一 脱亜入欧
一八五四年、再来航した米国東印度艦隊の前に、幕府は日米和親条約を結び下田と箱舘の二港を開いた。一六六三年の第一回鎖国令より数えて二二一年ぶりの開国である。
それまで清蘭に限られていた日本との通商を求めて、列強各国も和親条約を結んだ。和親条約はすぐに修好通商条約に格上げされ、各国は治外法権の公館を置き、関税を定める。
強大国だった清の帰趨はすでに知られていた。日本の世論は沸騰し、国論は分裂した。
中下級官吏を中心とする攘夷と開国の論争は、やがて、それまでの政体の是非を問う勤皇と佐幕の争いへと発展する。地方自治政権を統率する幕府を廃し、元首の宮廷が日本全国を直接に統治する新政体を求めたのだ。
それは、鎌倉幕府以前の王朝政体の復旧であって、決して現政権への叛乱ではない。また、国家元首である天皇家はそのままであるのが前提であり、だから革命でもない。はじめは王政復古と呼ばれた倒幕運動は、成就して新政体が生まれると、維新と称されるようになった。中下級官吏が主導する革新は戦国以来である。
開国であちこちに食い込んでいた列強の妨害、反動支援にも左右されず、明治維新は成った。内乱や叛乱も治められた。明治政権中枢部に多数の外国人が参画しているものの、それは顧問職に留まっていた。つまり、日本は日本人だけによる政体変革を成し遂げた。
それから四十年の間に日清戦争と日露戦争に勝利した。大日本帝国にとってはじめての近代的、西洋的戦争であった。不平等条約は撤廃され、内政も改善された。
老境に入った明治維新の元勲たちは安堵していた。なんとか、危機は去った。やはり脱亜入欧は間違っていなかった。
地理的な束縛から遁れることこそ、維新の大意だ。決して、亜細亜の東端、島国の地位に惑わされてはいけない。絶望してはいけない。航海と通商で克服するのが、日本の行き方である。
支那の不安定から逃れるのが脱亜であり、欧米強大国の安定に追随するのが入欧だ。
おおかたの元勲たちは、成果に満足して天寿を終えた。
だが、意外なところから危機は再来しつつあった。実は、欧米は亜細亜における権益に恋々汲々としていたのだ。それでは入欧は入亜に回帰する。列強の侵出が支那を不安定とさせた。同じ轍に日本も嵌りつつあった。支那を安定させなければ東亜は安定しない。東亜が安定しなければ、帝国の領域と国境は安堵できない。そして。
一九四一年一〇月、大日本帝国は危殆に瀕していた。