クリスの疎開-02
●疎開の勧め
「しかし、何れ夥しい敵が攻め手が押し寄せて来るのは間違いないだろう。負けぬと言っても陥ちぬと言っても、世に絶対に負けぬ戦は無く、絶対に陥ちぬ城は無い。
最初から負けを、落城を考えるのは臆病者と言うのなら、吾輩はクリスの為に甘んじよう。
そもそも既に、女に対して家督相続の邪魔と討手を差し向けるような異常が起こっているのです。
人の子の為すことに絶対は無いのです。クリスを神殿に疎開させては貰えまいか」
アレナガは、充分に勝ち目があると言うナオミに異議を唱えた。
「アレナガ卿。そこまでおっしゃられるのでしたら。クオン皇室開闢前から続くウサのお家を護る為、最悪家を分かつことも視野にいれて下さい」
文官気質が強いと言っても、一朝事有る時は旗幟を明らかにして戦うのが弓の貴族の務め。
「委細承知。時には家を分けて保つのも弓の貴族の倣いです」
アレナガは瞬時に腹を括る。
「いずれにせよ。まだまだ判断に足る情報が御座いません。出立の準備を進めつつ、情報収集に力めましょう。
クリスちゃんを誘拐し、ウサを引き込もうとする愚か者に対抗するために、神殿にはわたしも同行いたします。
いやしくもカルディコット一門に連なる者ならば。庶兄アイザック様の乳兄妹のわたしを襲えば、最早収拾の着かぬ動乱の引き金を引く事を、知らぬ訳ではございませぬから」
確かにナオミを襲ってアイザックが黙って居る筈もない。この際アイザックの個人的な感情は問題ではない。
武に拠って立つのが弓の貴族である以上、舐められて報復を考えもしないのでは累代の郎党さえも付いて来ない。まして他家なら猶更である。
そしてこの事は、家督争いの芽がある以上、際限無き報復合戦の嚆矢と成り得た。
「保障としては十全ではありませぬが、誰もそんなことは望まない筈ですわ」
だからクリスちゃんを護ることが出来るのだと、ナオミは言う。
こうして情報を探りつつ、ナオミらは旅の準備を進めた。
不測の事態に備え、馬では無くロバを三頭用意して馬車馬の代わりとし、馬車を切り離してロバだけでも逃げれるように鞍と鐙を据え付けた。鞍には非常食と水袋などを括り付けてある。
「ロバではいざと言う時」
アレナガは難色を示すがナオミは別の視点で物を見ていた。
「ロバならば、旅行中の飼葉の手当は不要ですから」
当然ロバだと馬の倍から三倍も旅の日程を必要とする。しかし文字通り道草を喰らうことが出来るのがロバで旅する強みである。
「人間の方は、剥ぎ取りナイフと弓矢やダークの類でもあれば、塩と酢と水筒を持ち歩くだけで口を糊することが出来ます。後は航海用ビスケットや寒干しオリザや干し果実などを用意して置けば問題にも為りませぬ」
神殿までの計画を聞いたアレナガは、難しい顔をした。
「クリスより年下の小間使いを加えて、女ばかりの三人旅ですか?」
「正確ではありませんね。ギルドに頼んだ護衛を含め五人旅となります」
「いやいや寡ない。敵が襲ってくれば一溜りもありませんぞ」
ナオミは静かに頭を振り、
「ご心配は無用です。頼んだのは無役の権伴。人選は神殿に撰んで頂きました。
権伴は名ばかりとは言え皇帝陛下の臣でございますゆえ、領の護りに雇うのは難しいでしょう。しかし女旅の護りとなれば引き受けて頂けますわ。彼らが居れば、野盗如き何ほどの者でも御座いません。所詮はイズチにも成れず、か弱き者を襲うしか能の無い手合いにございます。
それに、戦いに赴くのではあません。少人数故の小回りと隠密は捨てがたい上、こちらにアレナガ殿の気の済む数の兵を割けば、こちらが手薄になるばかりではありませぬか。
これより先の宇佐の地は、一兵でも惜しい時と存じます」
と道理を説く。しかし、
「それはそうですが」
娘の安危が懸かるだけに渋るアレナガ。
「大丈夫だよ。クリスだって戦えるもん」
任せてと胸を叩くが、アレナガの心配は増すばかり。
「魔法や飛び道具の類ならばなんとかなっても、懐に入り込まれたら物を言うのは腕っぷしだ。
お前は自分が女で、まだまだ子供だってことを忘れちゃいけない」
こうして話は何度も堂々巡り。結論付けるまで幾日かの時が流れ去った。
最後の一押しは届けられた軍勢の情報だった。謀叛人スジラドを討つべしと、途中の村々を略奪しながらこちらに向かって着実に歩武を進めている。
この報に添えて。あくまでも未確認の情報だが、軍勢はスジラドが神殿と北の領地を結ぶ線のどこかに潜んで何れかに逃げ込もうとしているとの話ももたらされた。
「ナオミお姉ちゃん。早く兄ちゃを迎えに行こう」
急くクリス。
「早く立たねば出くわします。いまならここ、森の浅き所を使って入り違う事ができましょう」
「最早、是非も無しですか」
決断を迫るナオミに溜息を吐くアレナガ。
途中の村とて、むざむざ途を借りて伐たれた訳ではない。村を食す中小の領主が居るのだ。それを圧し拉いで向かって来る以上、宇佐の地だって巻き添えを食わずに済まされる訳がないのだ。
諦めが入ったアレナガは、何度もしつこく念を押すように、
「いいかい。もしも戦わねばならない時が来たら、必ず地物を味方に距離を取りなさい」
とクリスに向かって繰り返した。





