正業
帝都東京の北の玄関口は上野駅である。堂島職業斡旋所の上野事務所は市電和泉橋線の仲御徒町停留場の近くにあった。通りに面した入り口は四間、ガラスの入った引き戸である。屋根に掲げた大きな看板は、高架になった山手線の車両の中からも見えた。通り一つ向こうの山手線の御徒町駅から、若い男が中年の男の手を引いて出て来る。市電の軌道を横切るらしい。
二十近い男はハンチング帽を被り半纏を引っ掛けていた。中年の方は国民服に国民帽、背負ったリックには雨傘が指してある。度の強い眼鏡をかけているが、勉学のために近視になったような利発な顔つきではない。口元は緩く今にも涎をこぼしそうで、大きな体とあわせると牛のようだ。
若い男は事務所の引き戸を開けて、奥の初老の男に報告する。
「所長、お連れしました。山下さんです」
「おっ、ご苦労」
背広を着た所長は若い男を労い、それから山下氏に向かって丁寧に言った。
「山下喜代志さんですね、みなさんは上でお待ちです。こちらからどうぞ」
詰襟を着た給仕が受付机から立って、恐縮する山下氏を連れて出て行く。所長が若い男に聞く。
「どうした?」
「いえね。上野駅で用足しに行こうとしてはぐれたそうです。迷って人ごみに押されて山手線へ乗ったと」
「なんで新宿まで降りなかったんだ」
「なんでも自動扉が初めてで、怖くて近づけなかったと」
「またか。明日は自動改札の地下鉄は止めて、バスを借りるか?」
「借り賃が高い。自前のトラックといきたいですが、面接ですからねぇ。なんとかします」
「頼んだぞ、政吉。今夜は本家で勉強会だ。条徳にはそこで礼を言わなきゃな」
「へい。お供します」
その夜、浅草の堂島職業斡旋所の本社には、配下の幹部たちが集まった。政吉を連れた上野事務所長は、まず新宿事務所長に挨拶する。
「条徳の。昼間はお世話になっちまって、ありがとう。礼を言う」
「これはご丁寧に、蒸機の兄貴。なに、ちょうど、うちの若い者が張り番してましてね」
「若い者の躾はさすがだ。これからもよろしく頼む」
「へぇ、こちらこそよろしく」
蒸機の佐方はポケットから煙草を出す。横で畏まっていた政吉が火を点ける。条徳の中条も煙草を出すと、これも政吉が火を点けた。二人はうまそうに紫煙を吐くと、しばらく昔話に興じた。世話場を守るために二つ名で駆け回った頃の思い出である。
堂島組は浅草に本拠を置く香具師の元締めだ。『やし』は露天商のことで、薬師とも野師とも書く。薬草や香草との縁は深く、神農を祀る。『テキ屋』とも称し、的屋と当てるが、実は敵矢である。それは、客である通行人を『敵』と称し、露天商への反論や反感を『矢』と解しているからだ。通行人の人相風体は常に観察していた。
昭和一三年の国家総動員法を受けて、司法省調査部は国民の生業や正業に関する実態調査を開始した。いわゆる世態調査である。職業は農林水産や商店などの家業や、鉱工業や商社の勤め人だけではない。軽業師や行商人、旅役者など動態把握が未達で、それゆえ動員が困難なものがあった。
大蔵省は課税の公正化ということで、かねてから現金収受の業態、業種を研究していた。請求書や領収証という形では表に出ないが、実質的な契約が成立している長期継続的な商行為は多い。税収の面で考えれば、動く金額が大きいわりに必要経費が少ないと思われる興行や露天商の仲介業は把握されなければならない。
内務省は治安や防犯の観点から、やくざや博徒に代表される日陰商売には関心が深かった。しかし、政財界の有力者に取り入っている彼らには、根本的な対策が立たない。今年になって職業紹介の所管が厚生省から内務省に移ると、これを突破口に日陰商売の内懐に迫ろうとしていた。
一般人が行なう行商や露店の物売りは生業ないし正業とされていた。個人の自由な意思で開業も廃業もできるからである。しかし、寺社・祭礼に集まる露天商たちは、親方から盃を受けており、契約関係が成立する。よって、関係法の適用により露天商は統制できると判断された。
官僚たちの目的は、露天商を潰すことではない。お祭りには夜店や屋台がつきものだ。紛い物をつかまされたり、当りのないくじに酔狂するのもお祭りの一部である。笑ってすまされる程度に治め、しかるべき税金はいただき、騒動や諍いは抑止する。
まもなく、国家総動員法は廃止、または緩和される。その前にできるだけのことはやっておくというのが政府の方針であった。次回の法施行のためである。正業として露店商業を確立し、やくざや博徒との境を明確にして、不良政治家の資金源と不正資産家の私兵を切る。公言されることはないが、各省庁とも次の目標は寺社や宗教団体に一致していた。
会議室では、国防服を詰襟仕立てにした若い男が起立してマイクに向かっていた。中央から外れて立ち、司会のふりをしている。
「以上が本家の判断であります」
会議机に並ぶ十数人の一人が手を上げ、質問に立つ。中条だった。
「たしかに商売は広がり、やりやすくはなったが、納める税金も増えた。商売はテキの懐に左右されるところで、この先、不景気にでもなれば上がりが滞ることもあるが、どうだろう」
佐方も手を上げた。
「地元東京や関東では寺社も祭礼も多く、しのいでいられる。しかし、他県まで行く者が申すには、地方は機会が少なくぎすぎすで、行商は堅気さんの手前でやれない。この先も地方の親分衆を頼れるのかと」
司会は、律儀に黒板に要点を書く。もちろん、答えやすいように表現を変えた。それから、外からの講師に振る。
「東京府学務部職業課の竹丘課長さんです」
「どうも、みなさん、日ごろはご協力をありがとうございます。まずは、お招きしていただいたお礼を申し上げます」
「課長、手短に。この後もあります」
「おお、そうか。えー、こほん」
それからは、立て板に水の饒舌が続いた。啖呵売が務まるのじゃないかとの声が上がる。
「最後に申し上げます。香具師の皆さんと博徒とは全く違う。それが東京府や内務省の見解であります。これからもやくざの輩や博徒は取り締まりますが、皆さんの家業は安泰なのであります」
拍手が起きた。会議室での勉強会が終わると、座敷に移って慰労会となる。浅草は東京の繁華街であり、夜は遅い。
座敷の上座には堂島組の寺田英雄組長夫妻、先代の堂島英治郎と娘のおすみが座っていた。集まった直系の親分衆は十人、それに寺田組長の直の乾児が四人であった。今夜は本当の幹部だけで人数は少ないが、一家の世話場は東京府の四割を超える。乾杯が終わり、しばらくすると、酒瓶を持って座を立つ者が出始める。
上座の右手では、中条が内務省と東京府のお役人を労っていた。
「お疲れさんでござんす。有難いお話をどうも」
「お、これは。中条さん、まだ厳しいですか。職業紹介だけでなく、保証人や大家も回しているのですが」
中条が声を落として答える。
「いえね、うんと申しませんのは、新参の親分衆の手前です。大家を回していただいたおかげで、自前の寮や宿舎を増やせました。恩にきておりますよ。どうぞお一つ」
「そうか、安心した。地元代々の仕事師や鳶職の方とはくれぐれも仲良くお願いしますよ」
「へい。若い者には徹底しておりやす。課長さんたちに迷惑はおかけしません」
佐方は寺田と堂島に酌をする。
「大親父さん、満州はどうでした」
「好い所だよ。ちょいと広いがな」
「へえ。それで二ヶ月近くも」
「うん。そうだ、おとよさんのお墓にも参って来た」
「そいつはよかった。角兄ぃも安心だ」
「しっ」
「いや、おすみも一緒に行ったさ」
「「へぇ」」
三人はおすみを見る。おすみは寺田の女房と話が弾んでいて、喜色満面だった。
「そうですか、勇ちゃんは元気でしたか」
「あの子ったら迷惑扱いしてさ、それでいて毎朝ホテルに食事に来るのだから」
「まあ。官舎の食事がまずいんですか」
「そうじゃないの。テラスで食べてるとね、女子師範の通学姿が見れるから。馬鹿にしてくれるよ」
「あら。勇ちゃんもそろそろですね」
「吉林女子師範学校の制服はね、ブレザーなのさ。あたしも作ろうかしら」
「「え」」