第三中隊
吉林は清朝の始祖発祥の地であり、三方を長白山系の山々に囲まれている。一面が松花江に望むとされるが、S字に蛇行しているので、河畔はずいぶん長く感じる。もともと吉林の音は満州語で『大江に沿う』の意である。古い町だから城壁も土塀で、城内は狭い。十万の人口の半分以上が城外に住まい、吉林駅も日本総領事館も城外の商埠地にある。
関東軍機動第二連隊の本部も城外にあった。満州第五〇二部隊の看板を掲げた煉瓦造りの営門はアーチになっており外観は立派だが、営内は狭い。二個中隊基幹の連隊は三百名だったが、今月より第三中隊の編成が始まっていて、さらに百四十名増える。もう、この営庭は点呼がやっとになるだろう。練兵場はあるが、手狭なのは否めない。
その狭い営庭の突き当たりに連隊本部の営舎があった。将校集会室は会議室はもちろん、食堂や資料室も兼ねる。他に大きな部屋はこの兵営の中では講堂だけで、隊員の座学にも使われるから空いていることは少ない。連隊の将校も五名は増える。
昼食が終わると、集まっていた将校たちはそれぞれの事務室に引き上げる。残ったのは第三中隊への配属が予定されている新着の二人だけだ。廊下から、いよいよ狭くなって来たと愚痴る声が聞こえた。
小山少尉が口を開く。憮然とした表情を隠し切れていない。
「中隊長、たしかに狭いですが」
「俺たちのせいじゃない、気にするな」
苦笑いしながら石居中尉が応じる。小山は昨日着任したばかりで、期待が大きかったのだろう。機動といえば車両移動や自動兵器を思い浮かべるのがふつうだ。ところが、連隊には機械や車両と呼べるものはトラックが三台、それも旧い八〇型自動貨車があるだけだった。兵営の狭さより、その方が小山の失望を誘った筈だ。
「しかし」
「待て。場所を変えよう。中隊の兵舎予定地を見に行く」
本部事務室に告げると、小山を誘って兵営の奥に向かう。第三中隊長に予定されている石居も、着任してから一週間経っていない。ここは張学良軍の兵営だったそうで、となりの敷地もその頃は一体だったらしい。その境の煉瓦塀はきれいに取り払われていた。
「見事なものですね」
「うむ。工兵隊はないが工兵はいる」
となりの兵舎は第三中隊には十分な広さだった。下士官数人が十数人の兵を使って、中の掃除と整理を行なっていた。兵は全員が赤地に金筋一本の兵長だった。指揮の曹長が振り返って敬礼をする。
「中隊長殿、備品が揃いません。来週までかかります」
「了解した、木谷曹長」と答えてから、石居は小声で言い足す。
「そう長くは居まい。夏だし、ほどほどでよい」
木谷曹長は黙って頷いた。
敷地を通り抜けて二人きりになると、石居は小山に告げる。
「木谷曹長は第一中隊からもらいうけた。すぐに昇進で班長になる」
小山少尉は頷くと、周りを見回して聞いてきた。
「集会室に部隊感状が掲示してありました。一つは満洲国軍から、もう一つは帝国海軍からです。連隊は結成されてからまだ半年と聞きましたが?」
「うむ。いずれも今年の春だ。第二中隊はえ号作戦発動に先行して潜入、本隊を誘致した。第一中隊は第三次上海事変で海軍艦隊の艦砲射撃を観測誘導した」
「連隊長殿も連隊副官も何も言われませんでした」
「当然ということなのだろう」
小山の顔が紅潮し深く息するのを、石居は見た。
「中隊長殿、正直に申し上げます」
「言え」
「ブリティッシュコマンドスの作戦には卑怯千万なものがあると感じました。ですが、機動第二連隊は正規の作戦部隊なのですね」
「偕行社記事だな。独逸のブランデンブルク連隊にもそのような傾向がある。だが、特殊部隊とはいえ、帝国陸軍は女子供を巻き込む戦闘などしない。但し、潜入時には偽装や調略は避けられまい」
石居は言い切った。正面から見つめる小山の眼には、そう云わせる静かな迫力があった。
「ありがたくあります」
小山は踵を鳴らして敬礼した。石居もゆっくりと答礼を返す。
日曜日、朝食を済ますと小山勇吉は私服で宿舎を出る。連隊の営外居住者には商人宿があてがわれており、この朝日旅館もその一つだった。北へ歩くと吉林駅はすぐで、さらに進めば一〇分ほどで連隊の兵営である。駅前広場に立って、ポケットから手帳を取り出す。吉林城周辺の地図を書き写してあった。
兵要地誌の確認は任務の第一歩で、士官はいかなる時でも部下を掌握し上官との連絡を保たねばならない。部下のほとんどは営内居住者で兵営にいることになるが、編成が完結していない今は行っても空だし、兵隊の休日を邪魔することにもなる。となると営外居住者だが、木谷曹長の大日ホテルは確認してあるし、石居中尉とは同宿である。
すると時間帯を変えて夜か。およそ戦闘開始は払暁が常だが、特殊作戦なら夜が本番で、英独のコマンドウもそうだ。しかし、夜までには長いし、旅館からは出て来たばかりだ。そうか、地形の視察だ。敵がコマンド部隊なら兵営を直に襲っては来ない。周辺で騒動を起こして兵力の分散を図るだろう。
付近の地形と地勢を知っておく必要があるな。小山少尉は、半日を使って吉林市街を観察することにした。観察とは、満鉄の旅行案内書で云う観光のことである。
あらためて吉林駅の出口に立つ。駅前広場には自動車やバスが並んでいるが、夏だから人力車もある。多いのは馬車だ。一頭立ては二人乗り、二頭立ては四人乗りである。訓練された軍馬と違って馬車馬は爆発音には脆い。手榴弾の二発も放り込めば馬は暴れ出す。すれば、バスはともかく、乗用車では馬を撥ね跳ばしての脱出は無理だ。
市街の方を見ると高い建物は見えない。駅前のすぐ右手の吉林鉄道局のビルは三階建てで圧倒される。駅舎よりも断然高い。中央は四階まであって吉林城内まで見渡せそうだ。中には鉄道警察隊本部があり、まず敵はここを抑えるだろう。両翼の望楼に機銃座を置かれると近づけない。厄介だ。
占拠されたとして奪還を思案する。連隊が出動すれば裏手の北からとなる。歩兵砲を打ち込めば制圧は可能だろうが、流れ弾は南の日本人街の方に行く。西からだと射線は駅舎と重なる。女子供は巻き込めない。こいつは面倒だ。駅舎に進出し、機銃の制圧下で爆薬を仕掛けるか。
そう考えて、広場に出て駅舎を仰ぐ。どうも窓の位置が好くない。あれでは射角が取れない。使える窓は二階の六つしかないし、射界は限られる。いくら駅舎の二階が鉄道局の三階に相当するといっても、これでは分が悪い。いっそ、空爆するか。小山はぶつぶつと呟きつつ、再考の要ありと手帳に記す。
吉林には二つの路線が通っていた。一つは新京からの京図線で、吉林を過ぎると拉法、敦化、延吉、図們と東に向かい、さらに日本海に面する羅津の港まで繋がる。もう一つは奉天から長白山の山麓に沿って北上してくる奉吉線である。
急行あさひは新京と羅津を十四時間で結んでいて、後から展望一等車、二等車、食堂車、二等車、三等車二両、手荷物郵便車で先頭はディーゼル機関車の編成である。新京から吉林は急行で二時間半ほどだ。
一等展望車では和服の婦人が羽織袴の老人と話していた。
「満州の列車は大きいですねぇ」
「ああ、煙が出ないとはたいしたものだ」
老人は、ときどき右腕を擦る。羽織の袖から覗く腕には三寸ばかりの傷痕があった。それを見て婦人は眉を顰める。
「痛むんですか、お父つぁん」
「なに、痛む方が忘れなくていいのさ。それより勇吉はどうしているかな」
「あの子は軍務に熱心ですから、きっと頭の中で戦争していますよ」
「まったく。父子揃って物騒なことだ」
「うふふ」
吉林の二キロ手前から京図線と奉吉線の線路は並走する。急行あさひは独特の汽笛を響かせて減速した。