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LS兵隊戦史第一部「機動連隊」  作者: 異不丸
第二章 昭和一七年八月
13/45

長白省


 満鉄の大幹線は連京線で、その名の通り、大連と新京を結ぶ。特急あじあの停車駅は、大石橋、奉天、四平街だったが、昭和一四年から鞍山にも停車するようになった。

 鞍山は日本人が開いた町と言って過言ではない。明治四一年に満鉄が発見した湯崗子の鉄鉱山は、その後の調査で一帯に及ぶ大鉱山であることが判明する。鞍山市街は製鉄所と同じく大正六年に計画され、出鉄量百万トンに合わせて居住者十五万人の規模であった。

 駅の西側の北半分は製鉄所とその附属施設が占拠し、幾つもの引込み線がある。南半分が工員たちの居住区と商店街である。駅の東側は緩やかな傾斜の丘状地で官庁や事務所、学校がおかれ、神社や寺もあった。

 一帯の鉄鉱石は含有分の少ない貧鉱であったが、磁気選別の技術によって価格競争力を維持して来た。しかし、先の大戦後、操業が低迷して市の人口が減少した時がある。その時、住宅の多くが支那人の手に渡った。



挿絵(By みてみん)



 その日、大連を朝九時に出発した満鉄特急あじあは、正午過ぎに鞍山に着いた。降車する乗客は日本人が多い。麻の背広を着た男性らは社用で出張して来たらしい。絣に帽子は観光客で、女性連れは夫婦者か。千山を観光して湯崗子温泉に泊まるのだろう。ゲートルを巻いた本格的な登山者や湯治客は、そもそも特急には乗らない。

 特急あじあの鞍山駅での停車時間は短い。前の大石橋からまだ六十キロで、水も石炭も補給の必要がないからだ。今日は一等客に足を引き摺る老人がいたようで時間がかかる。しかし、新型パシナには十分な余力があり、数分の遅れは取り戻せた。和服の女性に手を引かれた羽織袴の老人は、ゆったりと歩を進める。

 後尾の一等展望車から最後に降りたのは満服を着た二人の男だった。鉄道警察官の護衛の中で、迎えの車に向かう。騎馬の軍警が先導して大和町の大きな屋敷の中に入った。日本式の屋敷の表札には来島とある。鞍山鋼管の理事、来島秀三郎の邸宅だ。


 来島は当地の名士で、日本人だけでなく満人にも有名である。製鉄所と同じくらい鞍山では古い。政府要人だけでなく、土地の有力者から馬賊にまで知己は多かった。その来島が洋室に集まった男たちの会談を主宰する。もちろん支那語である。

「みなさん旧知かと存じますが、最近の消息を加えてご紹介させていただきます。まずは私、来島秀三郎。今月よりGNスチールの役員になりました」

「こちら、先の天津市長の張西卿どのです。今回、長白督軍に就かれます」

 当人を除いて全員が頷く。背広を着た本人は眼を見開いただけだ。西卿は字で本名は学銘、東三省の英雄にして華北東北連合軍の総司令だった張作霖の次男である。天津市で失政をして下野していたが、香港で満映理事長の甘粕正彦に誘われ、先月、五年ぶりに満州に戻ってきた。

「隣の加茂上校は作戦参謀に就かれます」

 軍服の加茂安五郎は日本人らしく軽く頭を下げた。上校は日本陸軍の大佐に相当する。

「王閣下は今、朝鮮副使に就いておられます」

 満服を着た王賢偉は張学銘より十歳ほど年上、張作霖の軍師格だった王永江の長男である。先日まで奉天市長で、関東軍はじめ日本人からの信頼も厚い。対朝鮮政策の実質の長ということは、満洲国政府から帝国政府の外交中枢に就いたということである。

「最後に張忘実どのは長白督軍の副官です」

 満服を着たもう一人の男は若かった。忘実は字で、本名は紹紀。満洲国務総理の張景恵の末っ子だ。早稲田大学を出て、日本語とロシア語には明るい。昨年結婚したばかりである。

 副官とは迷惑だな、と督軍に任命された張学銘は思う。副官は幕営にあってすべてを知る立場だ。常に側にいるのが役目だから前線に追い出すわけにもいかない。それに、甘粕の古い部下である加茂と違って、張紹紀の忠誠には疑問がある。糺しておかねばならない。

 張学銘が目で発言を求めると、来島は頷いた。

「忘実どのは張大爺のご子息であるが、悪い噂を聞く」

 張紹紀は臆することなく、明快に答える。

「いかにも、かつて私は共産党に通じていました。それも今回の役に立つでしょう」

「私から特にお願いした」と王が言うと、加茂が頷いた。なにか考えがあるのだろう。張学銘は引き下がった。



 長白省は満洲帝国[大清]が置いた新しい省で、範囲は旧朝鮮領のうち北緯三九度以北である。長白山の山麓から朝鮮人を追って、これまでの紛争を終結させたのだ。満洲国には属さず、帝国直轄とされた。長白督軍とはその軍政長官である。

 朝鮮を属領とした後、皇帝の溥儀はすぐにでも冊封使を派遣するつもりでいた。しかし、朝鮮の李王垠は交渉と譲歩を懇請する。米中ソ三国が仲介に入り、大清と朝鮮の交渉が行なわれた。大清使節の副使として派遣された王賢偉は、迎恩門で迎えられた。

 国号を朝鮮とし、元号と暦は大清のものを使うことは承諾された。北の国境線を北緯三九度周辺とし、朝鮮人を退去させることにも大筋で合意した。しかし、朝鮮は外交権と国軍に固執し、独立国の体面を主張した。

 王副使は、朝鮮総督府が提出した資産名簿と旧大韓帝国の対外借款を披露し、満洲帝国の要求が法外なものではないこと。それどころか、宗主国として冊封国の朝鮮に十分配慮していることを説明した。仲介に立った米中ソ三国は、王副使の言説を是としたが、一年の猶予を設けることも勧告する。

 もとより皇帝に急ぐ気はない。数年かけてかまわないのだ。朝鮮は猶予を願って、却って一年と期限を切ってしまった。おそらくできるまいと王は思っていたが、彼らが望んだことだから心配する謂れはない。

 満洲帝国と朝鮮は調停案を容れた。



 人事と組織の確認が済むと、王賢偉は張紹紀を残して退出する。これからは長白督軍の作戦会議だ。それに、いつまでも騎馬軍警を張りつけてはおけない。間もなく保険隊や遊撃隊、つまり馬賊の頭目たちが集まってくる筈だ。

 来島が見送りに出る。主宰がいなくなったので、部屋の中は雑談となる。

「李王垠はよくやりましたね。猶予をもらうとは」

「そう、その間に補償弁済を工面できれば、割譲の件も譲歩が期待できる」

「周りに人を得ましたかな。しかし、できなければ状況は悪化する」

「領域は半分にまで減るでしょう。ま、望んだ結果だが」

「いずれにせよ、長白山一帯の満州化に変わりはありません」

「明日はどうされます」

「せっかくだ、千山に詣でよう」

「無量観か、安東馬賊の再興ですな」

「兄の轍は踏まん。辿るなら父の足跡だ」

「ふふ」

 名勝地の千山へは、山麓の大孤山まで鞍山から電車が通っているが、もちろん全員が騎馬できる。千山に参詣し帰りに湯崗子温泉に泊まるのが、観光遊興のお決まりだ。昔は湯崗子から馬で行っていたもので、温泉には自炊湯治客用の設備もあった。



 その夜、駅前広場の近江屋ホテルのバーでは、二人の日本人が食前のカクテルを飲んでいた。女性は和服で、七十近い老人は羽織に袴だった。だが、カクテルグラスを持つ所作には慣れたものがある。

「色はカルピスを薄くしたようなものだが、味はいい」

 老人が呟くと、バーテンダーがお辞儀をする。

「この辺で採れるマグネサイトという鉱石の色です」

 となりのテーブルの満服の紳士が説明してくれる。

「ほう。鉄だけではないのですか」

「鞍山の鉱石は鉄含有量の低い、いわゆる貧鉱でして。鉄だけでは採算は取れません。もともと鉱業は多品種総合なのです。ご老人は日本からですか」

「東京からです。お詳しいですね」

「私は、そう、鉱山技師になりたかったのですよ」

 王賢偉は眼を細めて言った。






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