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ネル先生-02

●色付く柔肌

「あー。疲れるわね」

 上着を脱いでベッドに横たわるネル。その状態で背中を(はだ)け、腰から上の肌を晒す。


「仕方ないぜ。まさかネル様に下働きの仕事をさせる訳にも行かねーし」

 掌にオイルを取ってデレックは、ネルの肩から腰に掛けて擦り込みマッサージを施しながら愚痴に付き合う。


 ネルを受け入れてくれた神殿は、彼女に相応しい仕事を振った。神殿付きの教師である。

 教職は女性にとって少ない名誉ある職業の一つである。だから学問が好きな良家の子女やお姫様が、結婚までの期間を務めたり、結婚後も教鞭を執ったりするケースが多い。

 たとえ連座・縁座で家が没落した上に、乳飲み子を抱えたやもめと成ったとしても。教職の経験があれば貴族や大商人の家庭教師の職が得られるそうだ。


 さて、ネルは腐っても伯爵令嬢。高い教育を受けた貴族の子女で礼儀作法も教養も十分である。しかもネルの場合、サンドラ先生の下で普通の貴族のお姫様が受ける以上の学問を修めていた。おまけにネルは七歳の儀に連れて来た十人の子供達に、立派に読み書き計算を教えていたと言う実績もあったのだ。

 だから教員の仕事を振るのは至極当たり前なのである。しかし、そんなネルでも本式に人に教える技術は習っていなかった。


 初学の手解きは高度な専門技術だ。右も左も判らない。前提となる常識も無い。しかも集中力が続かない小さな子供。神殿はそんな子供達を一度に四、五十人も教えて、役人が務まる人材に育て上げている。

 一度にニ、三人づつで十人なら何とかなっても、一人で一度にあの人数を教える自信などネルには微塵も存在しない。


「でもあたし。子供相手のお仕事っていいなぁって思うよ。今日のはまだすれちゃう前の子供ばかりだったから、悪ガキ相手だと違って来るかも知りないけれど」

「おい。それでこの()りようか? 肩も、首も、背中も腰もガチガチだぜ。全然指が入って行きやしねぇ」

「ちょ! ちょっ! ……はぁっ、デレック。今の痛くて声も出なかったわよ」

 涙目で口を尖らすネルに、

「ほんとに肩が真っ赤になってやがる。まるでうちの親父の肩みてぇだな」

 息を切らせたデレックがぼやく。


 力を込めたマッサージで紅葉(もみじ)のように彩づくネルの身体。肩と背骨を挟んで対称に真っ直ぐ伸びる淡い桃色の筋。

 身体全体が汗ばんで、薄っすらと白い湯気が立ち上る。


 ばさっ。

 マッサージを終えたデレックが、大きなバスタオルをネルの上に掛けた。

 ネルはそれを纏う様に羽織(はお)って身体を起こす。


「良かったわよデレック」

 相当の苦痛と引き換えに、軽くなった肩・背中・腰。

「あれ?」

 ネルはデレックの顔が赤くなっていることに気が付いた。

「デレック顔赤く来なってる。そんなに硬かったの?」

 と、少し上気して潤んだ目で口にすると、

「なんでもねーよ! 下に柔らかいクッションが存在し無かったからな」

 明らかに動揺を隠せないデレック。

「なによ! 今じゃそれなりにあるよ。ってデレック! なんで顔逸らすのよ」

 相手が乳兄妹故に、遠慮も無ければ羞恥心も感じないネル。

「あんた、少し変よ」

 しかしこの反応。デレックは確りと意識してしまったようにしか見えない。

 やがて大きく伸びをしたネルは、

「デレック。あたしこれから授業の準備するから」

 と言って、部屋から乳兄妹を追い出した。


●授業準備

 静まった部屋の中、マジックアイテムの揺らがぬ明かりのスタンドライトの下。

 ネルはガリ版刷りの教師用教科書を開いた。


 社会科。この科目は教師が噛み砕いて説明するよう指定されている。

――――

 帝都オリゾは、今は商人の街となった商都オウギノハマに続いて、史上二番目にクオンの首都となった土地である。城壁の中に複数の狩りの出来る森林や田園地帯を囲い込んだ巨大な街で、樹が年輪を刻むようにいくつもの城壁で囲われている。

 その広さたるや、中の耕作地だけで都市の食料自給を賄ってなお余り、人口の増加が無ければ都市を閉ざしたまま何十年でも栄える事が出来ると言われているほどだ。

 俗に城壁一周に三日と言われているが、それは古い時代に作られた内部の城壁の事を指す。

 帝都は内側ほど身分の高い人が住んでいて、身分の低い者は内側の城壁の門の所で止められ、間違って中に入ってしまう事はない。


 オリゾの産業で特筆すべきは三つ。

 一つは二十日粟(はつかあわ)を飼料として家畜化された魔物を飼う、畜産と酪農である。魔物の飼育は現在皇帝家によって魔物家畜の六割の種が独占されており、皇室財源で少なくない割合を占めている。残りは馬愛島のマック・アーサー家など一部の刀筆の貴族の家伝であり、オリゾでも肥育され、帝都以外にも移出されている。

 一つはマジックアイテム工房。各地にある下受け工房から送られて来る部品と、帝都の秘密工房で作られる特殊部品。魔法の発動を肩代わりさせる物の内、生活に密着した物が作られている。

 値段は帝都では平均的な奉公人や職人の三ヵ月分の給金相当と、庶民にとってはかなりの高額だ。しかし一度買うと五年から十年は使え、生活を豊かにする品々であるため、帝都内では庶民まで広く使われている。

――――

 教師用だから赤字で指導の方法が書かれており、赤字で『この学びの直後に、理科の「魔法の(ことわり)に繋げて下さい』と指定されていた。


 理科の該当ページを開くと、スタンドライト・ライター・アイロン・洗濯器。帝都では庶民にまで普及したマジックアイテムのイラストが描かれている。

 教師用だから赤字で指導の方法が書かれており、教材備品を持ちこんで子供達に実物を触らせることと明記されていた。

 赤字の下に下線を引いて『実物に触れさせることが上達の要です』と、ネルが

「もう、いい加減にしてよ。あたし、しつこいの嫌い」

 と口走る程、くどく何度も訴えていた。


 ネルは二つの教科書を行ったり来たりしながら、

『これらの指差し作業の指示は、一作業を三秒で言って下さい』

 と、やたらと細かい指定が入っている。子供達も気を抜けないが、先生はもっと緊張させられる。


「あはは。あたし、先生なんて務まるのかな?」

 ネルは泣き言に近いぼやきを、夜の静寂(しじま)に響かせた。


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