龍山(二)
第一中隊長の水田大尉の決心も連隊長に負けず劣らず早いものであった。
「柴山班は石井典侍に従いトラック二台で総督旧官舎へ直行。柴田少尉は熊野軍曹、司馬伍長と直衛にあたれ。復唱!」
「はっ。柴山准尉は、熊野軍曹と司馬伍長を除く第三班を率いて、石井典侍の指示に従い、朝鮮王室宝物の回収にあたります」
「柴田少尉は、熊野軍曹と司馬伍長と共に石井典侍並びに女官二名の護衛にあたります」
「旧官舎の隣は憲兵司令部です。私も同行した方がいいでしょう」
案内役の松山少尉が進み出る。朝鮮国軍の憲兵隊は党派を超越して、治安維持と停戦監視を執行していた。
「よし、かかれ!」
トラックの荷台では三人の女性が事の成り行きを見守っていた。王宮の女官だというが、全員が乗馬ズボンに革の短ジャケットを着て水筒を提げ、手には鞭を持っている。もちろん、靴は革の長靴だ。動き易く、身代わりにもなれるように、王妃と同じに揃えたらしい。
石井典侍と呼ばれた初老の婦人は、若い女官二人ににんまりと笑って見せた。
「すけさま、さすがです」
「護衛が三人とは一人ずつかしら」
「人相の悪い軍曹はわらわがもらう。残りはお前たちで分けよ」
「きゃっ、そのような」
典侍は後宮を預かる内侍司の次官にあたる。『すけ』さまとは、次位を意味する『助』さまである。王室の礼式や宝物の管理は、女官だけで構成された内侍司の役目であった。石井典侍は王妃に次ぐ地位にあって、宮内府大臣にも相当する。
熊野軍曹は青虫を口一杯に頬張ったような顔つきで、手招きする小柄な典侍の隣に座った。顔を合わせないで囁く。
「おんば、どうしてここに」
「みっき、わらわはいつも姫様と一緒におる」
「しっ、軍曹と呼んで下さい」
典侍の口が逆三角形に広がった。
「みっきの頼みなら何でも聞くぞ」
「しっ」
荷台の全員が二人に注目しているのを悟ると、軍曹は声を大きくする。
「なぜ王室の宝物が総督旧官舎にあるのですか」
「軍曹。姫様と相談して決めたことじゃ」
「さっぱり、わかりません」
「人の出入りがある度に、王宮の備品が無くなるのです」
柴田少尉の腕に顔を預けていた女官が説明する。少尉はまんざらでもなさそうだ。
「すでに二人の朝鮮女官が毒見で亡くなりました。内地からの女官も一人」
司馬伍長の頬を撫でていた女官が継ぎ足すと、全員が沈黙する。国王も文官も水筒を提げていたのはそういう訳だ。
「それで宝物を避難させたのですか、なるほど!」
明るく言おうとした軍曹の声は、しかし甲高かった。
トラックが総督府の正門を出た。光化門通の交差点を左に曲がって鐘路通に入り、路面電車の軌道を東に疾走する。運転兵が手を振ると、交差点で警戒に当たっていた第二小隊の隊員が銃を持った手を挙げて答える。国王一行はとっくに通過していたから、そろそろ第二小隊も南大門まで撤収するのではないか。
龍山の急造滑走路を六機の輸送機が飛び立った。両陛下のほかに、秘書、家計顧問、軍事顧問らの側近や国軍司令官らも分乗している。御付武官のほかにも、若い護衛官は多かった。同乗の隊員を減らしたぐらいだ。今回の作戦の最優先の任務が終わりかけていた。
しかし、見送りの列に加わっていた波須美連隊長と宮田参謀の表情は暗い。若い護衛官たちには見覚えがあった。洪中将の長男の国善や金山中佐の長男の泳秀など、国軍幹部の子息たちだ。つまり人質である。半数は軍人ではなく、学生だったはずだ。
入れ違いに、第二中隊を乗せた十機が着陸する。帰満第一波の離陸を上空で待っていたのだ。波須美連隊長と宮田参謀は急ぎ足で本部に戻る。
連隊副官の大上大尉は汗をぬぐいながら、連隊長の速決を機上で調整し、第二中隊の任務に反映したことを報告した。
「いつもすまんな」
「いえ。海上は壬型が二隻ですね、殿下」
「丙型を一隻追加できた。この三隻は米軍向けとは別だ」
「それは大きい、万全です」
江華島へ上陸する米兵とその装備は船舶司令部隷下の揚陸船隊が運んでいた。米国の下働きだが、米兵の揚陸後は第二中隊の帰還にも使われる。別働の三隻は黄海上で作戦機の不時着水や救難に備えたものだ。帰路は半島上空でなく、黄海上空を飛ぶことになっていた。
通信室の准尉が緊急電の束を持って来る。大上副官が署名して受け取ると、一瞥して宮田参謀に手渡す。
「クツカセが着いたようです。到着電と引継電、それに予告電です」
クツカセは空中通信管制機の略号で、百式輸送機四型の機体に無線機を満載したものだ。三月の防特演の戦訓を受けて、情報伝達系と命令伝達系の通信を統制するために教育総監部が構想して試験運用中だった。
新型無線機を四機と専任無線士、予備機と予備要員を乗せることが出来る。複数同時受発信はもちろん、暗号化・復号化や蓄積・整理も出来た。二式複戦では無線士は一名だから輻輳する通信には耐えられない。つまり、それだけ多種大量の通信が予測されているということだ。
「ずいぶん溜まっているようだな、上の方は」
「国王が脱出したので一気に動くのですね」
「そのようだ。受信準備完了を返信してくれ」
管制機には専任の士官が同乗しており、作戦や状況に応じて必要な情報だけを下に流してくれる。ただの中継ではない。要員や機材に限りがある部隊でも順に受信しているだけでいい。本部機能が貧弱な機動連隊にとっては、クツカセは誠にありがたい機体だった。
通信は朝鮮半島内の状況速報が多かった。准尉が読み上げる内容を大上大尉が机上の地図に反映する。偵察機が報告する大規模戦闘や衝突の目撃地が赤色の×印で書き込まれていく。北から南から京城府に近づいていた。
「ずいぶん偵察機を飛ばしてますねぇ」
「通化では九九軍偵だけでなく百式司偵も見た。二、三機ずつ張りつけているのだろう。増槽つきなら半日は飛んでいられる」
大田南方で大規模戦闘発生を聞くと、宮田参謀は立ち上がった。
「連隊長、洪将軍の作戦室に行きます」
「一緒に行く。副官、後を頼む」
「了解です。伝令を二名つけます」
作戦室に入った波須美連隊長と宮田参謀に、洪中将は立ち上がって会釈する。
「両陛下を乗せた輸送機は黄海上空で北緯三十九度を超えました。感謝します」
「あ、朗報です」
勧められて着席した二人は黒板の地図を見る。江原と平壌と開城には赤丸が描かれてあり、大邱と光州は橙色の丸だ。そして目の前で、大田にあった鎮衛連隊の駒が外され、橙色の丸が描かれる。
「大田鎮衛連隊が共和派についた。残るは水原だけだ」
「一斉に始まりましたね。阻止線は何処になりますか?」
「国王陛下から厳命された。京城府内には王制派以外は入れるなと。撤退も降伏もできない」
「内戦になりますが」
「軍隊が国民を撃てば、次の政府がどうなるにせよ、もう国軍は再建できない。ただの私軍か軍閥になってしまう。相手が誰にせよ、軍服を着ていてくれればありがたい」
「日本は陸兵が出せません。空爆だけです」
「米国は入城しませんか」
「現状では無理だろう。米国が守るべき何もない」
「お手数をかける。作戦参謀、説明してくれ」
「はっ」
国王の亡命と同時に、穏健派が斡旋した停戦は無効となった。洪将軍は国王の京城府死守命令を受けて王制派に復帰することになる。軍内の革命派と王制派の脱出には一時間の猶予を与えた。時間稼ぎである。同時に敵が鮮明になるならば、好いことだ。
王制派に残るのは京城侍衛旅団と水原鎮衛連隊、そして憲兵隊となった。洪中将が直接指揮しているのは憲兵隊と京城侍衛旅団の一個歩兵連隊である。王宮と龍山の警衛、京城府の治安維持、不穏勢力の拘束や後方兵站にあたっていた。
京城侍衛旅団の主力は、旅団長の徳川中佐が直卒して京城府城外の北にある。旅団司令部を議政府に置き、開城を睨んで臨津江沿いに布陣していた。京城府との間には鉄道があって連絡はたやすい。江華島に米軍が布陣し始めたので、徳川旅団長は兵を山地まで後退させていた。開城からの攻勢は無効化できるだろう。
水原鎮衛連隊の連隊長は金山中佐である。北支で功三級金鵄勲章や軍司令官の部隊感状を得た有名な戦上手だが、水原は平地で守りにくかった。
「日本空軍には、北、南、東の順で空爆をお願いしたい」
「北ですか。開城は江華島から砲兵の射程内だが」
「はい、ですから一回で済みます。板門店から臨津江上流までを、まず爆撃して欲しいのです」
「そういうことか。では南も陽動だと」
「大田から水原までは距離があり、共和派の北上には時間がかかります。もう一つは」
「東に誘導して一気に殲滅すると」
「その通りです。京城府の弱点は東、漢江にあります」
「北漢江と南漢江の合流地点あたりですね。しかし、共和派が乗って来ず、再び南に攻撃を受ければ?」
「漢江の橋を落として城内に篭ります」
「それは!」
「金山は撤退戦も上手くこなす筈だ」
洪将軍の発言が結論となった。
「閣下、朝鮮国軍の作戦構想を打電します」
宮田参謀が静かに発声して立ち上がる。
「第二中隊が空爆誘導の任務にあたります。中隊長は日野大尉です」
波須美連隊長も退室する。将軍は席を立ち、窓際に寄る。
洪思翊中将は、眼下の輸送機の日の丸を眩しそうに見つめた。