二 東部戦線
一九四二年六月二八日、ドイツ軍は対ソ正面、東部戦線においてグラウ作戦を発動した。およそ百五十万人の南方軍集団は一斉に進撃を開始する。
ソ連軍は昨年に続くモスクワ方面への攻勢と判断し、戦線北端のヴォロネジ付近で阻止しようと動いた。激戦になったが、ドイツ軍は突破してドン河沿いに南下する。同じく、戦線南端のロストフでも激戦の後、突破された。総崩れのソ連軍は戦線の崩壊を怖れ、戦略的撤退に入った。
南方軍集団は二つの集団に分かれ快進撃を続ける。北側のB軍集団はドン河に沿って南東へ進撃し、七月末にはドン河屈曲部を渡河してボルガ河沿いの要衝スターリングラードに迫った。
南側のA軍集団はロストフを抜いて南下する。これを阻止しようとしたソ連軍は、しかし背後を断たれるのを嫌い、東へ退却せざるを得なかった。クリミア半島を平定してノヴォシロコフへ進撃した独第11軍の一部が迂回してきたからだ。
八月のはじめの最前線は、スターリングラードから南、ほぼ東経四四度に沿ってあった。ソ連軍はドイツ軍の目標がスターリングラードとバクー油田にあると理解し、増援を送り込む。まずはスターリングラードだ。同志書記長の名前を冠する大都市が占領されることは悪夢だ。数年前の大粛清が甦る。
ドイツ陸軍参謀本部のハルダー参謀総長は、グラウ作戦の進捗が順調なのに安堵した。同時に、北方軍集団と中央軍集団が過不足なく戦線を維持しているのに満足していた。今回、ハルダーはグラウ作戦用兵団とそうでない守勢兵団とに極端な差をつけた。ドイツの戦争資源は逼迫している。特に人的資源とトラックだ。
そして進撃の要となる戦車と装甲車両も十分とはいえない。ドイツ軍は全装甲兵団に対して、本国へ帰っての再編成を禁止した。フランス北岸への移動など論外だ。すべての装甲兵力は東部戦線へ投入されることが原則で、北アフリカから移動してきた部隊もある。
グラウ作戦の課題は側面防御だった。南方軍集団はボルガ河畔まで八百キロも進出しなければならず、長い側面へのソ連の横槍が予想される。北側はドン川に沿うとしても、一箇所でも突破されれば先頭集団は包囲の憂き目に合う。この側面防御はルーマニア軍など同盟国が担当するが、ここでも装甲戦力の増強が必要だ。
ハルダーは、今夏は守勢に徹する北方軍集団と中央軍集団から、戦車、装甲車両、トラックを容赦なく取り上げた。代わりに馬匹と築城資材を配布する。防御陣地の構築に専念せよということだ。
北アフリカ戦線で英陸軍を殲滅した独伊軍に対して同盟国の信頼は厚く、防御陣地の構築で動揺することはない。兵団は黙々と弾性防御、拠点防御用の陣地構築にあたる。幸いに、燃料と弾薬の補給は潤沢だった。白ロシアとウクライナは穀倉地帯で糧食にも事欠かない。
しかし上級指揮官は理解していた。機動火力のない陣地線だけでは敵の突破を防止できないし、弾性防御はあくまでも対歩兵の防御戦術であって敵戦車に関しては不安があることを。
その不安も総統の贈り物が払拭してくれた。砲兵が運用する突撃砲が一個師団に対し一個中隊も配備される。そして、長さ一メートルの鉄パイプに着いた対戦車擲弾も配布された。
八月一〇日、B軍集団はスターリングラード包囲網を完成していた。だが、砲撃を行なうだけで市内には突入しない。その上空に、増強された独空軍第4航空艦隊の全力二千機が飛来して猛爆撃を敢行した。それを脇目にB軍集団の装甲兵団はボルガ河に突進し、破壊と閉塞を開始する。A軍集団はカフカス山脈前面のグロズヌイへ攻撃中だった。その右翼のナリチク前面には第11軍があり、そしてそれらの背後では、空軍基地の急速造成が進む。
八月二〇日、スターリングラードでの一週間の爆撃を終えた第4航空艦隊の主力は南方に向かった。A軍集団の背後に終結して、補充と再編成にあたる。あと十日でこの急行軍は終わるはずだ。機体は長距離爆撃機が主体だった。ドルニエDo217やユンカースJu88などのドイツ機に混じって、イタリアのピアッジェP108やフランスのリオレエオリビエLeo451もある。
八月末、A軍集団の先鋒がカフカス山脈に侵入すると、待機していた第4航空艦隊の航空機は次々と飛び立つ。
ハルダーは総統との激論を思い出す。職を賭けての進言を総統は聞いてくれた。そして、互いの戦略観を確かめ合うことも出来た。
対ソ戦は二年目に入った。もはや是非を問う時期ではない。ソ連野戦軍を殲滅するのが最優先だ。首都を奪っても敵が降伏するとは限らない。占領しても叛乱がいつ起きるか知れない。敵の地上軍は、殲滅するか武装解除するまで気を抜くことはできない。
その意味で、今夏のグラウ作戦は不本意だった。工業都市の占領、兵站の破壊、資源の奪取が目的で、ソ連野戦軍の殲滅は目標に入っていない。もちろん機会はあるだろうが、しかし反撃までだ。突破と迂回で包囲殲滅するドイツ陸軍正統の戦争は来年までお預けになった。
昨年の損害が大きすぎたからだ。ソ連軍地上兵力を過小に見積もったのは、ほかならぬ自分の責任である。敵は数百万ではなく、千数百万いるのだ。まさかロシアの畑で兵隊が採れるとは知らなかった。
ハルダーは軍服の襟に指を入れて汗を拭う。ドイツ参謀本部の犯した過誤を取り戻すには一年間では足りないかもしれない。