四 東方の壁
ドイツ陸軍参謀総長のハルダー上級大将がブレストに立ち寄ったのは一〇月のおわりだった。ブレストは東部占領地域ウクライナの西端にあり、ヴェアヴォルフからヴォルフスシャンチェに戻る途中にある。今次大戦前はポーランド領で、軌間の異なるソ連鉄道への乗換駅、結節点であった。
そして今、ブレストの要塞にはドイツ第三帝国の東方総督府が置かれていた。正しくは東方占領地域省の行政調整府であるのだが、誰もが東方総督府と呼んでいた。大臣のハイドリヒ親衛隊大将はポーランド総督でもあったが、最近はここで執務することが多い。
ブレスト要塞は直径二キロほどの十稜二重の星型で、およそ百年前にロシアが建造したものだ。昨年六月の激戦地で、ソ連の守備兵は一ヶ月も抵抗した。ヒトラー総統、ムソリーニ統領も視察に来たことがある。その時はソ連兵の掃討が完了しておらず、中には入れなかった。もちろん、ハルダーも知っているが、胸中に浮かんだのは別のことだ。
(彼のことだ。わざと紛争のある微妙な地域を選んだのだろう)
長くリトアニア領で、ブレスト=リトフスクと呼ばれた。その後、ポーランド領とロシア領とを転々とし、先の大戦ではドイツに占領され、終戦後はポーランド領。住民はリトアニア人、ポーランド人だけでなく白ロシア人も多い。今次の大戦が始まるとドイツが占領した後、ソ連に割譲される。独ソ戦でまたドイツ軍に占領された。どの戦いも激戦だった。
ハイドリヒは要塞の中央の橋で出迎えてくれた。若い親衛隊員を連れている。まだ頬が赤い少年である。ハイドリヒとハルダーは挨拶を交わす。
「ようこそ、参謀総長閣下」
「邪魔をするよ、総督閣下」
先導するハイドリヒにハルダーは続く。あちこちに警備の親衛隊員が立っていた。持っているのはマシンピストルで、つまり警備の脅威は要塞内にあるらしい。各所で行なわれている改築工事の労働者が対象だろう。労働者はトート機関の制服を着ていた。
「軍需大臣が送ってきたシオン生産分隊です。シュレージエンのユダヤ人が中心です」
「公邸は別の場所に?」
ハルダーは小声で聞いたが、ハイドリヒは大声で答える。
「いや、この中央島です。あちこちに住居をもらっては申し訳ない」
執務室はまだ最低の調度しかなく、広かった。二人がソファに座ると、給仕が紅茶を運んで来た。盆の上にはポットとカップが三客、氷砂糖と生クリームの器があった。作りおわると給仕は出て行く。ハイドリヒが一つを渡すと、受け取った少年隊員は平然と飲み干して言った。
「ブレンドですが美味です」
「ありがとう。どうぞ、参謀総長閣下」
ハイドリヒは一口飲んでカップを置くと、ハルダーに勧めた。
「たしかにうまいが、スプーンで混ぜる楽しみがないな」
「そうですね、砂糖が溶ける音も味のうちといいます」
すこし離れたところに立つ少年が小さく頷く。
「ゲーシャといって、ウクライナ人です。事情があって預かっています」
ハルダーはそれ以上は聞かなかった。だいたいの察しはつく。ハイドリヒならば、ポーランドにもソ連にも事情があっておかしくない。ドイツ国内だけでも預からねばならない子供は千人はいるだろう。それは、自分にもあてはまるのだろうか。
「顔色が優れないようですが」
「ヴェアヴォルフに詰めてから夢見が悪くなったようだ」
「軍需大臣も同じことを言われたので、ヒムラー長官に頼みました」
「何を?」
「占星術師にみてもらうのです。よく当たるそうで」
「まさか。疲れだろう、二日間で前線を見て来た」
「飛行機ですね。気圧が変わると酸素も薄くなるのです」
ハルダーは頷く。ハイドリヒは空軍パイロットの資格を持ち、東部戦線で出撃もしているから説得力があった。親衛隊大将のほかに、予備役空軍少佐で予備役海軍中尉でもある。
「先に任務を済ませたいが、よろしいか」
「もちろんです」
グラウ作戦が終了したので、総統大本営は東プロイセンに戻る。国防軍総司令部以下、各軍の参謀たちも移動する。その前に前線を一回り視察したいと、ハルダーは申し出た。来年の作戦計画のためである。総統は笑顔で二週間後には帰営するように言った。視察が終われば余った日数は休暇にあてていいということだ。
「来夏の作戦では退却が許容されるが、距離が小さいと効果がない。しかし、下がり過ぎると『東の壁』の建設に影響が出ると、総統は心配されている」
「大ゲルマン帝国領域と『東の壁』との間の緩衝地域は最大で三百キロ。占領地の治安等級もこれに合わせています」
大ゲルマン帝国は東方進出の限界としてヒムラー親衛隊長官が提唱したもので、おおむねアルハンゲリスクとバクーを結ぶ線の西側で、フィンランドを含む。ドイツ民族以外もゲルマン系諸民族として包括するものだ。
『東の壁』は、将来のソ連の反攻に備えて、大ゲルマン帝国の境界から緩衝ゾーンを置いて下がったところに建設するものだ。工事は軍需大臣が担当するが、建設地周辺の治安防諜対策は東方総督が行なう。治安が悪いと工事が進まないから、二つは密接な連携が必要だ。占領地域は前線から百キロごとに三つの治安段階が設定される。
『東の壁』の位置は、地形的な制約があって一直線とはならないが、だいたいレニングラードからロストフの線だ。現在、工事できるのは、前線と重ならない北端と南部である。
ハイドリヒが机の上に小ぶりの地図を出して指差す。
「来年の攻勢主軸はこのあたりとソ連軍は予想しております」
「うん、東方外国軍課もそう言っている。来夏の目的は敵野戦軍の殲滅だから、兵力を集中してもらわないとね」
「頼もしい言葉です」
「今年の冬もある。作戦はもう始まっているよ」
二人によって色の違う線が何本か引かれた。
「この線までは前線が下がっても大丈夫です。ここからは軍需大臣が要求された後背地になります」
「わかった。ベルリンで会うつもりだ」
「では、これをお持ちください」
地図の入った封筒をハルダーに渡す。多忙の三人が一同に会することは困難だ。参謀総長が地図を持参すれば、あとは電話でも協議は出来る。
「さて、ここからは総統命令だが」
総統命令と聞くと、ハイドリヒは席を会議用の机に移し、上座にハルダーを座らせた。そして、室内の全員に静かに告げた。
「総統命令により参謀総長閣下と会議を執り行う」
「ハイル、ヒトラー」
護衛と少年は退出した。
二人きりになると、室内の空気は微妙に変わる。ハルダーは陸軍上級大将で五八歳、ハイドリヒは親衛隊大将で三八歳であるが、両者には目的を共有した同志の連帯が感じられた。
「来夏の作戦も成功すれば、総統は陸軍総司令官兼任を辞めると言っておられる」
「陸軍のグラウ作戦は成功で、国防軍も北と南でうまくやりました」
「ヨードルはカイテルよりは数段上だ。空軍司令官さえ口を出さなければね」
「空軍大臣はモレル博士の処方にご執心です。来年もです」
「大ゲルマン帝国構想は、空軍大臣の四ヶ年計画庁と施策面で相容れない。特定人種・民族の処遇だ」
「信託公社の官僚交代を進めています」
「いいことだ。軍需大臣もヒトが欲しいだろう」
「次期総司令官は貴案に賛同します」
「ありがとう。とても心強い」
「ほかになければ乾杯しませんか」
「いいね、作戦成功は祝ったが、まだ新兵器に乾杯していない」
「それはいい」
ハイドリヒは少年を呼び、ワインの仕度を命じた。




