五 中間選挙
北海道釧路国支庁の阿寒岳山麓にある北海道農事会社の敷地は阿寒町から白糠町にまたがり、およそ二千六百平方キロの広さがある。そのうちの十分の一が今年の時点で入植可能であるが、耕作可能なのはごく一部だった。開拓村の当面の方針は畜産である。牛羊豚だけでなく、鶏や鵞鳥、家鴨などすべて行なう。畜舎で出る糞尿で施肥を行い、徐々に土壌を改良していくのだ。
一一月に入ったその日は朝からよく晴れていた。阿寒岳の頂には陽光に輝く白いものが見える。阿寒湖温泉で初雪が降ったのは先月で、この辺りにもすぐに雪が降るだろう。吹く風は冷たい、もう冬なんだと、去年からいる開拓村の事務掛が言った。野中正助は黙って頷き、受け取った鍵束を手に車両倉庫に向かう。
倉庫には納車されたばかりの雪上車がある。受領時に始動を確認しただけで、まだ本格的に動かしていない。今年は十戸以上が山麓の斜面地で冬を越すから、雪上車の出番はあるだろう。馬と橇もあったが、去年は吹雪の中で立ち往生したという。すると、風雪の中での移動も想定しておかねばならない。正助は今日の手順を考えながら、助手の後に続く。
正助が扉の鍵を外す。助手が勢いをつけて扉を開け、嬉しそうな声をあげた。
「わっ、戦車だ!」
中には、覆帯をつけた車両が二台あった。砲塔と機銃を外された、八九式中戦車と九四式軽装甲車である。まだ陸軍色のままの車体は、陽光に鈍く反射していた。
阿寒川に沿った道を二台の車が上って行く。先頭の乗用車を運転する野中ふみは、後席の米国人に説明していた。
「河川流域が泥炭地で、他はほとんどが黒ボク土だそうです」
「ああ。日本の黒土は独特で、アルミナの含有が多い。クロボクドにも種類があるが、いずれにしても牧草地から始めるのは賢明だと思うよ」
「そうなんですか。触った感じでは良い土みたいですが」
「一作、二作はいい。だが、すぐに地力が落ちる。養分を保持できないのが特徴なんだよ」
後席の中年の男が答えた。
「でも、畜産だと米麦は買うしかありません」
「日本は主食と副食の文化よね。米は完全食だから自給にこだわるのは理解できるわ。でも、一家ですべては無理よ」
後席の初老の女性は優しく言う。
「気候と土壌で決まりますからね。肥料や機械を潤沢に使えばどこでも可能ですが、それでは経営が成り立たない。赤字だ」
「やはり会社の言うことが正しいのですか。家禽からの肥料では、芋や野菜がせいぜいです」
「正しいね。まずは子牛を買って育てるところからだ。失敗が少ない」
「日本の農家は小規模で親子で継ぐから見えにくいけど、農業の初期投資は大きいのよ」
「いつも兄が言っています」
ふみが大げさに溜息をつくと、助手席の若い男が笑いながら言った。
「フミさん。子牛や子馬は数年で育って売れるようになり、同時に肥料も得られる。工芸品や細工物の副業で、米や魚を買う現金が入り、借金も減っていく。とても健全なやり方です」
農事会社の方針を褒めた若い男はGNクシロの社員だ。後席の男は地理学者で、女性は人類学者だった。
「あら、GNが言うなら間違いないわね。きっとこの農事会社も大儲けしてるわ」
「ベネディクト博士、うちの開発投資は、極東の全事業を長い目で見て回収します。大儲けはだいぶ先の話です」
「その極東責任者のガーハイム氏が戻るのはいつかな。奥さんと交代で我々は帰国することになっているのだが?」
「トレワーサ博士、選挙が終わったらすぐです。大丈夫、クリスマスは本国で過ごせますよ」
「そうか、ローラは共和党の本部職員だったな」
「手伝わされたのね。どうなるのかしら」
米国人たちが中間選挙のことを話し始めると、ふみは口を閉ざし、運転に専念する。雇い主のローラのことは気になったが、外国人は立ち入るべきではない。
一九四二年は米国の選挙の年だ。議会下院の四三五席の全員と上院九六席のうち三三人が改選される。大統領の任期四年のちょうど半分にあたり、中間選挙と呼ばれる。今年の投票日は一一月三日だった。日本では明治節の祝祭日だ。
ふみは七月末に満洲視察から戻って来たが、ローラに半年の新契約を提示されて同意した。今度は米国の札幌総領事館の臨時通訳ではなく、ローラの個人秘書だった。条件は悪くない。弟妹を中学に行かせて、兄の借金も減らせそうに思えた。仕事は忙しく、広行寺の住職に釧路市内の下宿を世話してもらった。
一ヵ月後、ローラは日本訪問の共和党議員を世話して、国内のあちこちを回ることになった。もちろん、ふみも同行する。米国からの議員団は民主党の大統領が派遣したもので、その議員はローラの師匠にあたるらしい。
「六月の参戦では民主党からも反対票が出たからな」
「昨年末のスクープ以来、大統領は戦争屋ともっぱらですわ」
「極東に平和をもたらしたのは、まあ間違いではないですが」
「だからといって、欧州大戦への参戦が納得できる訳でもない」
「論理的に欧州のことを説明すべきでしょう。極東とは無関係だわ」
大統領の参戦決定は、議会承認では二割近い反対票が投じられた。その後の戦況でも連合国は振るわない。ソ連や英国は思ったように反攻できていなかった。世論調査でも積極的支持は少数派だ。このままでは、中間選挙は大敗となる。てこ入れが必要だと、ホワイトハウスのスタッフは判断した。
大勢の記者を同行した議員団の訪日の目的は、米国が極東に平和をもたらしたことを喧伝することだった。日本に中国との戦争を止めさせ、さらに朝鮮を分離させた。それを大統領は、武力を用いることなく達成したのだ。植民地主義を排し、平和を愛するルーズベルト大統領にだけ可能な功績であると。
下院議員団は民主党が組織したものだったが、一人だけ共和党議員が混ざっていた。先次と今次の欧州大戦への参戦に、二度とも反対票を投じたジャネット・ランキン女史である。平和と植民地撤廃を強調するには、米国初の女性議員で平和主義者のランキン議員を外すことはできなかった。
「始まった以上は協力しますよ、民主党支持者でなくてもね。しかし、どうもすっきりしない」
「新聞もラジオも危機を煽るだけだしね」
「それより、よく日本政府が承知しましたね」
「すっかり協調的になったわね。ふみさん」
「さあ、政治のことはわかりません」
東條首相は、吉田大使と重光外相の懇請を受けて考え込んだ。協力することは吝かではないが、米国の功績を印象付けることは、日本の屈従が強調されることでもある。せっかく収まった世論がぶり返さないとも限らない。閣議では慎重論も出たが、毒を食らわばなんとやらだ。結局、東条内閣は承諾する。
誤解の部分もあったので、この機に各所各員を総動員して、日本の平和主義、満洲の繁栄を内外に周知させることにした。久方振りに厚遇された記者たちは、名文麗辞を競い合う。議員団の行くところ、日章旗と星条旗がはためき、小中学生、婦人会、在郷軍人会が歓迎した。日米友好が声高に唱えられ、日本人白人説も再び注目を浴びる。
LS兵隊戦史第一部 完