」
「九九って奴は、日露戦争の頃からずっと小学校の二年生で習う事に為っている」
乃愛の記憶だと大昔にあった戦争だ。
「もう百年以上も変える必要の無かった事だからね。暗唱するのに一番適している歳なんだと思う」
世界は違っても、スジラドって博識だ。ほんとに何でも知っている。
こっから毎日スジラドの所に遊びに通うように成って、どれくらいたったのかな?
この日もスジラドと話すのが楽しくて、いつの間にか夕暮れ時。
「乃愛。またこっちに来ていたの?
高杉さん、ほんと毎日済みません。お身体に障りありませんか?」
お母さんがひょこひょこと頭を下げる。
おじさんの元に通い詰める小さな女の子。この世界では事案になってしまう事も多いそうなんだけど、あたしとスジラドの場合は問題無し。だってあたしがお勉強を教えて貰いに来てるから。
暗記が得意な子供の頭で、大人のあたしがお勉強しているんだもん。お勉強が進む進む。
ある日、スジラドが真剣な顔でこう言った。
「ネル様。暫くお勉強お休みにしませんか?」
「えー。なんでー?」
面白いし、今さら止めるなんてとんでもない。
「次から次へ理解して行くんで、俺も調子に乗りましたが。進み過ぎです。
多分、乃愛さんが小学校に戻ったら浮きこぼしに遇うと思います」
スジラドが言うのは落ちこぼれの正反対。お勉強が出来過ぎて学校の先生が持て余す事態の事だ。
「良いご本があるんだから、こんなん誰でも出来るでしょ?」
教えなさいよと詰め寄ったけれど、
「こんな短期間に、九九からここまで進むのはネル様くらいです。
もう直ぐ加藤のお母さんが迎えに来るから、教科書見せて目の前でこの問題解いてみて下さい。
そしたらどれほどの物か解ります」
「それにこれ覚えといて損ないよ。今やってるとこなんか、地図を作るのに物凄く役に立つじゃない」
そうこうしている内に、あたしを連れ帰りに来た加藤のお母さん。
「お母様。少しお話が」
耳打ちするスジラドの話の内容に、信じられないって顔をする。
「乃愛。使っているご本見せて」
「これだけど」
ご本を見せる。
「乃愛ちゃん。これ、本当に解るの?」
恐る恐る聞いて来る。
「うん。数の二って書いてあるから、二年生の範囲だよねこれ」
あ。お母さんの顔が引きつった。
「乃愛ちゃん。この問題解いてみて。
数表は小数第5位以降切り捨てで使って。答えは10センチ単位に四捨五入」
スジラドが数表と一緒に、二ヶ所で測定した角度から川幅を求める問題を出して来た。
「基本問題ね」
単純に公式に当て嵌めて計算すれば出る問題だ。最後に数表から数字を引いて計算。
「出来たよ」
とあたしが回答を突き出すと、
「乃愛ちゃん。お母さんの方を見て」
とスジラドが言った。
「え? どうして?」
この世界には、石化しちゃうモンスターが居ない筈なのに、加藤のお母さんが彫像みたいに固まっていた。





