クリスの疎開-01
●戦の兆し
時は少し遡る。
カルディコット伯爵の急逝の報せは、アレナガ卿を通して北の領地にも届けられた。
「これは、荒れますわね」
乳兄妹アイザックの命により新宇佐村に派遣されて以来、押し掛け与力として北の領地に留まって居たナオミは、カルディコット一門の長者突然の死に呟いた。
「やはりナオミ殿もそう思われるか」
難しい顔をするアレナガにナオミはゆっくりと頷く。
「早晩ここも巻き込まれましょう。伯爵閣下とアレナガ殿のお力もあり、詳細が外に漏れぬようにして参りましたが、この地は余りにも美味し過ぎます」
なにせ魔物の領域の解放は、前例を目撃した者など誰も居ない大快挙なのだ。
実態を知らぬ部外者から見てもハッキリと判る美味しい土地。
たとえ、拓いて下々畑にしかならぬ土地であったとしてもその領域は果てしなく、元々無主地であるのだから柵も少ない。盤踞して力を貯えれば孫子の代には権門に連なることも不可能では無い。
欠点と言えば、魔物の領域に隣接した土地と言うことと、未だ開墾途中であると言うこと位か?
普通、開墾・灌漑と耕地にするのも厄介であるし、土作りして収穫の安定までに十年は掛かる。
魔物の領域に隣接と言う事は、安全を確保のために乏しい収入を割いて結構な戦力を張り付けて置かねばならない。
目先の事だけ考えるなら、作り取りのノヅチの次男三男を招けば良い。しかし入れ過ぎると後の問題となる。
給金の要らぬモノビトと雖も、購う金と口を糊する食料が要るのだ。
現在、北の領地と呼び習わされたこの土地は、資本投下したカルディコット伯爵当人がいくつかの利権を抑え、回廊となるウサ家が関銭の権利を手にしていた。
しかし同時に国法の『新しき土地は拓いた者が主となる』の規定により、禍津神を降したスジラドの本貫地、つまり主君と言えども勝手に取り上げる事の出来ない領地となって居る。
「幸いに、詳細の全てはわたしくらいしか把握できておりませぬ。
しかし、もし外部に知られたら。伯爵様逝去の混乱に乗じて掠め取ろうとする手合いが、澱みし藪沢の蚊の如く涌いて出て参ることでしょう。
うふふ。でも心配なさるには及びませんわ」
「心配無用? ではナオミ殿。実際に今どうなっておるのですか?」
断言に今一つ確証の欲しいアレナガの問い。
「スジラド様の指摘にて、開拓地に炭酸石灰を施した所、蕎麦・粟・稗、後は牧草やイモや豆の類しか実らぬ土地に、大麦小麦オーツ麦が生り、沼畑も広がっております。
質もわたしの見立てでは既に中畑に達する物生りですわ。ノヅチの所領を除くと、オリザだけでも既に草高三万石を超えましょう」
コロコロと笑い、ナオミは何でも無い事かのように語る。
「な!」
目を見開き絶句するアレナガ。
そりゃそうだろう。草高とは土地の見込み収量の事で、三万人の食料を賄う収穫があるのだから。
さて。およそ主君が家臣に課す軍役と言うものは、領地で自弁可能な食糧で決まる。目安はオリザ二百石に付き騎士一人に徒歩一人を配下として、常雇いにして置かねば為らぬのだ。言い換えれば、何の問題も無くこの割合の兵を養えると言う事になる。
ナオミの言う三万石と言えば、その百五十倍。つまり騎士と徒歩それぞれが百五十、加えてこの規模ならば自前の補給部隊を維持できる。しかもそれは作り取りのノヅチの分を除いての事。領主が思い通りに動かせる数だ。
遠征ならば応じない者も出るかも知れない。しかし防衛戦ともなれば間違いなく、これに郷士であるノヅチと支配下のイヅチが加わる。
「護って時を稼ぐくらいならなんの心配もございませんわ。それはもう色々と、ウサの大姫殿が遊んでくれましたから。真名で城と言う文字は、土が成ると書きますものね」
アレナガ・ウサの知らぬ間に、北の領地は弱小男爵や騎士爵の家一つや二つでは陥せぬ土地と化していた。





