プロローグ
●心の隙間
あれから。スジラドは行方不明のまま。
生きているのかそれとも死んでしまっているのか、何の手懸りも掴めない。
半ば魂が抜け出てしまったようなあたしは、日を追うに連れ増して行く気怠さに、もう何をする気も覚えなかった。
「ネル殿。もう三日も水しか口にして居ないじゃないですか。さ、これを」
スープの皿を持って来るシア司祭長の後ろ盾ハリーさん。
「放っておいてよ」
何を食べても美味しくない。口の中が苦くて、舌が痺れて食欲がない。無理に食べたら吐いてしまい、水と塩しか受け付けないのよ。
「さ。スジラド君が戻って来た時、この様では出迎えてあげる事も出来ませんよ」
利いた事を言う。あんたなんて妹の昇進祝いに訪れただけの、何の関係もない刀筆の貴族の跡取りなのに。
「召し上がらないと身体に毒ですよ」
そう言うシア司祭長はあたしと同い年。巫女の司である神殿長様に次ぐ預言の賜物を持っていると言う噂の女の子だ。
彼女はついこの間、百番飛ばしで抜擢されて、近年例のない異例の出世を遂げたことでも有名で、いつ知り合ったのか知らないけれど、なぜかスジラドと親しかった。
「判ったわよ」
我ながら嫌になる我儘な返事をして、スープの更にスプーンを入れた。
暖かなスープの湯気が甘く香り、口に含むと程好い塩味でほんのりと甘い。
「……美味しい」
透き通るほどに薄い薄いスープだけど。贅沢な手間を掛けていることが解る。
これ、具を煮溶かして濾してある。肉・魚・野菜・雑穀。沢山の具材から滲み出した美味しさが、深い味わいを生み出している。
「良かった。シアもデレックもずーっと心配してたから」
ハリーさんはほっかりと笑う。
「そうね。帰って来た時、一発ぶん殴ってやらないと」
「おやおや」
ハリーさんは苦笑いするけれど。あたしだけじゃない、デレックもこの人達も心配させているんだから当たり前よ。
時間を掛けて、なんとか一皿のスープを飲み干すと。ほんの少しだけ元気が湧いて来た。
そんな所に、
「ネ、ネネネ、ネル様!」
「あんたちょっとは落ち着きなさいよ」
血相を変えたデレックが飛び込んで来た。
悪い事には悪い事が重なるもの。あたしがお母様から受け継ぐ宝剣が、エッカート家の礼拝堂から移送最中に賊に奪われてしまったのだ。
「なんなんだよ。奪われちまうなんて。神殿騎士もヤキが回っちまったのか?」
八つ当たり気味に口穢く罵るデレックの顔は、もう真っ青。放って置いたら混乱が収まり次第、後先考えず飛び出して行きそう。
「良いのよデレック」
気の抜けた声であたしは言った。もう、どうだっていいんだから。
「いや、しかし。あれさえあれば、最悪でもネルの命だけは護られるんだぜ」
あたしも先祖がイズヤの神から賜ったと言う謂れを知ってる。確かにあれは、ずーっと母から娘へと受け継がれて来たと言い伝えられる宝剣だから。ひょっとしたら宝剣欲しさにあたしを嫁にしようなんて物好きの一人や二人出て来るだろう。
誰が言ったか知らないけれど。女には男の持っている武器に加えて、自分が女であると言う武器を持っている。などと言う。夫婦ともなれば下手な同盟よりも強い後ろ盾だ。最悪でも、家督争いの闘いにおいて、あたしは命を心配する必要は無いかもしれない。
だけどこれは最後の切り札だ。切ったが最後、あたしの自由意思はない。
「だからどうしたと言うのよ。
あたしがあたしで有る事が出来なくちゃ。死んでいるのと変わりないじゃない」
「ネル……」
デレックの目があたしに向く。
「運命に身を委ねなくちゃ駄目ならばあたし。剣の選定を信じるわ」
あの宝剣を抜ける者は資格在りし者。最後にあれが抜かれたのは、あたしが六歳の時。あたしを誘拐した人攫いと戦う時に、スジラドが抜き放ったあの時だもの。あれから誰もあの剣を抜いていない。
「あはっ。こんなことを口にするなんて。あたし、意外とロマンチストだったのね」
無性におかしさが込み上げて、いつの間にか笑っていた。
第六部開始です。





