四 産業変革
昭和一六年、日本国内の経済は上昇基調に転じていた。国内総生産、卸売物価指数、消費者物価指数ともに、昭和恐慌後の底値から回復して、急上昇の傾きを示していた。デフレーションは解消され、インフレーションに入った。賀屋蔵相と藤原商工相は、良性インフレに誘導し、持続的な好況となるように人工景気を発動した。
人工景気は、物価上昇、設備投資、需給拡大、給与上昇を同時に回すものである。好景気の要素を励起させ、次の要素へと繋げる。励起が不足であれば、十分な数値に達するまで介入する。そのために、国際収支も無視して資源を無制限に投入する。賀屋の生産力理論はどんな財政政策や金融政策をも厭わないものだったが、人工景気では国際収支のあり方も問わない。
米国からの大規模借款が可能になると、中国からの事変補償金や仏印からの駐留費をその弁済の根拠とした。通貨増刷にあてる国債の消化も、日銀による引き受けだけではない。国防基金をはじめとする新設基金や社会保険は民間金融機関にも入札させた。
五年前に制定された企業統制三法は健在であり、国家総動員法、電力管理法、価格等統制法も撤廃されていない。輸出入品等臨時措置法は輸入原料や製品の数量的な管理を行い、臨時資金調整法は企業の新設合併から設備投資までの許可を行なう。近衛内閣の遺産である業種ごとの産業統制会を、藤原は最大限に活用した。
統制会が無償貸与する工作機械で、指定された部品や中間製品を生産すれば、原料調達も製品販売も統制会が全面的に引き受ける。財閥系の重工業企業は食指を動かさなかったが、民需用品を製造していた中小工場は飛びついた。
所定の品質検査を通過すると、工作機械は譲渡される。検査は厳格だった。
統制会が頒布する計測器具、検査器械は全国の中小工場に導入され、品質管理規程は普及した。規格化された標準部品は、全国どこでも使える共通のものとなった。設計製図基準も改訂されたからだ。
昭和一七年、労働市場も流動化していた。外地から撤収してくる兵隊や民間人は百万人を超えたが、就職先・移住先がないものは六割ほどだった。農地改革が進行し、昔ほど余剰人員が農村から出てこない。また、百数十万人の朝鮮人の送還は最終段階で、低賃金と低生産性で労働市場を混乱させた労働者は退場した。
賤業と称して特定職種を独占することも禁じられた。職業に貴賤はなく、労働市場は自由でなくてはならない。利権の固定化は絶対に許されない。労働力の需要は増え、供給は逼迫する。工場の機械化が始まり、企業は給与待遇の改善を競い始めた。