一 油田炎上
カフカス山脈の東端、カスピ海沿岸のバクーで石油が産出するのは紀元前から知られていた。本格的な開発が始まるのは一九世紀に入ってからで、ノーベル兄弟やロスチャイルド家が参入すると、産油技術の近代化が進んだ。欧州だけでなく、スエズ経由で遠くアジアまで輸出された。二〇世紀初頭にペルシャで大油田が発見されるまで、バクー油田は世界の石油生産の半分以上を占めていた。
バクー油田は一九〇五年に大火災を起こしている。血の日曜日の年である。放火したのはコバと呼ばれるグルジア出身の活動家だった。同志スターリンはロスチャイルド家に対する油田労働者のストライキを扇動して名をあげたのだ。それから四〇年近く経った一九四二年九月、再び大火災が起きた。そして今も燃え続けている。
八月の末にグロズヌイを抜いた独南方軍A軍集団は、しかし、山中深く入るのを躊躇する。ザカフカス方面軍の敗残兵が山地に逃げ込んだからだ。処罰を逃れられないソ連将兵の抵抗は大きいだろう。山地を遠巻きにした陣地に守備兵力を配置すると、主力の装甲兵力は東へ進む。背後と西側は、まだ機動力を十分に保持している第11軍に任せられた。
ソ連軍は追い詰められた。カスピ海西岸は枢軸軍の制圧下にあり、援軍を上陸させるのは難しい。それよりも、重包囲に陥ったスターリングラードの救援が優先される。製鉄所と兵器工場が集中しており、独戦車に対抗できるT34戦車の組立はここで行なわれていた。
英国も決断を迫られた。大油田と精製設備をドイツ軍に渡すことは出来ない。守りきれないのであれば、破壊するしかない。数年来のパイク作戦の発動である。イランから爆撃機を飛ばして爆撃するのだ。イランの占領にはソ連も参加しているから、秘匿は難しい。英ソ両軍の非公式な会合が断続した。
最終的な決断は英国首相が行なった。連合国としては十分な理由があり、ソ連にとっても不利益ばかりではない。それがチャーチルの結論だった。
戦艦十六隻、空母八隻の大艦隊が独海軍の出没海域に入れば、ドイツの海上戦力は壊滅する。北からの援ソ航路は安泰となり、燃料も潤滑油も必要なだけ送り届けることが出来る。なんなら、イランからでもいい。不利な戦いは避け、同志書記長の都市の防衛に専念されるがよかろう。
もちろん、英国としても十二分な理由があった。欧州大戦全体を観れば、枢軸軍のカフカス駐留は好ましくない。いや、非常にまずかった。中立国トルコの動静に影響するからだ。先の欧州大戦でも、ロシアと開戦したドイツはバクー油田の占領を狙ったが果たせず、結局はトルコが占領した。
バクー油田は枢軸軍だけでなく、トルコも誘引するのだ。空爆で数年間は操業できないまでに破壊すれば、枢軸国がカフカスまで進駐する理由は雲散し、トルコの野心も霧消する。さらに、英資本傘下のイランの油田は世界一となれる。
九月二四日、スターリングラードの工場群と荷役設備を破壊しボルガ川を閉塞すると、B軍集団はゆっくりと撤退を始めた。それまで戦果を上げていないソ連南西方面軍はドン川北岸からの圧迫を強めて、退路を断とうとした。陣地を守るルーマニア軍は苦境に陥る。
B軍集団司令官のボック元帥は、指揮下の第4装甲軍を率いて救援に走った。残された第6軍にソ連のスターリングラード方面軍が猛烈な追撃を開始し、ドン川方面軍もそれに追従する。やっとの思いでドン川屈曲部を渡った第6軍は、しかし、それまでと打って変わった快速で真西へ進み、ドネツ川を背に布陣した。
ドン川屈曲部とドネツ川に挟まれたゆるやかな丘陵地帯、ドネツ回廊での会戦は包囲戦に進展すると思われた。その時、想定以上の破壊に満足したA軍集団はロストフに帰着しつつあり、第11軍はドネツ回廊の南にあったのだ。
元帥に昇進した第11軍のマンシュタイン司令官は、総統大本営を訪問していた。一月から、ヒトラー総統は陸軍総司令官を兼任している。ブラウヒッチェ総司令官が心臓病で入院し、後任に予定されたライヘナウ元帥も脳卒中で斃れたからだ。
七月末、総統は東プロイセンのヴォルフスシャンツェの本営を前線近くへ進めた。ウクライナのヴィーンニツァに開かれた総統大本営はヴェアヴォルフと呼ばれる。半年前に工事は完成していたが、さらに家屋や有線通信回線などが追加された。
マンシュタインは、総統に面会して礼を述べた後、陸軍参謀総長のハルダー上級大将の部屋に寄る。三つ年上のハルダーは、最敬礼して祝辞を述べてくれた。屈託は見られない。
「第6軍は残念だったな」
「あと数日踏ん張ってくれれば包囲は成りました」
「どれくらい逃したのだろう」
「少なくとも二十万、うまくいけば五十万は捕虜に出来た筈」
「ふむ。元帥昇進も逃したのだな、パウルスは」
「さて、それがわかるのは総統閣下お一人」
マンシュタインはかつての部下の顔を見つめた。眼鏡は曇っていない。とすれば本気で言ったのか。二人ともドイツ軍人の名門に生まれ、参謀本部で順調に出世してきた。成績で言えばハルダーの方が上だろう。自分が先に作戦部長になれたのは、プロイセンとバイエルンの違いだ。ドイツ参謀本部は、昔も今もプロイセン参謀本部なのだ。
「参謀総長に礼を言いたくてな」
「本職にですか」
「ああ。ライプシュタンダルテを残してくれたのが勝利に繋がった」
「閣下の功績は変わりません。作戦に必要な要件を実現するのは本職の職責です」
「クリミア戦ではない。グラウ作戦の勝利にと言ったつもりだ」
「恐縮です」
なるほど、とマンシュタインは思った。かつてカイゼルの帷幕にあって戦争を遂行したのは参謀総長だ。クラウゼヴィッツは言った。『防衛がなければ国家は存在し得ない。故に陸軍の生存は国家の生存に優先する』と。自分もハルダーも、それを『参謀の生存は陸軍の生存より優先する』と実行してきた。
二人とも野心家で、敵は多い。主張が容れられなければ辞職や退官はわけもない。だが、今回のグラウ作戦では、参謀総長は熱心にかつ執拗に総統の説得にあたり、妥協もしたという。その事由に思い当たった。ハルダーはこう考えたのだ、『参謀の優秀は陸軍の勝利で証明され、陸軍の勝利は国家の生存で立証される』と。
「参謀総長、前線に戻る。失礼した」
「ご武運を。元帥閣下」
「ありがとう」
ボック元帥をはじめ、南方軍集団の主要な軍幹部がロストフで会合したのは一〇月二二日である。マンシュタインはその席上で、スターリングラードに初雪が降ったのを知った。




