狙撃手
第一二師団の移駐に伴い、歩兵第四六連隊が琿春に来てから一ヶ月近くになる。第二中隊に所属する初年兵が初めて実弾を撃ったのは、移駐まもない祭日の午後だった。二年兵ら古兵は外出していて、非常呼集で出動したのは初年兵ばかりだったが、命ぜられるままに銃を撃ち、銃剣突撃を敢行した。
夜になって国境守備隊と交代し、初年兵らは兵舎に戻ることができた。そして待っていた古兵たちに殴られた。制裁の後は完全武装のまま、駆け足で営庭を周回させられた。堪らずに不平を言った初年兵は、さらに殴られ、また駆け足させられた。くたくたになった初年兵たちは、泥のように眠った。
翌朝も非常呼集で起こされた。営庭に集合した完全武装の兵隊たちは中隊ごとに駆け足で兵営を出た。そのまま琿春市外を一周して戻って来た。演習だった。装具を置くのももどかしく、初年兵たちは朝食の準備に走る。それを見て、二年兵たちは容赦なく制裁を行なう。曰く、廊下は走るな、スリッパに泥がついている、汚い、手を洗ったか、などなど。日ごろは制裁には加わらない穏健な古兵も参加した。
初年兵たちは、ただ体が覚えているままに日課を繰り返す。昨日の実戦を思い出す余裕はない。その日の課業は近郊の巡回だった。途中で、包帯所に寄った。驚くほど多くの兵隊が寝床で呻いている。昨日の損害は大きかったのだと知り、初年兵たちは愕然とした。
その後も忙しい毎日が続いた。初年兵たちは、何も考えずに体を動かし、殴られ、眠った。日曜日になって、ようやく考える時間ができる。そして、自分たちが人を殺傷した事実を想い出した。不思議なことに感慨は薄い。漫然と、山口篤たちは洗濯に励む。
「山口、もう大丈夫か」
「ああ。おかげさまだ。飯も食ってるし、夜は寝ている」
「よかったな」
「中島、脚はどうだ?」
「痛みはなくなったが、引きつりみたいな感じはあるよ」
「そうか。大島は眠れてるか?」
「ようやくな。最初のうちは殴られないと眠れなかったけど」
「うん、あれは効いた」
三人が洗濯物を干して内務班に戻ると、戦友の二年兵が待っていた。外出許可を取ったからしばらく付き合えと言う。山口らに否はない。思ったより素直になった初年兵を引き連れた二年兵は、にやにやと笑いながら街の外れへと向かった。
連れて行かれたのは兵隊向けの食堂だった。もちろん、酒も出す。客は山口たち六人だけだったが、店の半分は埋まる。戦友は黙ってビールを注いだ。
「先日のことだが、言い訳もしないし謝りもせんぞ」
「人を撃つのは大変なことだ。弾が当たれば死ぬだろう。狙って撃っているのだからな」
「ゴボウ剣と揶揄するが、腹を狙う。内臓を刺されたら無事にはすまん。飲め」
六人はコップを空け、小鉢をつつく。
「帰営した時、お前らは興奮していた。無理はない、人を殺してきたのだからな。しかし、そのまま寝かすわけにはいかん」
「どのみち、おとなしくは眠れなかっただろう。お前たちの目は、もう一暴れしたいと言っていた」
「興奮を冷ますには、酒を飲むか女を抱くか。どちらも兵舎にはない。飲め」
二年兵の一人がビールを追加する。饂飩も出てきた。
「興奮が冷めるとな、生きてるのが嫌になる。猛烈に反省するんだ」
「俺たちが最初の時は戦友どのが一緒だった。今回はそれができなかった。飲め」
「包帯所を見ただろう。絶対に忘れるなよ」
そう言って、初年兵のコップにビールを注ぎ足した。
「痛かったか、大島」
「もう、忘れましたであります」
だが、大島の左頬はまだ腫れていた。
琿春の南は満ソ国境地帯である。なかでも図們江流域は複雑で、数ヶ月前までは三ヶ国の国境が入り組んでいた。河口の西側は朝鮮領だった。東側はソ連領だが、河に沿って細く満洲領が入り込んでいる。四年前の張鼓峰事件はそこで起きた。
そのあたりの満洲領は東西の幅は二キロほどで、広いところでも四キロはない。縦深はとれず、背後は河だから奇襲を受けるとひとたまりもない。第九国境守備隊は十数キロ北の五家子に駐屯していた。
歩兵第四六連隊の秋季演習は、琿春と五家子の中間辺りで行われた。第六期検閲も兼ねている。連隊を紅白の二軍に分け、それぞれ琿春と五家子を出発して行軍と野営を繰り返し、会敵したところで合戦を行なう。そのまま直進すると先鋒の斥候隊は一日目で接敵してしまうので、両軍共に最初の二日間は真反対に進んだ。
篤たちの第二中隊は琿春を出立した後、東へ進軍した。旧東満州鉄道支線から琿春川に沿って進み、二回野営する。本線に沿って戻り、琿春川を渡らずに南下した。その夜の野営は焚き火は禁止だった。すでに先鋒は敵と接触済みで、明け方には会戦に到るらしい。兵隊たちは震えながら空包を確かめた。
次の日曜日、篤たちは誘い合わせて外出した。まずは腹で、満人の露店で饅頭やら餡巻きやらを詰め込む。それから街外れの食堂へ行った。今年の検閲はすべて終わったので初年兵たちの外出も増えた。いつの間にやら初年兵向け、二年兵向けの住み分けができる。この食堂は日曜日は初年兵用だ。
「すっかり変わったんだね」
「ああ、駱駝河子より上流は初めて行ったけど、あの辺も満人ばかりだ」
「白人もちらほら見かける」
「さっきのはロシア系じゃなくアメリカ人じゃないのか」
「日本人の店は減ってないよな」
「さて、次は熱燗にしようか」
「いいね、寒くなったし」
先月の騒乱は第三次琿春事件と呼ばれている。最初は暴動と思われたが、実は金匪の襲撃だったと判明した。朝鮮人の金某を首領とする匪賊は三八式歩兵銃で武装していた。前面に農民を装った者を配していたから、油断した初年兵たちは多かった。
「やっぱり、あれが原因だよな」
「そうだろうな。第二軍や国守の中を抜けるには手引きが要る」
「満洲国の処置は迅速だねぇ。半月で住民が入れ替わるなんて」
「冷麺が喰えなくなった」
「これから冬だ、支那そばでいいじゃないか」
「それもそうだ」
事件後、一帯の朝鮮人と朝鮮系住民は満洲官憲に拘束された。ほとんどの者が移送され、放免されたのは民籍を持つ者だけだった。役人の立会いの下に、住民が住んでいた家屋から家財が運び出された。動かせない家産や作物と土地は帳簿に記された。
そして、満人が入植して来た。長白省移住の順番を待っていた者たちらしい。稲作農家もいたし、料理人も商人もいた。彼らは空いている家屋に入り、耕作や商売を開始した。一ヶ月足らずのうちに、琿春は満人の街になった。図們江一帯がそうらしい。
秋季演習が終わると、課業は耐寒訓練と冬営準備が中心となった。銃剣術や射撃は初年兵各自の練度に合わせたものになる。希望してトラックや新型歩兵砲の運転操作を習い始める者もいた。
篤と戦友の島野は射撃場に来ていた。
「古兵殿は北支におられたのですか」
「ああ、俺は歩二二七だ。師団はなくなったが、一六年兵は歩四六か歩五五に分けられた」
「冬師団ですか、中原会戦ですね」
「いつもの山口らしくないな、大勝利は付けないのか」
「いえ」
篤は銃を構えて、指定された的を狙う。
「どうだ、親指の先か、小指ほどか」
「いえ、もっと小さいです。マッチの先ぐらいです」
島野は双眼鏡を外して的を見る。
「合っているな。かまわんから撃ってみろ」
「はい」
篤は二発撃った。島野が双眼鏡で確かめる。二発とも円の中に当たっていた。
「外れじゃないが、これじゃ頭は狙えん」
島野はしばらく考えた。一ヶ月前、山口は班長と共に駅舎の屋根に登り、言われるままに敵を射撃した。頭に当たっていたと班長は言った。そして、山口のことを頼まれた。島野は分隊狙撃手だった。
「あの日は敵兵の頭が親指ほどに見えたんだな」
「そうであります。鼻の穴が見えたのであります」
「ここから標的までは、あの時と同じ距離になっている」
「そう思います。しかしマッチ棒なのであります」
「二つ右の的が見えるか?人の形をしているが」
篤は言われたとおり右に銃を向けて照準をつける。
「見えます。小指の先ぐらいです」
「そうか、わかったぞ」
「あっ、軍曹殿が横におられます。親指です。咥えた煙草に火が点いていません」
島野は双眼鏡を向けようとして、途中で気がついた。大声で叫ぶ。
「撃つな!山口、引き金から指を抜け。銃を放せ!」
「うっ」
ぐぶぐぶ。篤は泡を吹いて引っくり返った。




