敵討ち-06
●こいつだ
圧し掛かって来る巨大熊。咄嗟に地面を転がり初撃を避けた。だけどこのままじゃ遣られる。
そう僕が思った時。
「うー! やー! たぁー!」
猛烈な眩暈が僕を襲う。天地が何度もひっくり返り、一瞬だけどどちらが上かどちらが下かも見失った。
気付くと大熊も横に転倒している。
ネル様の仕業だ。以前僕が冗談で教えたら出来ちゃった、ネル様独自の必殺技。こいつの効果は脊椎動物の三半規管や甲殻類の耳石等など、動物の平衡感覚を激しく揺らすことにある。
「ががぁぁぁ!」
今ので再び堀の底に落ちた熊の悲鳴が響く。あちらは任せておいて大丈夫だろう。
僕は新手の熊に意識を集中。仲間の投石と投擲具による矢竹の槍に助けられ、稼いだ数瞬を利用して距離を取る。そしてこちらへ向かって来ようとしている熊の顔面目掛け、僕は手持ちの鉄釘を撃ち込んだ。
キュキュキュキュン! キュキュキュキュン! キュキュキュキュン!
術の特性上、不十分な加速しか得られないこの距離じゃ大した威力は無い。いいとこ小口径の拳銃弾だ。
その代わり至近距離だけあって命中率は百発百中。連射は大熊の顔面を捉えた。
たとえ目玉が健在でも、流れ込んだ血が視界を塞ぐだろう。たとえ鼻が健在でも、奴自身の血の臭いが、鼻の利きを鈍らせるだろう。熊の顔面に指向させた鉄釘の嵐は、血飛沫と共に奴の視覚と嗅覚を、少なくとも一時的には封じることに成功した筈だ。
「ごぉぉ」
低い唸り声を上げて立ち上がる巨大な熊。三メートル半? いや四メートル以上の二階を見下ろす怪物だ。その立ち上がった胸に、懸章の様に袈裟懸けに白い毛筋が見えた。
「お前か!」
僕はこいつが村を滅ぼした熊だと悟る。
「ぐぉぉん!」
奴はゆっくりと目を見開いた。釘は些かも眼球を害しては居らず、眼は白刃の様に底冷えする殺気を宿しながら、赫奕たる光を放って居る。
ボクシングで言うサウスポーの半身の構え。右の腕を下に垂らし左の腕を頭上に掲げるその姿は、練達の拳士を思わせる。
来る! 左から浴びせ掛かる態を成し、その実素早く右下から掬い上げるような横薙ぎ。回転レシーブの要領で、襲い来る張り手と爪の下を潜る僕。起き上がった所を襲う転ぶように倒れ込む巨体。転がって距離を取る僕。
あの大きさで何て身軽なんだろう? 僕を圧し潰そうと転げた巨大熊は、四つ足の姿勢で身体を発条のように撓らせて居る。
魔物に限らず動物は、大鑑巨砲時代の戦艦の様に自分の攻撃力に見合った防御力を与えられて生まれて来る。
熊の爪の一本一本が、刃渡り二十五センチ余りの短刀だ。だからあの熊も、刃渡り二十五センチの刃をあの恐るべき力で振るわれても防ぎきる毛皮を持っていると見て間違いない。道理で拳銃弾程度の威力の釘が効かなかった筈だ。
熊の突進を躱しつつ掠め斬る僕の剣は、ゴーンと言う手応えと共に幾筋かの熊の毛を散らした。
「参ったな」
僕の手には皮を斬った感覚がない。剛毛を斬り、皮の表面を滑って切っ先が抜けた感じ。突いても果たして皮を貫き通す事が出来るか疑問だ。熊の皮の下には分厚い皮下脂肪があり、肉はその更に下。
これがどれほど厄介か。
ウサギの膠でリネンを貼り合わせた布の鎧でも、厚さ二センチ半ともなればショートボウの矢を止められる。大人の戦士の膂力でも、腰の入らぬ手突きなら容易く防いでしまうのだ。
因みに爪の長さが十センチの日本のツキノワグマでも皮下脂肪は八センチあると聞いたことがある。
僕は剣で何とかする考えをたった今捨て去った。
「スジラド! こっちは終わったわよ!」
その声と共に、ネル様の矢が熊の右目を貫いた。二つ目の毒矢を喰らった巨大熊は激痛の為暴れるが、毒が回って来たのだろう。さっきよりも鋭さを欠く攻撃だ。
「恒は亨る。終わりて始まる輪の内に。
理に巽いて動き、剛柔皆応ぜよ。
目覚めよ 雷の風 軽肉体制御 俊!」
素早さに肉体制御の特典を全振りした僕は、
「こっちだ!」
キュキュキュキュン!
釘を一連射して熊を煽ると、背を向けて走り出す。習性的に僕を負う筈だ。熊も四つ足で追いかけて来るが、僕の方がより速い。引き離し過ぎて仕舞わないよう調整しつつ、土壁の方へ。
「行くわね! 行くわよ!」
ネル様の番える征矢が、勢い良く僕の上を通過する。
「ぐぅががが!」
根元まで突き刺さった三本目の毒矢に、突っ伏した勢いでスライディングする熊。
「うわぁ!」
滑った分距離を詰められ、掠めた爪が腰の釘袋を跳ね飛ばした。しかし足を止めた熊を襲うネル様の二の矢三の矢。
「今よ、スジラド!」
キーンとする大声に耐えながら、僕は加速したその足で、土壁から垂らされたロープに飛び付き駆け上る。そして土壁の上に陣取った。
毒矢の効果で暴れる熊は、近寄る物を粉砕せんばかりの攻撃を行ってはいるが。その爪が切り裂くのは地面、その牙が咬み砕くのは彼を打つ投石の石。
眼下にそれを見下ろしながら、僕はサンドラ先生の腕輪を打ち合わせ、腕を左右に開いた。
ふらつきながらも起き上がり猛り狂う巨大熊が、僕達の居る土壁の上目掛けてジャンプする為に助走距離を取った隙に、僕はバリバリと音を立てる高圧電流で輝く槍を生成する。
「エェーイ!」
投げつける閃光の槍と飛来する巨大熊の正面衝突。
ドドーン! 轟音と爆風が収まった時。堀の手前に巨大熊が身体を縮めて痙攣を起こしていた。
今の攻撃で死なない恐るべき生命力。だけどもう瀕死。大きく口を開け、涎を垂らし、ぷすぷすと熾火の如く体毛を煙らせている。
「ネル様あれが村を滅ぼした熊です」
僕の声にネル様は命じた。
「バリスタ装填!」
エルペスちゃんとシレーヌちゃんの手によって馬車の板バネを利用して作ったバリスタが巻き上げられる。
「狙え!」
至近距離の熊に向けて二人掛かりで照準合わせ。
「撃てぇ!」
巨大熊の開いた口を掛けて放たれる投げ槍。その穂先が深々と咽喉に突き刺さった。
気管を潰し、動脈を断ち、脊椎を砕かんばかりの勢いで。
巨大熊は暫くの間激しくもがいていたが、やがて目をかっと見開いたまま動かなくなった。
「シレーヌ! エルペス! やったわね」
ネル様の声に、シレーヌちゃんが声を上げて泣き出した。
「新手か!」
反射的にデレックは叫び、僕も皆も身構えたけれど、
「怖いんじゃないの。嬉しいの」
続くシレーヌちゃんの言葉に漸く終わったんだと、大きく呼吸を吐き出した。





