再会
哈爾浜は大きな街である。もとは松花江岸の寒村に過ぎなかったが、東清鉄道の敷設と同時に、満州におけるロシア帝国の策源地となった。満洲里から哈爾浜を経由して綏芬河までのかつての東清線は、現在の浜洲線と浜綏線である。満州全土が日本の勢力化におかれるまでは、哈爾浜はロシアないしソ連の満州における首府であった。今でもロシア人は多い。昔も今も哈爾浜はロシア人の街なのだ。
市街の北を流れる松花江はアムール川の支流である。川幅は広く、これを跨ぐ大鉄橋の長さは千メートルもある。大鉄橋の西側三キロほどの上流に中州の太陽島があり、夏の水遊びはこの周辺が中心となる。水泳、日光浴、ボート遊びはもちろん、遊覧船やヨット、水上機もあった。河岸には渡し場が並び、ボートやランチが忙しく発着している。定期航行の汽船は遊興用のヨットやボートに遠慮するように遡行していた。
埠頭区北岸にあるヨットクラブは三十年の歴史を持つ。そのテラスで二人の男が会っていた。ロシア人が大げさに細身の日本人を抱き締める。
「久しぶりだな、ミッチ。半年以上か」
「アリョーシャ、そろそろ一年だよ」
「ゴローは相変わらずか?」
「尻に敷かれているよ。まだ外地に出してくれないそうだ」
「へえ。しかし、替え玉がいるだろう」
「新婚だから、無理だね」
「「あっはっは」」
ロシア式の昼食時間は遅く店はまだ混んでいた。日は傾きつつあるが暗くなるのは八時過ぎだ。テラスの前を通る者も店の客もそれぞれ晴天の休日を楽しむのに夢中で、二人に注意を払うものはいない。
アレクセイは市内で造られたビールを飲みながら話を聞く。奥田道夫は上海の在中国日本大使館附きだったが、先月から教育総監部に異動したという。情報部中枢のD機関に正式配属されたということだ。口調がゆっくりとなった。ここからが本題だと、アレクセイは思う。
奥田の依頼は、大祖国戦争に敗北した場合のソ連の出方であった。
「驚いたな、ミッチ。本気かい」
「もちろんだ、アリョーシャ。こんなまわりくどい冗談があるものか」
「そうだな、負け方によると思うが」
「条件と選択肢を用意した。三つある」
「その中から選ぶのか?」
「いや、参考にしてもらうだけだ。欧州方面は本領ではなかろうと思ってね」
「ドイツの作戦について何かつかんだのか」
「違うよ。資料はこれだけだ、読んでくれ」
アレクセイが受け取った書類は多くはなかった。封筒の重さから察するにおよそ四十枚、戦略判断三つの資料にしては少ない。おそらく具体的な詳細ではなく、総括的あるいは大きな選択なのだろう。すると、出所はD機関ではなく総力戦研究所あたりだ。
「深刻そうだな。時間がかかるかも知れない」
「もちろんだ。そんなに長くはあげられないが」
「まずは三十分くれ。風が出て来た、部屋に入って読む」
「いいとも」
アレクセイは手を挙げ、出て来た支配人に個室の手配を頼む。
「ミッチも来るか?」
「もう少しここにいる。僕はまだ独身なんだ」
奥田は笑って言うと、飲み物のお代わりを頼んだ。
一台の乗用車がヨットクラブを出て南に向かう。すぐに左折し、しばらくすると右折してキタイスカヤ街に入る。哈爾浜銀座とも呼ばれる一番の繁華街で、瀟洒なビルが連なるが、その中でも松浦洋行ビルは一際高く目立っている。日本人街はもう二つ東側の通りであるが、ここにも多い。和服を着ていなくても、日本人には日本人かどうか一目でわかった。
「賑やかなものですね」
「中央大街とも言うらしい。すべてがロシア風だな。まったくロシアの町だ。看板もロシア語ばかり。それにしても肌を晒し過ぎだな」
「お父つぁん、鼻の下が伸びてますよ」
「何を言うか」
「さっきのテラスにいた日本人の客」
「あいつか。酒を飲みながら水着のロシア女を見ておったな」
「勇吉にはああいう風になってほしくない」
「大丈夫さ、ちゃんとやってたじゃないか。それに軍人だ」
「そうですね」
「水着姿を見てにやにやするような奴は帝国軍人にはおらん」
車は埠頭区を出て、線路の南側に入った。哈爾浜の市街は中央の駅の南がこの新市街区、北の大鉄橋に向かう線路の西側がさっきの埠頭区、東側が傳家甸区と分かれていたが、開発が進んで今は一体となってきた。さらに南へ進むと、最初に駅と町が造られた旧哈爾浜である。香坊の台地を削り取った土砂で埋め立てたのが、今の哈爾浜市だ。車はその手前の病院街の外れで止まった。
二人は志士の碑と忠霊塔に献花して頭を下げる。車に戻ると、外人共同墓地に行くように告げた。無口な運転手は頷くと来た道を戻る。そして新市街中央のボリショイ通りを東に抜ける。突き当りが各国共同の墓地で、もう市街の外だった。墓地の中は国別に区画が仕切られていた。今は別の場所にも日本人墓地はあるが、その前に葬ったのならここのはずだ。
その場所にはまだ新しい板塔婆が立っていた。法要からまだ間がないらしい。書いてある戒名も読める。二人は周りを掃除し、花を生けて線香をあげた。この墓地は丘にあり、市街の北に松花江が見える。長い間、二人は佇んでいた。
アレクセイは考える。もちろん、大祖国戦争で敗北したソ連は失地回復を図る。ソ連を存続させるにはそれしかない。西で失ったものを東で取り返すのは大いにありうる事だから、日本が考えたこの三つの選択肢は合理的だ。しかし、重要なのはそこではない。依頼はソ連が敗北した場合だけだった。
大祖国戦争でのソ連の勝利条件は国土防衛ではない。少なくともポーランド、ルーマニア、ブルガリアの全領土を獲得して、ハンガリー、チェコスロバキア、それにドイツの大部を勢力圏とすることが勝利だ。敗北とは、領土を失うこと。そして、勝利以外に現政権の存続は望めない。
勝利したソ連は、東でも侵攻ないし侵出を図る。満州と日本だ。大人口と不凍港を得るというロシア帝国の大戦略はソ連になっても変っていない。人口と交通を同時に得ないと広大な版図を維持できない。満州だけでは不足だ。中国でもいいが、沿海州に蓋をしている日本列島がやはり最良だ。太平洋に出れるし、シベリア鉄道もウラジオストックも活きてくる。
そして日本はそれを理解している。満州を東欧からの難民や移民に開放した。米国資本を呼びこみ、米軍の駐留を認めた。欧州大戦で勝利したソ連の侵攻に備えているのだ。だから、今回の依頼に入っていない。対策はすでに実施中だ。日本がそういう将来のことを想定し対応しているという事実は、重大であり、大きな脅威でもある。
アレクセイは日本人との付き合いを振り返ってみる。最初のうちは師団参謀長や高級参謀が相手で、階級も将官や大佐だった。それが春辺りから関東軍情報部の大尉や少佐となった。アレクセイは少佐になったばかりで、それが普通だと思っていた。では何故、その前は高級将校だったのか。
五月の日米妥結を聞いてはじめて腑に落ちた。昨年末から今年の初めにかけて大日本帝国は正念場にあったのだ。反対派や叛乱予備軍の中で政策を進めるために、関与する軍人は何重にも篩をかけられた。能力・人格よりも、思想・忠誠などだろう。それを通った将校だけが信用されて、接触を許された。
今、日本陸軍は信頼できる組織の再構築を完了したのだ。部署と階級が適合すれば、誰であっても任務遂行に不足はない。かつてのように個人的な信頼は必要ない。それは政府でも同様であろう。信用できない人間は排除されてしまったのだ。
大日本帝国は大きく変わりつつある。なんとも頼もしいことではないか。アレクセイは笑うと、支配人を呼んだ。




