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LS兵隊戦史第一部「機動連隊」  作者: 異不丸
第五章 昭和一七年一〇月
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浸透戦


 帝都東京の午前四時、憲兵大尉の山口実は官舎の布団の中で目を覚ました。六十まで数を数えた後、えいやと布団を跳ね除けて起き上がる。途端に冷気に包まれた。今朝は摂氏十度ぐらいか。一〇月も半ばだが、涼しいどころではない。そのまま部屋の中で体操をする。風呂場で顔を洗い水を浴び、下着を替える。毎朝の日課だ。

 東京帝大の聴講生になった山口実は、なるべく午前の講義を選択するようにしていた。午後は憲兵司令部に出勤する。夜は軍務で遅くなることもあるが、朝は必ず四時に起きて、その日の講義の予習に当てた。復習とノートのまとめは日曜日である。

 今日の講義は、筧克彦教授の憲法、矢部貞治教授の政治学である。二つとも、実にとってはわかりやすい講義だから予習は捗った。それよりも週末の特別講義、紀平正美博士の『西洋哲学と国体論』が難題だった。紀平博士は新解語で講義するから聴講は問題ないとしても、予習用の本は四年前の発行で旧来語で書かれてある。


 なにしろ、哲学の用語は難解で、その解題解説だけで講義の半分を費やす。形而上学や弁証法、自己同一性など漢字自体が意味不明で、それらを組み合わされるとお手上げだ。その意味を知るには研究室や学閥に入らなければならない。かつての武術の奥儀なみである。そして、いつのまにか教授や学閥の主義主張に染まってしまう。

 文部省は総研第二別班の協力で標準大学講義字典を出版した。監修は山田孝雄文学博士である。それまで語句の独自性で大学や学会を仕切っていた教授らを追い出すためである。大学の自治に反するという意見もあったが、国立であるからには学問の成果は国全体で活用されるべきだ。学閥や教授ごとの独自の造語は、それを妨げる。

 標準大学講義字典を見ると、『形而上学:けいじじょうがく:meta‐physics:旧 [哲]物(物体・事象)に見た目以上の内容(真理)があるとして、その追究過程(論理)を研究する学問。⇒[新]事物内論。《学習》英文meta‐の用法を複数確認せよ』とあった。


 形而上学では「物」に「内容」が存在するものとして議論される。ところが、前提である「内容が存在すること」の証明はなされない。空論とされる所以である。実も中学や陸士で哲学はかじったが、仮定で始まる形而上学は方法論や論争法が役に立つかなぐらいの理解だ。

 だが、紀平博士は、日本でこそ形而上学が成立すると主張していた。事前に配られたプリントからは、そうとれる。


 『東京帝国大学法学部特別講義

   西洋哲学と国体論     文学博士 紀平正美

   序.形而上学の現状

   一.形而上学と事物内論:物の形と中身

   二.西洋における事物認識と偶像崇拝の否定

   三.日本における事物認識の歴史

   四.日本における物と魂:天然物と人造物

   結.国体における物と魂:国の対象

   補論.ひらがなと漢字:ものと物、くにと国

  注記:本講演は映画撮影および音盤録音がされる。学生は服装と言動に留意のこと』



 山口実が午前の講義を終えて、憲兵司令部に出勤すると、小坂課長の前に太田班長がいた。実が会釈をすると二人とも頷く。立ち会えということだ。

「余教が新教義を追加しました」

「ほう。遂に自殺の方法論か?」

「いえ、そこまではいきません」

 太田大尉が萎えるのを見て、実は口を出す。

「現世利益ですね。数十年先の死に方だけでは壮年を引っ張れない」

「その通りだ。葬礼の簡素化を言い始めた。葬式を否定はしない」

「用心深いですね。じわじわと来る。課長、これは大本やひとのみちより大きくなると思います」

「まいったな。太田も山口もそう思うのか。予算も人も回すのはいいが、まずはわしを納得させてくれ」

「課長、余教の布教対象は産業都市の青年と壮年なのです。金はない、死ぬには早い、算盤はできる。そんな連中を教化しているのです」

「寄進が目的なら金持ちの年寄り、権勢なら政治家や資産家。しかし、そのどれでもない」

「たしかにおかしいな。閣下のいうとおりだ。わかった。山口中尉、金と人だ」

「企業統制関連法の緩和が近いですから、一班と二班から回しましょう」

「いいだろう」

 帝室や国体を否定する宗教を追うのは第二課や内務省の担当である。銃後全般を担当する第四課には別の長期的な目的があった。



 その日の午後、陸軍省では兵務局主宰の会議が行なわれた。出席者は兵務局のほかに、憲兵司令部第三課と第四課の課長、外務省や内務省、警視庁の課長もいる。黒板には「ソ連浸透戦」と書かれてあった。

 外務省領事局の課長が報告する。

「今年発給した一般入国査証は、満洲人八〇〇、中国人八八、朝鮮人二であります。在留中は満洲人三五名です。他は帰国済みで、出国と本国上陸は確認しました」

 警視庁の外事担当課長が補足する。

「在留の満洲人三五名のうち中国内省系及び朝鮮系とみられる一二名には監視をつけてあります」

 憲兵司令部の第三課長も報告する。

「これまでに拘束した朝鮮人は合計で一八九名、いずれも送還を逃れた者で、不法入国者ではありません。なお、先月の摘発は一一名、今月は二名です」

「内務省が始められた大家・保証人の新制度はいいですね。効率的で怪しまれずに近づける」

 そう、第四課長の小坂少佐が言い足すと、内務省の担当課長が笑って頭を下げた。


 報告は、外国人の出入国、大学や研究所の思想動向、新聞や雑誌の記事内容と続いた。一段落すると、兵務局防衛課の山尾大尉がここまでをまとめる。

「これまでのところ、ソ連の浸透戦が復活した兆候は見られません。しかし、敵、主義者らは気が長い者ばかりです。引き続き、緊張を持って任務にあたってください」

 今年処刑されたゾルゲや尾崎らは十年かけて帝国の政治中枢へ浸透した。同時期に検挙された大学教授たちは留学時からだから二十年近くかけていることになる。ソ連が建国されてから二十年だが、共産主義や社会主義の思想は古く、マルクス主義に限っても五十年は見ないといけない。油断は禁物だった。

 しかし、いくら任務とはいっても「いるかもしれない敵」に対して緊張の持続は難しい。「存在する敵」と違って、報われない場合の方が多いのだ。会議後半の計画や対策に入るとおざなりで、これまでの使い回しが多くなる。出席者は全員がその方面の熟練者で、そういう陥穽は十分に承知しているのだが、倦んでいることは否定できない。


 その時、扉が開いて、兵務局長の田中隆吉陸軍少将が入室してきた。じろりと部屋の中を見回されると、さすがに緊張が走る。田中局長は中央から少し外れた所に立つと、静かに言った。

「防諜は防衛に通じる。未然に防げば、事は起こらずに済む。それは何もなかったのと同じことだ。承知の通り、何もなかった帝国で、いつの間にか敗戦革命が進行していた。手遅れ寸前であった。諸官のおかげで治まったが犠牲は甚大だった。これを要するに、事が起きた場合の犠牲や損害の大きさである。なにもしなければ、起こるべき事態での被害が無限大に広がるのだ。まして革命のごときは国を失う。およそ亡国を上回る損失をわたしは知らない」


 しんとした部屋の中から、静かに熱気が湧きつつあった。それを確かめると、田中局長は続けて言う。

「部下たちはもっと辛かろう。さらに倦んでいることであろう。わたしは思う。諸官には、部下を励ますに足る何かが必要だと」

「それは積極策ではないか。諸官の奮闘を基礎として作戦が立案された。帝国は浸透されるがままに甘んじてはいない」

 部屋の中の熱気は対流を起こすに十分になった。そして部屋の中が薄暗くなり、正面にスライドが映写された。

『逆浸透』

『強行偵察』

『反革命』・・・

 全員が息を呑む。部屋の中は弛緩が去って興奮に包まれている。士気の回復は指揮官の務めだ。


 灯りが戻ると、田中局長は黙って黒板に向かう。そして、振り返って告げた。

「次の課題はこれだ」

 黒板には『米英浸透戦』と書かれた。





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