二 東條内閣
昭和一六年一〇月一六日、第三次近衛内閣が総辞職した。翌一七日に組閣の大命は陸軍大臣の東條英機中将に降下する。
東條は、対米戦争の回避こそが新内閣の使命であると正しく理解した。支那事変の続行は米国の権益を侵し、親独政策は米国の援英作戦を妨げる。
そうであれば、対米関係を復するには東亜からの撤収と独伊との断交が必要だ。時間はない。陸軍大臣に加えて内務大臣も兼任することにした。警察と特高、憲兵の全力出動と戒厳令施行を覚悟したのである。
東條は、首相・陸相・内相に与えられた強権を行使することを躊躇わなかった。まず、周到な説得で陸軍上層部の支持を取り付けると、強引な人事を発動し中堅幹部を一新する。統制派首領の面目躍如だ。海軍をはじめとする各大臣・各省に対しては、予算配分や任命権等の総理権限を前面に出して懐柔する。
そして、開戦反対を内閣の統一見解とすることに成功した。
大本営との協議にあたっては、統帥権や作戦に触れないように留意した。戦争資源のうちで政府が主管する事項に関して、調達と維持が至難であり無尽蔵ではないことを丁寧に説明する。それはつまり、大本営の作戦と勝利の前提が崩れることであった。
大本営は妥協し、政府は対米交渉妥結まで半年間の猶予を得た。東條は、満州開放、朝鮮分離も見据えて、米国と中国に交渉全権を派遣した。
対米戦争回避の最大の抵抗勢力は国内世論だった。東條は、折からのソ連スパイ事件を最大限に利用する。逮捕されたスパイ団首領のゾルゲがコミンテルンの諜報網と企図を自白したからだ。政府はゾルゲ事件の全貌を発表すると同時に、敗戦革命を企んだとして主義者の大規模一斉検挙を発動した。検挙者は6万名に達し、華族や議員、軍人にまで及んだ。
世論は変わり、帝国議会は日米交渉と日支交渉に賛同した。
一一月末、日米交渉で緊急輸入が決定し、帝国陸海軍と全邦人は仏印から撤収した。また、日中交渉が妥結すると、支那全土からも撤収が始まった。一二月、日本は日独伊三国同盟から離脱した。
昭和一七年四月、陸海軍と外務省は一致協力して外交攻勢をかけ、米英の軟化に成功した。五月、ついに新しい日米通商航海条約が締結された。大本営政府連絡会議は日米不戦の成就を確認した。