通化
機動第二連隊の第一中隊と本部要員を乗せた百式輸送機十機の編隊は、九時前に通化の陸軍飛行場に着陸した。第二航空師団の飛行場大隊は総出らしく、着陸した機体は地上員が誘導してくれる。その誘導員を見るために、やはり天井窓を空けて副操縦士が席から立ち上がる。輸送機は三方を囲まれた掩体の中に駐機した。ほかの戦闘機や爆撃機は掩体なしであるから、どうやら輸送機と機動連隊は別格の扱いらしい。
移動のためのトラックもあった。連隊長と連隊副官は乗用車だ。状況説明と装備交換は兵舎で行なうらしい。駐機場には相当数の双発爆撃機があったが、移動している間にも次々と着陸してくる。飛行場の拡張も行なわれているようで、KZ資材を載せた工兵のトラックと行き違う。
兵舎に着くと早速、状況説明が始まった。機動連隊のほかに航空兵も十数人いる。参謀飾緒を着けた陸軍大佐が、旧朝鮮の地図を貼り付けた黒板の前に立った。
「現在、朝鮮は内乱の中にあり、満洲帝国は軍事介入を検討中である。それに先立ち、機動第二連隊は京城府に進入し、王宮の両殿下および要人若干名を満洲国内に誘致する。行動拠点は龍山、朝鮮国軍の現地部隊の協力が得られる見込みである。なお、米国政府の要員が同行する。以上」
参謀大佐と入れ替わりに、情報参謀の中佐が前に立つ。朝鮮情勢の説明だ。
この時期、朝鮮は六つの党派に分かれて争っていた。
一つめは王制派で、帝国派とも呼ばれていた。旧日本王公族や貴族を中心とし、満洲と妥協しながら李王の王制を継続する。日本からの帰国者や総督府官吏らが支持する最大勢力で、日本や満洲の支援を受けていると称している。
二つめは共和派で、王制を廃して大統領制への移行を主張していた。米英留学組を中心とし、王制派に誘われなかった両班も支持していた。資金が潤沢なのは、半島内に基盤を持つ新興企業家以外にも、両股をかけた企業家がいるらしい。米国から帰国した李承晩が参加してからは、米朝同盟を高言している。
三つめは革命派。日本王公族、朝鮮貴族・両班の身分を廃し、国民平等国家を目指すとされる。指導者や支援層は不明。中国共産党の残党である共匪や、その分派である金匪が中核であり、勢力は強い。ソ連の指示を受けていると見られる。
四つめは復日派、旧事大派とも呼ばれる。内鮮一体を継続し、米国の影響力が去った後、満洲の了解下での日本への復帰ないし従属を目指す。庶民以下の層に一定の人気と支持がある。英国の謀略が疑われている。
五つめは復満派、新事大派ともいう。満洲帝政で一定の発言力を得るために、満鮮一体を目指す。満州からの帰国者を中心に満洲に積極的に参画すべきとする。満州族は朝鮮族の一分派であるとする改竄神話を根拠としていて、擬似宗教ではないかとされるが支持者は多い。
最後が穏健派。国民に対し銃口を向けるのを好しとせず、戒厳令発布後に王制派から分かれた。京城侍衛旅団をはじめ朝鮮国軍人のほとんどが賛同している。王宮護衛のほかは任地に篭り、各派から距離を置いて帰趨を見守る。洪思翊中将が指導者とされていた。
王制派の勢力は首都の京城府を中心とする一帯にあって、警察と軍も後ろ盾となっていた。共和派は光州を中心拠点とし、朝鮮南部で勢力を誇る。革命派は北部一帯を地盤として、平壌をはじめ各都市に浸透している。
最初に動いたのは革命派だった。武装蜂起して平壌を奪う。北から逃れて来た匪賊と住民を吸収して勢力を拡大していたらしい。武装で警察を上回り、国軍と同等であった。一部は平壌を進発して南に向かい、各地で蜂起や暴動を起こす。開城を落とすと、京城府内でも革命派が蜂起して王制派や共和派と武力衝突した。
朝鮮王は大清皇帝に介入を懇請した。日本軍を京城府に入れてほしいという。英国は日本の軍事出動を支持したが、米ソが反対した。仮称義勇艦隊は対馬海峡まで下がって待機とされた。戒厳令が敷かれたのは日曜日だった。
月曜日、革命派は臨津江まで迫った。穏健派が王制派と革命派を説得する。大清皇帝から仁川上陸を決行すると伝えられた朝鮮王は、今度は三日間の猶予を願った。その間に各派を調停すると言う。溥儀皇帝は怒ったが、関東軍は作戦準備を継続し、穏健派の洪思翊将軍と接触する。洪は満洲帝国の軍事介入をちらつかせて、各党派に三日間の停戦を承知させた。
火曜日、朝鮮王は各派の代表を王宮に入れて協議したが、何もまとまらない。共和派と革命派が共闘して国民選挙の実施を迫ったが、選挙自体が王制の否定であるから王制派は拒絶した。革命派が王の拉致を画策すると、共和派が決裂を宣言する。洪の仲介で革命派は王宮を退去した。この夜、府内のあちこちで暴動が発生し、旧総督府の一部が爆破され炎上した。溥儀は怒り狂った。
状況説明が終わると、幹部以外の隊員は会議室を出て装備を置いた大部屋に戻る。一号装備を開いて着替える。軍衣は挺進連隊の降下衣袴を改造したもので、各自が墨で縞を描いていた。墨のにじみが迷彩になるそうだが、市街地で効果があるのかは疑問だ。編上げ靴には物入れがついた専用の脚絆を巻く。腕にも同じように手甲を巻く。九八式鉄帽の縁を切り取り黒い布で覆った降下帽を、黒い戦闘帽の上に被る。
武器は米軍のものであった。
「組長、全員がカービンですか」
「班長はトンプソンだろう、俺もだ。市街地だからガーランドは要るまい」
「拳銃はガバメントですね。予備弾倉は二つかな」
「俺を見るな、熊野軍曹。弾が切れても分けてはやらん」
「はいはい。じゃあ、キ印刀にゴボウ剣も下げていきます。肥後守も腕に指します」
「まさに気違いに刃物だな」
キ印刀は機動連隊が研究した隠密近接格闘用ナイフで、二式銃剣を幅広にしたようなものだ。はじめ機連刀と名付けられたが、切れそうにないということでキ印刀、または機剣と呼ばれていた。腰に巻くカンバス製の弾帯に専用の鞘がついている。弾盒や三〇年式銃剣の剣差しの着いた帯革の上に巻く。肩からの吊帯革に金輪や手榴弾のポケットをつけたり、雑嚢か救急嚢かは個人の好みの範疇である。一号装備は各員ばらばらでよいとされており、米式装備と呼ばれる所以である。
特殊作戦は敵地への潜入が前提であるから装備、特に武器の選択には気を使う。当然ながら補給は期待できないし、潜入だから身軽でありたい。二律背反の解は敵軍の装備である。すなわち、敵軍の装備を奪うまでに必要な武器と弾薬数となる。日本軍と悟られたくない場合は、敵と同じ装備で出撃する。機動第二連隊の武器庫には各国の軍服と小火器が保管されていた。
米軍の武器なら文句なくカービン銃だ。M1カービン自動小銃の弾丸は軽く、M1ガーランド小銃のスプリングフィールド弾の四分の一の重さである。軽い分だけ携帯弾数が増え、それだけ撃ちっ放しができた。拳銃の代わりがカービン銃なのだ。
コルトガバメント自動拳銃の弾丸はM1トンプソン機関短銃と同じ45口径ACP弾を用いる。そのためにも一定数のトンプソンは欲しい。連隊では、士官と班長、組長は機関短銃を持つのが定石であった。小銃より小さく軽いからである。しかし、米式では、逆に機関短銃のほうが重くなってしまう。
個人装備を終える頃には、作戦会議を終えた小隊長や班長が戻って来る。自分用の装備を確保すると、班長が部隊装備を指示する。今回は輸送機で行動拠点まで行けるので、予備の火器が許された。小隊あたり十丁のガーランド、二丁のブローニング自動小銃、一丁のショットガン、それに各種の弾薬と爆薬・信管がトラックに積み込まれる。
完全装備の第一中隊は兵舎前で点呼と点検を済ますと、中隊長を先頭に駆け足で出立した。これから輸送機に乗る前に、急造された射爆場で試射を行なう。カービン銃は速射用だが、狙撃にも使えないことはない。そのためには、試射を行って癖と偏向を確認しておく必要があった。さらに、龍山までは二時間近く機上にある。体を動かす機会は今しかない。




