中編 廃船の戦い
寒空に浮かぶ月の中編です。
物語の中盤で、人生初の戦闘を書きました。
一般的日本人の私は、戦闘の経験なぞございません。しかし、自分なりに「迫力がある」と断言できるものを書いたつもりです。
初投稿の小説の中編。前編をお読みのうえで、この中編をお読みいただければ幸いです。
四、決意
1
「唐堂、なんか顔色悪いけど大丈夫?」
神崎がぐったりとしている僕の顔を覗き込んで声をかけてくれる。
場所は学校、自分の教室。今は昼休みも半分過ぎたところだ。
「いつになく静かだけどなんかあったん?」
「寝不足なんだよ」
これは別に嘘ではない、昨日の夜は『妖』、人間の捕食者、その存在が僕の中ではかなりショックだったらしい、自分では大丈夫なつもりだったが、ついに昨日はほとんど寝ることができなかった。
「ふーん」
神崎は僕の言い訳に納得していないらしい。
彼女は僕の右手首を一瞥してから、もう一度目で問いかけてくる『なんかあったの?』と。恐ろしく勘がいい。
正直僕は迷っていた、神崎に妖の存在を伝えるべきか否か。リヴァの言によれば、妖と言うモノはそんなにいたるところにいるわけではないらしい。例えば昨日の例でいえば、あの帆船、あれが妖の発生するカギだった。
『妖の発生には条件がある。一番重要なのはそこに『生命の余り』が凝りやすいかどうか。例えばさっきの帆船のような多くの死者の出た土地。他には寺社仏閣。そういうところに妖の素、生命はたまりやすいんだよ。裏を返せばそういうところにしか妖は存在しないんだ』これはリヴァが昨日言っていたことだ。
しかも神崎に妖が見えるかはまだはっきりしていない。
そんな神崎に『妖』なんてものの存在を教えて、悪戯に恐怖させるなんてことに意味はあるのだろうか。
僕の判断は、否だった。
「本当に何もないよ」
「ならいいけど」
神崎はまだ少し怪訝そうにしていたが、それ以上追及してくるようなことはなかった。
『船幽霊』。
海上で溺死した者の魂が、行きかう船を沈めようとして現れるもの。
この妖怪による怪異は数十の幽鬼が船端に手をかけて船を止めるところから始まるという。
幽鬼は奇声を上げながらこういう、
「いなた貸せ」
『いなた』とは船乗りたちの言葉で大柄杓のことだ。もしこの幽鬼たちに柄杓をそのまま与えてしまうと、その柄杓でザバザバと船の中に水を入れられて、船ごと沈没してしまうそうだ。しかし、そこを柄杓の底を抜いてから渡すと、船幽霊は水をすくうことができなくなりそのうち退散するため、船乗りは生きて帰れるという。
また船幽霊は船を迷わせるという。風雨の夜に船乗りの目印は陸で焚く篝火だったらしいが、船幽霊も沖で火を焚き船乗りを混乱させる。しかし、人の焚く篝火は動かないのに比べ、船幽霊の火は右に左にと動く。もし人の篝火を目指せば船は助かる、しかし船幽霊の火についていくと海中に引きずり込まれる。
これが船幽霊。馴れた老水夫でも簡単には生きて帰れなかったという。
「なあリヴァ、お前って強いのか」
「唐突に何を・・・」
「いいから」
リヴァは少し考えてから、
「大半の力は失われたとはいえ僕は龍だよ。特に水辺ならまだある程度の権能はふるえると思うよ」
リヴァはそう言い切った。口ぶりには力に対する誇りが見て取れる。ならば僕の荒唐無稽ともいえる計画も実行できるかもしれない。
僕はリヴァに『この計画』を切り出す。
「よし倒そう」
「は?」
状況を説明しよう。ここは自宅、外はまさに今陽が沈むところだった。
僕は家に帰ってから本棚にあった文献を当たり『船幽霊』に関する記述を見つけた。そして決めた。
「船幽霊を倒そう」
「なに言ってんの」
リヴァは本当に僕の言葉が理解できていないようだ。
「だから、船幽霊を倒しに行こうって言ってんだよ」
「なんで僕らがそんなことしなきゃなんないの?」
「だってここらへんであいつの存在を知ってるのは僕らだけだろう」
「そうだけど。ほっといて被害が出るようなら、ほかの龍が気付いてどうにかしてくれるよ」
「そんなんじゃ遅い!」
「なにが?」
リヴァは目を白黒させている。
「龍は『被害が出るような妖』を討伐するんだよな?」
「そうだよ」
「この文献を見ると『船幽霊』って危険な妖なんだけど」
「危険だよ」
「じゃあ僕らが早めに討伐するほうが犠牲者が少ないじゃないか」
「それはそうだけど・・・・」
「!じゃあなんで・・」
「危険だから故だよ」
リヴァは僕の言葉を最後まで聞くことなくそう言い切った。
「『船幽霊』は確かに危険な妖、おそらく死者も出るだろうね。確かに龍としては発見次第討伐するほうがいいかもしれない。でも、僕が第一に考えるのはトードー、君の安全だ。もし万が一にもトードーが命を落とす可能性があるなら、僕はそれを阻止しなければならない、他ならぬ自分のためにね」
リヴァは噛んで含めるように僕に言葉を投げかける。
「トードー、妖は危険なんだ。できることなら近づかないほうがいい。トードーが一体何を思って船幽霊を退治しようなんて考えたのか知らないけど、僕は賛同できないどころか反対・阻止するよ。僕はまだ死にたくない」
リヴァは僕を見つめる。
確かにリヴァの言うことは納得できる。しかし僕にも引けない理由がある。
「リヴァは僕が死ぬのは嫌なんだよね」
「あたりまえじゃないか」
「なんで?」
「だってトードーは死ぬと僕も死ぬ。そんなのは嫌だ。僕はまだ死にたくなんかない!」
リヴァは最初、僕の質問に怪訝そうにしていたが、最後には強い語調で言い切った。あたりまえだがリヴァは本当に死にたくないようだ。いやそうでないと僕が困る。
なぜなら、もしリヴァが本当に死を恐れるなら、それは僕にも勝ち目があるということだ。
「なあリヴァ、僕は自分の知っているところで生き物が死ぬのを見ていられない。たとえ僕に非がなかったとしても、しかたのないようなことでも、僕は罪悪感を感じる。だから僕は船幽霊を死者が出るようなことが起こる前に倒す。これはもう決定事項だよ」
リヴァが僕を睨み付ける。眼光が鋭くかなり迫力がある。
「トードーがどう決定しようが僕はトードーの、ひいては僕の命を優先するよ。たとえそれをトードーが望まずとも」
実際、もし僕がリヴァを説得できなかったら妖討伐なんて夢のまた夢だ。リヴァが妨害どころか協力してくれないだけで、僕は冷たい夜の海に潜ることができなくなる。しかも、一般的な男子高校生である僕が、危険な幽霊を倒せるとは思えない。そう『妖討伐をする』なんて僕が言っても実際に討伐するのは僕ではなくリヴァなのだ。
しかし僕も後に引く気はない。
「なら僕の選択肢は大分少なくなる。その中で僕が罪悪感を感じずに済む唯一の方法、それは完全に忘れること」
リヴァはそこで僕の言わんとしてることを察したようだ。眼光がより鋭く、実態をもって刺さってきそうだ。しかし僕は畳みかける。
「『その場合、トードーは今回の出来事にまつわる一切の記憶をなくす。』」
リヴァは歯ぎしりをしている。
『その場合、トードーは今回の出来事にまつわる一切の記憶をなくす』リヴァが言っていたことだ。もうわかったと思うが、僕の最後の選択肢とは龍護の任を下りるということだ。
現状僕にはリヴァほどの力も知識もない、本来なら僕が命令されてもいいぐらいだ。しかもさっきも言ったが、船幽霊を実際に倒すのは僕ではなくリヴァだ。ましてや言うことを聞かせるなんてできるはずもなかった。
しかし僕の切れるカードには、それらを凌駕するものがただ一つだけ存在した。それは僕が『仮の龍護』であるということだ。『龍護になるにはその人間の同意が必要不可欠だからね』これもリヴァの言葉だ。もし僕が龍護の任を下りると言ったら、おそらくそれは実行される。するとどうなるか、・・・・もちろんリヴァが死ぬことになる。『生殺与奪の権利を握っているのはリヴァでなく僕だ』それを楯に取ることが、僕がリヴァにいうことを聞かせられるただ一つの方法だ。
勘違いしないでほしいのは、僕は決してリヴァに死んでほしくなどない。もしそうなったら言うまでもなく僕は罪の意識に苛まれるだろう。だからこれは賭けだ。リヴァの生に対する執着、死に対する恐怖を使った壮大な賭けだ。
「きっ汚い」
リヴァの前身がプルプルと震えている。目からは明確な敵意が感じられる。しかしリヴァが何と言おうが現状は変化しない。
「リヴァ、僕は犠牲者なんか出したくない、そしてリヴァは死にたくはない、これは間違えない。だから取引をしよう」
「取引?」
リヴァは僕を睨みつけながらつぶやく。
「そう取引。リヴァと僕は協力して船幽霊を討伐する。代わりに討伐した暁には僕が正式に君の龍護になる。どうだろう」
正直、取引なんて言ったがこれはかなりリヴァに不利なものだ。なぜならもし取引がなされなかった場合、僕は龍護の任を下りる可能性が高いとリヴァは踏んでいるだろう、そうするとリヴァは死ぬことになる。一方、取引を受けても命の危険は残るが、僕を護り、船幽霊を討伐すれば当面の命が保障されることになる。つまりリヴァは死にたくないのならこの取引を受けるしかないのだ。
「汚い汚すぎる!」
リヴァは文句たらたらだ。
「どうする?受ける?受けない?」
リヴァはしばらく僕を明確な敵意の目でにらみ続けた。僕も正面から睨み返したが、リヴァの余りの剣幕に膝は今にも折れそうだった。しかしリヴァの眼光もフッと弱まり、リヴァはため息をつく。
そして苦々しげにつぶやく。
「・・・・・けるよ」
「なに?」
「受ける!」
こうして僕はリヴァの説得に成功した。まあ実際は『説得』と言うよか『脅迫』であったが。リヴァはまだ忌々しげに僕を見ている。
「受ける。だけど約束は約束だからね。討伐したら正式に龍護になってもらうから」
「わかってるよ。あたりまえだろ」
「・・・・・・で討伐にはいつ行くの?」
「できるだけ早いほうがいいんじゃないかな、具体的には犠牲者がでるより前に」
リヴァはうーんと何かを思案すると、
「なら明日の夜にしよう」
「いいけど、今日じゃなくていいのか?」
「駄目ではないけど、明日のほうがいい。明日は満月だよトードー、船幽霊は月が満月に近くなるほど弱くなる妖なんだ。だから討伐には明日が最適だよ」
「そうかじゃあ明日」
「明日の夜に」
「?夜は妖の力が強まるんじゃないのか?」
僕は疑問を感じる。リヴァによれば、妖は昼間力が弱い。なら夜より昼のほうが討伐しやすいのではないだろうか。
「昼だと弱すぎるんだよ」
「弱すぎる?」
僕には話の展開が読めない。
「妖は確かに昼のほうが弱い。でもここで言う『弱い』は『薄い』の意味が強い。昼間の妖はその存在自体が半分消えかかってるんだよ。よっぽど力が強いならいず知らず、『船幽霊』ぐらいだと、昼間は弱すぎて、あちらの攻撃も僕らに影響を及ぼせないけど、僕ら船幽霊に十分なダメージを与えることはできないんだよ」
リヴァが滾々と説明する。あまりピンとこないが、とにかく昼より夜のほうがいいのだろう。
「じゃあ、明日の夜に」
僕らはうなずき合った。
空はすっかりと暗くなっていた。東の方にはほとんど歪みのない円となった月が静かに輝いていた。
窓を開けると潮の香、波の音。
気のせいだろうがその波の音に昨夜聞いてしまった、船幽霊の悲壮な叫びを聞いた気がした。
2
リヴァを説得した日の晩。
僕はまたもや夜の防波堤の上にいた。
あのあと、リヴァが明日の夜に備えて『特訓』をする必要があると言い出した。
「船幽霊はれっきとした妖。一般人類でしかないトードーがおいそれと近づける相手でもないし、ましてや討伐なんてほんとはできるはずもないんだからね!」
僕の顔の前、文字通り『目と鼻の先』でリヴァがガミガミと説教を垂れている。
「そもそも僕が妖なんて見せたのがまずかったのかなー。いやでも普通の人類ならあれを見て倒そうなんて思わないはずだし・・・・。は!そうか!トードーが異常なのか!」
特訓の提案のはずがいつの間にか僕の人格批判が目の前に展開され始めた。
「くっそー。寄りにもよって変人を龍護にしちゃったのかー。これは大変だなー」
「おいそろそろむやみに人の心を踏んづけんのやめてくんない」
リヴァはさっきからやたらと文句たらたらである。しかも言葉の端々に僕に対する絶妙な悪口が織り込まれていて、何気にダメージが大きい。どうやら僕に押し切られたのを根に持っているらしい。
僕は話題を変えるべくこう切り出す、
「それで『特訓』て何やんだ?」
「もちろん戦う特訓だよ」
「えっ、僕も戦うのあれと?」
「あたりまえじゃん。今は仮とはいえ、トードーは僕の龍護なんだもん」
リヴァは当たり前のように言う。というより考えてみれば僕が戦うのは龍護と言う立場上当然だろう。しかも今回は僕が言い出しっぺである。しかし平和な国に生まれたせいか、今までの人生で他人と争うなんてこと、戦争は勿論喧嘩さえなかった。そのせいかどうかはわからないが、僕はどうしても争いと自分とを結びつけることができなかった。
「ということでトードー、僕と一緒に海で特訓だ!あっ、僕も多少準備があるから月が出てから移動しようね、トードーも腹ごしらえとかはしておいてね」
「まあ仕方ないか・・」
やっぱりしっくりこないが、どう考えてもおかしいところなんて何もない。どうもモヤモヤした気持ちを抱えながらも僕は台所へ調理に向かうのだった。
そして今。
僕もリヴァを追って暗い海に飛び込む。昨日と同じく僕には水龍の加護がかかっていて、水中でもあんまり違和感を感じはしなかった。
リヴァは僕が飛び込んだのを見て、
「じゃあ行こうか」
と言って泳ぎ出した。僕も後に続く。
海面ごしに見上げる月は白く輝き、その揺らぐ様子はまるで潤んだ瞳のようだった。
十分ほどだろうか。僕らは沖に泳ぎ、昨日の廃船とも陸とも離れた海中にいた。
「さてじゃあ特訓と行こうか!」
リヴァは気合十分な様子。
特訓の前にここら辺の海中の説明をしておこう。海の深さは十メートルぐらいだろうか、僕らの真下は砂地である。海流の影響だろうが、波のような模様がついた砂が月光をキラキラと反射してとても綺麗だ。少し離れたところ、百メートルぐらいだろうか、には岩場がある。砂だった海底が切れてザラザラとした岩盤のようなものに変わり、さらにその先ではゴツゴツとした岩が何個も飛び出しているのが見える。夜だからと言うのもあるのだろうが魚をはじめとした生物の影は見えない。
「さてトードーの特訓の前に・・・」
リヴァが何やら僕の近くに泳いできて岩場のほうをじっと見つめ始めた。
「おいリヴァ、どうかしたか?」
「すぐわかるからちょっと見てて」
リヴァがそういい終わる前にリヴァの体に変化が起きた。鱗が光り始めた。ただでさえ月光の中でまるで宝石のように輝いていた鱗が、自ら蒼い光を発し始める。と同時に僕らの周りの水が逆巻くのを感じる。あれよあれよという間に、僕らの周辺の水は竜巻のように回転し始めた。『水龍の加護』のお影だろうが、僕はそんな激流も風に吹かれているぐらいにしか感じないが、そこの砂が大量に巻き上げられていく。
「おいリヴァ!どうなってんだ!」
僕の問いかけにリヴァが答えることはない。しかしリヴァは笑っているから僕らに危険はないのだろう。今や半径十メートルに成長した渦は盛大に砂を巻き上げ、僕らの足の下にあった砂地は消滅しその下にあった岩盤が見える。と次の瞬間、渦が爆発した。
『渦が爆発した』なんて言うと変な感じだが、こう表現するのが最もふさわしい。もっと具体的にいえば、高速で逆巻いていた水流がその勢いそのままに、そのまま外側に向きを変え、竜巻の中心―つまり僕ら―を中心とした衝撃波のように外側に流れていったとでもいうべきだろうか。もしこの様子を海上から覗くものがあれば、僕らを中心とした円が突然その半径を爆発的に広げながら円周がどんどん遠くに広がっていくように見えただろう。
遠ざかる濁流が見えなくなったとき、僕らの周辺から砂地は消失し、ただ岩盤だけになっていた。しかも遠くに見えていた一つ一つが一メートル以上はあったであろう岩もことごとく消失し、僕らの見える範囲にはただ平らな岩盤がどこまでも続くだけとなっていた。
「・・・!」
僕は腰が抜けていた。これが水中でなかったら地面にペタリと座り込んでいたところだろう。
「こんなもんかな!」
得意げな顔のリヴァが隣で嬉しそうに声を上げる。
「これっ・・、お前がやったのか?」
「他にこんなことができる者に心当たりがあるなら是非とも紹介してもらいたいね」
「どうなってんだ?」
「もうちょっと見ててね」
リヴァはまた何やら集中し始めた。今度はリヴァの前一メートルほどのところに水が凝縮されていく。あっという間にリヴァの目の前に暗い水の珠が形成された。
「それはなんだ?」
僕はたまらず問いかける。
「水だよ。どうってことない水。ただしこの球体にはものすごい量の水が凝縮されてんだけどね。分かりやすく言うと・・・、この球のところだけ水圧が深海並みになってんだよ」
リヴァの言から推察するに、目の前の球はとんでもない量の水を凝縮したものらしい。だとしたら暗く見えるのは、水圧が違う関係で光の屈折の仕方が周囲と異なるからだろう。
ふとリヴァを見ると何やら体をくねらせて何かを始めようとしている。
「おいリヴァ何を・・・」
「さて、ホイッと」
リヴァは弓よろしく反らせた体を勢いよくたおした。まるで引き絞った弓が矢を放つような動きだ。するとリヴァの前にあった球体がさながらリヴァと言う弓に放たれた矢のようにすごいスピードで飛び出した、いや発射された。
次の瞬間、僕らから百メートルほど離れたところにその球は着弾した。するとそこで球は、破裂した。とらえられていた大量の水が解放されて球が破裂する。またもや今度は着弾した付近を中心とする濁流が形成され波紋のように広がっていった。
濁流が過ぎ去った後、僕は何度目かの驚愕を再び経験することとなった。僕の目の前、リヴァの放った球体の着弾した付近には、穴が穿たれていた。直径二十メートルと言ったところだろうか、どう見てもものすごく固そうにしか見えない岩盤にお椀のような窪みが出現していた。
「まあこんなもんかな」
「リヴァこれはいったい?」
「僕の権能だよ」
「『権能』?」
「そう権能、龍が持つ固有の能力とでも思っておけばいい。僕の権能は液体の操作、海水でも真水でも水でさえあれば意のままに操作できる能力さ」
リヴァは得意げに話す。しかしいつもながら僕は果たして僕がどう反応すればいいのか皆目見当がつかない。とりあえず褒めておくことにした。
「リヴァ見直したよ。お前ほんとに龍なんだな」
「なんでだろう?なんかバカにされたような気がしないでもないな」
それにしても、と僕はもう一度周囲をぐるりと見まわす。最初ここに来た時とは同じ場所とは思えないほど周囲は様変わりしている。すさまじい威力だ。僕に見せるためとは言えども少しやりすぎなような気もする。しかし、これだけのことができるなら・・・、
「なあリヴァ、こんだけの能力があるなら船幽霊なんて、お前だけで倒せんじゃないのか?」
それを聞いたリヴァはため息をつく。
「トードーさっきも言ったけど船幽霊はれっきとした妖、間違っても今の僕らが『船幽霊なんか』とか言えるような相手じゃないよ」
「船幽霊ってそんなに強いのか?」
「少なくとも今の僕だけでは追い払えても倒しきることはできないだろうね」
僕は『船幽霊』を少し軽く見すぎているのかもしれないのは事実だが、正直、目の前で展開された天変地異を目撃し、それを引き起こす『権能』とやらを持つリヴァに敵がいるのが信じられなかった。
「さて話はこのぐらいにして・・・・、トードーの特訓に移ろうか」
リヴァがやっと今日の本題に入ろうとしている。僕もリヴァのせいで頭から消し飛んでいた、今日は自分の特訓のために海に来たということを思い出し、
「よしやろうか!」
なんだか知らないが、妖『船幽霊』戦いのために僕も頑張ろうという気になっていた。
3
「さてトードーはなんか武道とかの経験はある?」
「全く」
「使い慣れた武器とかは?」
「武器に触ったことすらない」
「喧嘩とかの危険は?」
「一度も」
「運動神経は?」
「からっきし」
「・・・・・・・・・・・・・・うわー」
「こらリヴァ引くんじゃない!」
目の前でリヴァが僕に落胆の視線を向けてくる。
『特訓』は始まった瞬間から壁にぶち当たったようだ。
「ほんとに何もないの?」
「なにも」
「・・・よく今まで生きてこれたね」
リヴァは落胆が一周回って感嘆の視線を向けてくる。しかし理由が理由で全くうれしくはない。
「そりゃ平和だから・・」
リヴァの質問に僕は当たり前のように答えた。しかしよくよく考えてみると『平和』というものが恐ろしいことのように思えてくる。だっておそらくこの国の大半の人々は僕のように暴力的な経験を全くしてこない、闘争などとは無縁の人間だろう。『平和』だからその必要はないと分かっていても、いざ僕のように敵と対峙しなければならないようなときに、何もできないというのは考え物だろう。『平和』と言う理由で削られてきた学ばれるべき経験は、有事の際にきっと必要なものだろう。まあ今はこんなことを考えていても仕方ないだろうが。僕は目の前の特訓に意識を戻す。
「じゃあとりあえず」
目の前ではリヴァがまた何かを始めようとする。するとだんだんと僕の前胸の高さのところに一振りの棒のようなものが現れてきた。その棒はだんだんと形状を変えていく。
気づいた時には、僕の目の前には一振りの剣が浮かんでいた。
バスターソードとでもいうのが正しいのだろうか、ゲームとかで見る一般的な剣と同じで、T字型の柄がありその先に刃がついている。全長一メートル強、諸刃、刀身は真っ直ぐだ。柄の部分には流れる水のような文様がある。全体の色は暗い蒼、刃のほうが柄よりも色が薄い。そしてこの剣の見た目で最も目立つところ、柄から刃が生える部分、すなはち十字のように考査している部分に蒼い玉が埋まっている。玉の表面にはリヴァのような鱗のような筋が刻まれている。冷たい暗い光を放つ美しき剣だった。
「それ使っていいよ」
リヴァが僕に言う。
「それってこの『剣』のことか?」
「他に何があるのさ」
僕は恐る恐る剣の柄に触れる。リヴァがああいった以上危険はないだろうし、ましてや柄だから切れたりするはずもないと分かってはいるのだが、僕は恐る恐る柄に触れる。
見た目通りの冷たい柄だった。柄の表面は思いのほかザラザラとしている。持ち上げてみるとこちらは見た目とは違いとても軽い。刃にも触れてみる。
触れた瞬間手が切れた。僕は慌てて手を引っ込めるが、確かに切れたと思ったのに手には傷一つない。意を決してもう一度刃に触れる、またも『切れるような』鋭い痛みを感じるが、今度は本当に切れたわけではないと分かった。刃が恐ろしく冷たいのだ、ドライアイスなどの本当に冷たいものに触れると熱さを感じて火傷をするというが、この刃は圧倒的な骨までしみるような冷たさを感じさせる。
「その剣は『凍気』。歴代の僕の龍護が使用した特別な剣だよ」
リヴァが説明をしてくれる。
「凍気は僕だけが作り出せる剣。凍気の特徴はまずその軽さだよ」
僕は空間に向かって剣を一振り、ほとんど重さを感じることはない。
「二つ目は流動性、まだ扱いきれてないと思うけど、その剣は所有者の望み通りに形を変化させる。そして三つめはその剣は決して折れないということだよ」
僕は剣を見る。月の光が剣にもあたっているはずだが、剣自体の凍るような輝きの中に埋もれてしまっているようだ。
「おいリヴァ、お前この剣どうやって作りだしたんだ」
「簡単だよ。さっきの球体よろしく水を圧縮して、そこに僕の権能を少し注ぎ込んだんだよ。ただそれだけ、つまりその剣の本質は水なんだよ。ちなみにこれがさっきの特徴の理由でもある、トードーは水龍である僕の龍護、その特性上あらゆる水の干渉を無視できるんだよ、だからその剣が扱える。本来ならその剣はとても重くて使えやしないよ。形が変わるのも、そして折れないのもその剣が水だから。水は流動するものだからね」
リヴァは自慢げに語るが僕の耳には半分ほどしか届かなかった。なぜなら僕は剣の美しさに目を奪われていたからだ。いつかの朝に真龍珠を見た時のような感覚だった。
「さてじゃあ準備はいい?」
はっと気が付くとリヴァがニヤニヤしながら僕に問いかけてくるところだった。
「ごっごめんなんだって?」
「えーしっかりしてよー」
リヴァは出鼻をくじかれて不満気だ。
「トードーはここに何をしに来たの?」
「えっと・・・特訓だよ」
「もしかしていま忘れてた?」
リヴァが目を細めて僕をにらむ。
「ま、まさか。よし始めようか」
僕は何とかごまかして特訓に持ち込もうとする。
「・・・・まあいっか。じゃあ僕がトードーに攻撃を加えるから剣ではじくかよけるかしてね」
リヴァがそういったかと思うと、リヴァの後ろにさながら光輪のように剣が生成される。その数十数本。しかし僕にそれをゆっくり観察する余裕はなかった。
「じゃあ行くよ!」
リヴァが言った瞬間。それらの剣のうち一本がいきなり僕に向かって切りつけてきた。
「!!!」
僕は迫ってくる剣に頭が真っ白になりながらも、とっさに凍気を横に構えて迫ってくる剣を受けた。
カンッ。
澄んだ音がして凍気に何かが当たった音がした。
僕は思わずつぶってしまっていた目を開ける。どうやら迫ってきていた刃をはじいたらしい。
「まあ、まるっきりの初心者だし初めはそんなもんか・・・。硬直して動けないよりは良かったんじゃない」
「お前それほめる気ある?」
「トードーは褒めてもらえると思ったの?」
「質問に質問で返すなよ・・・。確かにないけどさ」
「まあ、一割ぐらいはほめたよ。でも目をつぶった時点でアウト。もしこれが本物の戦闘だったら今頃トードーは賽の河原でピクニックしてるところだね」
「全くだ」
僕は苦笑する。どう考えてもリヴァの言うことが正しい。当たり前だが船幽霊が初心者に手加減してくれるとは思えない。
「さてじゃあ続けようか」
「おう!」
またリヴァの背から剣が射出される。今度は恐怖で閉じそうな目を全力で引き留める。そして右肩から袈裟に切ろうとしたのであろう剣を剣で弾く。
「そうそう、なかなか才能あるんじゃない?」
「だといいんだけどな・・。もう一度いこう」
今度は二本の剣が同時に射出される。二つの剣が来るなんて思ってなかった僕はテンパってしまう。おろおろしてる間にも剣は近づいてくる。一つは右から、もう一つは左から。僕は何とか右からの剣を凍気で跳ね上げそのまま左の剣に・・・・、左の剣も弾こうと思い注意がそれていた左の剣は今まさに、僕の胴を横なぎに切ろうというところだった。
「!!!」
僕の脳内は一瞬でホワイトアウトした。次の瞬間、剣は僕の胴にもぐりこんだ。そして文字通り『腹を裂かれる』痛みを感じた。焼けた火箸が腹に差し込まれたような壮絶な痛み。そして僕の脳内は完全にブラックアウトした。
4
「・・・・・ドー」
「・・・・・・ト・・・お・・・」
「トー・・・起き・・・」
「トードー・・大丈・・・」
「トードー、大丈夫ってば!」
意識が戻ったとき僕は一瞬何が起こったのか思い出せなかった。なんで自分の寝床で寝てないんだっけ・・・・!
意識が完全に覚醒した僕はガバッと起き上がり腹を確認する。そして、
「はあー、良かった腹切られたと思った・・」
「もちろん切ったよ」
「そうだよな。まさかリヴァが俺を殺すなん・・・・・て!お前今なんて言った!」
「トードーは腹に僕の剣を受けて腹を切られて気絶したんだよ、覚えてないの?」
・・・・・・なに?
僕はもう一度腹を確認する。そこには切り傷どころかたたかれたりして赤くなったりしているところもない。いつも通りの、真っ白く、がりがりの不健康な腹だ。・・・・。それはそれで問題だが。
「おいリヴァ、お前が直したりしたのか?」
「なにも」
「じゃあ何で切られた傷がないんだ?」
「だって、そういう剣で切ったんだもの」
「は?」
リヴァはさも当然のように話すが、いつも通り僕には全く理解ができない。
「だーかーらー」
リヴァはめんどうくさそうに眼の前に剣を生み出す。どうらや僕の腹を切ったとされる剣のようだ。
「触ってみ」
「手が切れたりしないよな」
「いいから」
リヴァが『大丈夫』とか『切れない』とか言わないことに多大な不安を感じながら、僕は恐る恐るその剣に触れる。
その瞬間『切れるような痛み』が僕の指に走る。がもちろん僕の指は傷一つない。
「リヴァこの剣は一体?」
「凍気の劣化版とでもいうかな、水を圧縮して作った剣だよ。切れ味も抜群」
「だからなんで・・」
「はあ、察しが悪いなー」
リヴァがあきれた様子でため息をつく。
「凍気の時も言ったけどトードーは水の影響を受けないんだよ、だから本質的に水であるこの剣ではトードーに傷一つつけることはできないの!」
『トードーは水龍である僕の龍護、その特性上あらゆる水の干渉を無視できるんだよ』。少し前にリヴァがそういっていたのを思い出した。
「だからトードーは傷を負ってはいないけど、凍気もその剣もとてつもなく冷たいんだよ。水龍の加護でも無効化できないぐらい。だから剣の刃はおなかを素通りしたけど、その冷たさ、文字どおり『切れるような冷たさ』は感じたの!」
リヴァの話をまとめると、
一、剣は僕の腹を通過したが物理的な傷は負わせなかった。
二、しかし剣の温度までは無効化できずに感じてしまった。
三、結果本当に腹が『切れるような』痛みを味わい僕が気絶した。
ということらしい。
ひとまず僕が輪切りになったのに死んでいないことに対するカラクリはわかったが、それにしても・・・、
「腹切られるって痛いんだな」
「ほんとに切られてたらもっと痛いと思うよ」
「マジか!」
あんまり深く考えたくもない話だ。
「それでこの後どうすんだ?」
僕がそういうとリヴァはきょとんとした。そして、
「なに言ってんのさ、特訓を続けるに決まってんじゃん」
リヴァはさも当然ようにそう言った。
「まだやるんだ・・・・」
「だってまだ三回しかやってない。特訓なんて始まってさえいないぐらいだよ」
「さいですか・・」
まあ確かにまだ何もやってないに等しいというのは僕もうなずけるところだ。しかし僕にはどうしても言っておきたいことがある。
「あのー、リヴァさん僕できればもう痛い思いはしたくないんですけど・・・・」
「じゃあ早く上達するしかないね!」
「いや『ないね!』じゃなくて、せめて痛いから切らないで寸止めにするとか、峰打ちにするとか、そういう感じじゃ・・・」
「なにいってんのさ」
リヴァはそういうとニヤリと笑い、
「痛い思いをするのが嫌だから上達するんじゃないか」
僕は背中をなめくじのようなイヤーな予感が這い登ってくるのを感じた。
5
『特訓』と言う名目で行われた昨夜のイベント。僕としては後の人生でもう二度と『特訓』なる言葉を聞きたくない、という感想だけを述べておこう。詳細など思い出すだけで身の毛もよだつ。
朝である。
昨日も夜遅くに文字通り『息も絶え絶え』になって自宅に到着した僕は、そのまま気絶するように(実際昨夜は何回も気絶する羽目になったのだが)リビングのソファーで寝てしまったらしい。朝早くに寝相が悪くてリビングの床に落っこち、それでここ数日で最も『すっきりとした』朝を迎えることとなった。
「おはようトードー」
「おはようリヴァ」
僕の隣でぐっすり寝ていたリヴァがあくびをしながら目を開ける。
目覚め方は最悪だが、僕の頭は不思議とここ数日で一番軽い。昨日あんな状況で寝たのに非常に不思議だ。
「ねえトードー?」
「なに?」
「さっきトードーの部屋で騒いでた物体があったから止めておいたよ」
「ああ、ありがと・・・・う!」
ちょっと待てよオイ!
僕は急いで二階の自室に向かう。そしてそこで発見することとなる、
・・・・十一時二十八分。
ちなみにもちろん今日は休日なんかではない、今頃学校は四時間目が始まった頃だろうか。
「おい!うそだろ!ちょっと来いリヴァ!」
「どうしたのさそんな剣幕で」
リヴァは欠伸をしながらフワフワと階段を昇ってくる(と言っても浮かんでいるのだが)。
「『どうしたのさ』じゃない!これはなんだ!」
「迷惑な隣人」
「ち が う !」
「じゃあなんなのさ」
「これは目覚まし時計!これが鳴ったら起きなきゃいけないの!」
「そんなの誰が決めたのさ?」
「僕だよ!」
「だってトードー起きなかったじゃないか」
「それを知ってるなら起こしてくれよ!」
「嫌だよ眠かったし」
「じゃあせめて目覚ましを鳴らしたままにしてくれよ!」
「なんでさ、うるさくて僕が寝れないじゃないか」
嫌に頭が軽いのも当たり前だろう、だっておよそ十時間も寝れば疲れも取れておかしくないだろうさ!
「はあ、トードー朝からうるさいなあ」
「誰 の せ い だ よ !しかももう『朝』てよか『昼』だし!」
こんなことをしている場合じゃない早く学校に向かわなければ。
あたふたと準備を始めようとする僕の背中に不意にリヴァが投げかける。
「それだけ元気いっぱいなら今夜は問題ないだろうね。疲労も取れたみたいだし」
「・・・・・確かにそうだな」
『今夜』、船幽霊の討伐。
「今夜はよろしくなリヴァ」
「約束は守るよ」
リヴァはどこかぶっきらぼうに答える。しかし昨日リヴァの実力を見たからだろうか、僕はリヴァの言葉に安心感を覚えた。
「遅刻なんて珍しいんじゃないか?」
「そうかもな」
僕は結局もうどうせ遅刻だからとゆっくりと昼食を取り、昼休みに悠々と登校した。
すると僕の席には先客があり、西岡が一人寂しく弁当を突いているのであった。
余りに哀れな光景だったが、生憎一人飯のプロあるところの僕から見れば、『いつも通りの光景』だった。
そして西岡に挨拶をして今に至る。
「どうしたん?てっきり嫌なことでもあって心に傷を負って不登校にでもなったかと思ったぞ」
「もしそうなったら確実にお前のせいだな」
忘れてはいないと思うが、僕はこの目の前の『友人だと思っていた西岡君』のせいで、中二病のレッテルを張られてしまい、今この瞬間もクラスメートからは珍獣でも見るような奇異の目線にさらされているのだった。
「もしお前がヒキコモリー君に進化しても・・・・」
「進化しても?」
西岡は輝く笑顔で答える。
「俺はお前のことを忘れない」
「最悪じゃねーか!」
「唐堂君はクラスみんなの心の中にいつでも生きてる」
「それは僕が死んだということを揶揄してるのか!」
「ノーコメント」
「この野郎が!」
僕はこの友達を忌々しくにらみつける。
「と言うか西岡、引きこもりに成るのは『進化』じゃないだろうが」
「おお、このタイミングでそこを突っ込むか!」
「もし僕が引きこもりになったら全力でお前を祟ってやる」
「ちょっ、それはやめてくれ」
西岡が割と本気でギョッとしている。もしかしてこいつ『祟る』とかどっかオカルトめいた文句に弱いのだろうか。西岡の思わぬ弱点を発見できたと思ったが、
「もしお前が陰気な顔した唐堂が毎日枕元に立ったりしたら面白くて腹の皮がよじれて眠れないじゃないか」
「そっちかよ!」
やはりそんなことはなかったらしい。西岡は随分と楽しそうに笑っている。
僕から見れば西岡は数少ない『知り合い(もうしばらくは間違っても友人とは言うまい)』の一人である西岡と話すのは楽しいのだが、こいつは時たま恐ろしく僕のヒットポイントを削ってくる。本当に忌々しい。
「さてそろそろ僕の席からどいてくれるかな西岡『君』」
「気のせいかな、なんか恐ろしく唐堂と俺との間に距離を感じたのだが」
「気のせいだよ」
僕もお返しとばかりに西岡に毒を感じさせるが、
「そうか。そうだよな」
西岡はそれには気付かずシレッと返してくる。腰を折られた形の僕はどうも言葉が続かない。・・・・・本当に忌々しすぎる。
「で今日はどうしたん?」
脇道にそれまくった話題がやっと本来の位置に戻ってくる。
「寝坊だよ」
「へーお前が珍しいな」
「まあな」
西岡は僕のここ数日の僕の変化を知らない。しかしいちいち説明する気もないから適当にあしらう。
「もしや・・・・」
西岡がニヤーーと笑う。ものすごく嫌な予感がする。
「黒魔術でも始めたか?」
「始めねーよ!お前僕を何だと思ってんだよ」
「遅咲きの中二病」
「なっ!」
西岡があまりにも当たり前のように言うものだからあまりのことにいいよどんでしまった。しかしそれがとても拙かった。
「まさか図星か!これは特ダネだぞ!」
西岡の顔がパァーと、それこそ新しい玩具をもらった子どもよろしく満面の笑みを浮かべた。僕の本能がその笑顔から禍々しいオーラを感じ取る。
「ちょっと待て西岡。それは盛大な誤解だ!」
「話はあとで聞くよ」
僕が掴み掛ろうとしたのを察知したのだろうか、西岡は普段の彼からは到底想像できないぐらいの電光石火の早業で僕の腕をかわわし、
「おい特ダネだぞー」
と、一昔前の新聞記者よろしく教室から出て行った。
「おいこら西岡ちょっと待て。オイ!頼むから!」
僕も西岡を追いかけて廊下でるがもう影も形もない。完全に後の祭りである。
しかも教室からは、
「聞いたか唐堂の奴寄りにもよって黒魔術だってよ・・・・」
「さすが唐堂。おとといぐらいに中二病が発現してからもうそんなことまで・・・」
「・・・キッモーイ」
僕と西岡が大声で話していたのが大変拙かったらしい。またもや心の底から面倒くさい誤解の上塗りをされてしまっている。
「 く っ そ 野 郎 ! 」
僕は周囲の目を完全に無視して昼間の太陽に向かって咆哮するのだった。
6
放課後である。
いつも通り午後の授業を受けた僕だが、授業が進むにつれてだんだんと今夜の『計画』が気になって気づいたら放課後になっていた。最近このパターンが多い気がする。
しかし夜まで時間があると言えどもぐずぐずはしていられないと思って、そそくさと荷物をまとめていると声をかけてくる人物があった。
「ねえ唐堂、ちょっと顔かしてくんない?」
一瞬どこかの不良に目をつけられたのかと思い、ギギギッと音がしそうなぐらい緊張して振り向くと、そこには見慣れた顔、不良よりも強そうな友達、神崎が不機嫌そうに立っていた。
「神崎、それは不良がカツアゲしたり袋にしたりするための、相手を呼び出すときに使うセリフだぞ」
「へっへーん、一回言ってみたかったんだよね。迫力あった?」
それはもう。膝が笑うかと・・・。
「ああ、そこらのヤクザ顔負けだったよ」
「あれなんか馬鹿にされてる気が」
「じゃあ振ってくんなよ・・・」
さて場面が変わり、もうお馴染みとなった廊下の端、神崎との会談の会場である。
「ねえ唐堂、単刀直入に聞くけど・・・」
神崎はそこで一度言葉を区切って、僕の目を真っ直ぐ見つめる。
神崎とは長い付き合いだ。たいていこんな時は『数学教えて!』とか『明日の掃除当番変わってくんない』とか・・、そんなどうと言うこともないお願いが来るパターンだろうと、僕は予想をしていた。そして神崎の言葉は・・・、
「ねえ今夜大事な試合みたいなもんでもあるの?」
「ゲフッ」
図星。余りのことにむせてしまった。どうしてばれたのだろうか、そんなに分かりやすかったのだろうか。
とりあえず神崎には関係ないがさてどうしたもんか、説明してもいいものだろうか?
『やめたほうがいいと思うよ』
突然僕の脳内でリヴァの声がした。ちらりと神崎を盗み見るがどうやらリヴァの声は聞こえないらしい。
『カンザキはなぜか僕の存在を認識できる。その理由が分からない以上、できるかぎり妖との接触は避けるべきだろうね。もし万が一にも妖に出会ったら認知できるカンザキが危険だし』
分かった。僕は神崎に聞こえないように脳内でリヴァの意見を肯定した。
そして全力でごまかそうと頭を回転されていると、
「リヴァちゃんとの相談は終わった」
「ゲホッゲホッ」
おいリヴァばれてんじゃねえか!僕はまたもや脳内でリヴァに文句を言う。
『そんな馬鹿な!この女、・・・何者?』
「僕の幼馴染と言われる人だよ。物心ついた時からの腐れ縁さ」
「まだ相談中か」
再び神崎が確信をついてくる。
「おい神崎、お前・・・いつからエスパーに転職したんだ?」
「は?何言ってんの、あんたの様子がおかしければわかるよ。いったい何年一緒にいると思ってんの?」
神崎には完全にかなわない。
「リヴァ、どうも隠し通すのは無理そうだ」
僕は今度は声に出してリヴァを呼ぶ、
「そうみたいだね、やれやれだよ」
僕の右腕の腕輪がするするとほどけて、龍の形になる。そしてリヴァもため息をつきながら神崎にはかなわないと認めるのであった。
「はあ、そんなめんどくさいことに・・・」
神崎はため息をつく。
神崎には掻い摘んで事情を説明した(『船幽霊』とか『凍気』とかめんどくさい用語は省いた)。そしてそれを聞き終わった神崎の第一声がこれだった。
「なんだか知らないけど唐堂なんかでその『妖』とやらを倒せるの?」
「たぶん大丈夫だよ。僕も特訓したし、リヴァもついてる」
「ならいいけど・・・」
神崎はなぜかたいそう不満げである。
「リヴァちゃんってホントに強いの?」
「失礼な、こんな小っちゃくなってても僕は龍だよ」
リヴァが憮然としてこたえる。
「なあ神崎、なにか気になるとこでもあんのか?」
神崎は何かを言おうとして一度口を開いたが、直前でやめたようだ。そしてただ、
「無理はしないでよ。あんたヒョロガリチキンなんだから」
「少しは励まそうとか思わないの!」
「唐堂は嘲られたほうが元気になるかと思って」
「僕はそんな特殊性癖は持ち合わせちゃいないよ!」
どうも僕の周りは、僕に意味もなく冷たい気がする・・・。
「まあとりあえず神崎、そういうことだから」
「・・・わかった」
とりあえず納得はしてもらえたようである。
「そういえば唐堂、その首から下げてるのは何?」
「ああこれは・・」
説明し忘れたが僕の首には昨夜から、涙型の水晶のようなものがかかっている。親指ほどの大きさ、涙型、パッと見た感じでは水晶のような印象を受ける半透明なものだ、ただその涙型の太くなっている部分の真ん中には蒼い玉、鱗のような文様が刻まれた玉が埋め込まれている。涙型の上のほう、細くなっている部分には糸を通すための穴が開いていて、玉と同じ色の細い糸のようなものが通っている。そしてその見事な宝飾品を僕は首から下げているのだった。
僕はその涙型のペンダントを首から外す。
「これがさっき言った剣だよ」
「は?それが」
神崎がナニ言ってんだコイツみたいな目線をむけてくる。
「見てみるか?」
「うん」
一応釘をさしておく。
「・・・ビビるなよ」
「誰に言ってんの?」
「わかった」
僕は神崎がうなずいたのを確認してから、僕はそれで誰もいない空間を一薙ぎする。
すると僕の手には冷たい光を放つ『凍気』が握られていた。
当たり前だが神崎は目を丸くしている。
「すごい・・・」
神崎は事前に言っておいたからだろうかすぐさま立ち直り剣をまじまじと見つめる。
「大丈夫、妖なんてちゃっちゃと片づけて帰ってくるさ」
そんな神崎に僕は努めて落ち着いて声をかける。
付き合いの長い僕だからわかることだがこれでも神崎は僕のことを心配しているらしい。まあそうだろう僕ももし唐突に神崎から『お化け退治してくる』なんて言われたら、神崎のことが心配になる。まあ心配してくれる人がいるのはすごく幸せなことだろう。僕は、もし神崎がリヴァを認識していなかったらと考えると、背筋が冷たくなる。おそらくコイツのことだから、どちらにしろ僕のことを本気で心配はしてくれるが、リヴァの存在が見えなければ、おそらく今心配されたのは僕の頭だっただろう。
だからこそ今回は神崎に必要以上の心配をかけたくはなかった。
僕の言葉を聞いた神崎はまだどこか不安そうではあったが僕の目を正面から見つめて声をかける。
「行ってらっしゃい」
神崎流励ましの言葉。普通の人には伝わりにくいが翻訳すると、『無事に帰ってこい』と言うことだ。ならば僕が返すべき言葉も決まっている。
「行ってきます」
五、妖
1
「準備はいいトードー?」
「問題ない」
僕らは廃船を見下ろしながらもう一度気を引き締める。僕の手にはすでに凍気が握られている。
「トードーは何よりも自分の身を護ることを優先してね。攻撃は僕がやる」
「わかってる」
これは僕らが昨日決めた役割分担だ。リヴァは僕から一定距離以上離れると権能が使えなくなる。その距離約二十メートル。と言うことは必然的に僕も船幽霊に狙われる可能性が高くなる。だから役割分担をした。昨日剣を握ったばかりの僕は守りに徹する。そして僕が耐えている間にリヴァが船幽霊と権能を使ってやりあうといった感じだ。
「じゃあ始めようか」
「おし」
偉そうに返事はしたがこの作戦で実際に戦うのはリヴァだけだ。いうならば僕はおまけのようなものだ。と頭ではわかっていても僕はとても緊張していた。
何かくだらないことでも考えて気を紛らわせようと思って僕が悪戦苦闘していると、僕の隣に向かって水が集まっていくのを感じた。見るとリヴァが昨日見た水の球体を形成していた。
僕は昨日その球体が岩盤をえぐり取った様子を思い出して、
「なあリヴァ、それぶちかませば終わりなんじゃないか?」
「ならいいんだけどね」
まあこれで済むなら、思い出すだけで身の毛もよだつ特訓をする必要はなかっただろう。
リヴァが西瓜大の大きさのそれを昨日と同じように、矢でもいるように射出する。
「えいっ」
球体は狙いたがわず廃船に飛んでいく。そして着弾すると思われた瞬間、
船内から怒涛のようにあふれ出した『黒い濁流のようなもの』にぶち当たり相殺された。
「まあこうなるだろうね」
リヴァがめんどくさそうにため息をつく。
船室への入り口からはいつか見た青い火が見える。しかし前回とは違って高速で何かを『周回』しているようだ。
そしてそれは満月の下に姿をさらした。
ボロボロのローブのようなものをまとった骸骨。ただしその腕だけはゾンビのような干からびた腕だ。前回と明確に違うところは、青い火がまるで船幽霊の衛星のようにその周囲を高速で回っているところ。そして、前回はただ洞のように見えただけの目から、どす黒い敵意が他ならぬ僕らに向けられているところだろう。
「ギャ――――――――――――」
長く尾を引く船幽霊の悲鳴。まるで心臓を撫でられるような不快感がある。
「さて行こうか」
リヴァはそう言い終わる前に自分の周りに、悲しきかな昨日の特訓で嫌でも僕の目に焼き付いている、例の剣を形成した。その数およそ二十と言ったところか。僕らを囲むかの如く剣が構えられる。
「幽霊退治さ!」
リヴァのその声が合図なったのように十本ほどの剣が船幽霊に向けて飛び出す。
同時に船幽霊の足元からさっきも見た黒い濁流のようなものが怒涛の勢いで僕らに向かって流れ出す。
僕も凍気を構える。
輝く満月が見下ろす中、ここに僕の初陣の火ぶたが切って落とされた。
2
リヴァの攻撃方法は水でできた剣を操作するというものだ。
昨日見た水の渦や、例の爆弾のような球体のほうが高威力なんじゃないかとも思ったが、リヴァ曰く『あんな大技放つのは時間がかかるからその間に攻撃されちゃうよ、しかも船幽霊ともなれば相殺されるかもしれないしね。あっ、でももし五分ぐらいトードーが一人で船幽霊の攻撃から自分と僕を守り切れるならそれでもいいかもね』なんて言われてしまった。もちろん僕はリヴァを守るどころか自分の身さえも守り切る自信がないのでその案は却下された。
僕の役割はできるだけ自分の身は自分で守るということ。具体的には凍気で自分に向かってくる攻撃を防ぐということだ。一応昨日リヴァの超スパルタ式特訓を受けてはいるが、なにせ昨日の今日だからどれぐらいものになっているか、わかったもんじゃない。
リヴァの剣が船幽霊めがけて飛んでいく。そして四方八方からその身を八つ裂きにせんと舞う。しかし船幽霊の足元から黒い霧のようなものが立ち上がり、その剣を弾く弾く。船幽霊を周回する火の玉も剣とぶつかり合い、予想に反して固い金属同士がぶつかり合うような甲高い音を立てている。
「さすがにめんどうくさいな・・・」
リヴァがボソッとそう呟くと、
「じゃあトードー打ち合わせ通りに」
「わかった」
そういうとリヴァは船幽霊にゆっくりと接近していく。僕もリヴァと距離を開けすぎないようにそのあとに続く。
僕はまだどこか夢の中にいるような気持だった。いままで緊張していたが、いざ目の前で戦いが始まってみると逆に映画でも見ているような気分になって、不思議と緊張できない。
船幽霊の周りではまだ剣が踊り狂い、それに呼応するがごとく青い火と黒い霧が丁々発止と切り結んでいる。一見膠着状態かとも思えたがそれも一瞬のことだった。
船幽霊が敵意をあふれさせた眼で僕らをにらむ。眼窩には空洞があるだけだが、そこにはドス黒い感情がユラユラとうごめいている気がする。
「さあ来るよ」
リヴァが何かに身構える。
「おいリヴァ一体何が・・・」
来るんだ?僕はそう言おうと思ったが言い終わる前に、場に動きがあった。
船幽霊が僕らに向かって『手を伸ばした』のだ。
それは比喩的な意味ではない。戦いが始まってからずっと、船幽霊はおとといと同じく、長い腕を引き摺っていたが、その手を持ち上げたかと思ったら肘から先がまるで触手のようにうねり、僕らのほうへその手を伸ばしてきたのだ。
暗がりから初めて姿を見せた船幽霊の手、それは腕と同じくシワシワに干からびて見えたが、不気味なことにその爪だけは血の赤色をしていた。
「トードー言い忘れてたけど、あの手につかまれたら最後、どこでも捥がれちゃうから気を付けてね」
「そんな大事なことはもっと早く言え!」
文句は山ほど出てくるがそんな場合ではない。船幽霊はスルスルとその腕を僕らに向けて伸ばす。結構なスピードで赤い爪が近づいてくる。
「ホイッと」
リヴァが操る剣が近づいてくる手を横合いからあっさりと切断する。しかし腕が伸びてくるスピードは全く落ちない。
「もういっちょ」
またもやリヴァの剣がきらめく。今度は伸びてくる腕の正面から振り下ろされた剣が船幽霊の腕を縦に切断する。
その時僕は信じられないものを目撃した。『妖』の『妖』たる所以を目の当たりにする。
・・・切られてなお速度が落ちない縦に切断された手のない腕。その断面が黒く泡立ったように見えた次の瞬間、僕の目の前で切断されたところから腕が二股に分かれた。
「!」
度肝を抜かれた僕は絶句してしまう。今や僕の目の前には四つの手―二十の紅の爪―が僕らに危害を加えんと突進してきていた。
「トードー、できるだけ自分で防いでね」
リヴァの声にもわずかな緊張が感じられるが、リヴァの周りでは船幽霊への攻撃に参加していない剣が乱舞していて腕を寄せ付けない。その上幾本もの剣が船幽霊を入れ代わり立ち代わり攻撃している。
僕は凍気を正面に構える。リヴァには簡単には手が出せないと思ったのだろうか、今や四本の腕は僕に標的を切り替えたようだ。いまや腕をはっきりと観察できる。その腕はカラカラに干からび、藻であろうか、ヌルヌルとした緑色の毛のように覆われている。そして何より鮮血と言うにはいささか黒い赤色をした爪が、腕の不気味さを一段と際立たせていた。
僕は素早く左右に目を走らせる。四本のうち二本は右から、二本は左から僕に襲い来る。「昨日の今日で戦闘とかどんなクソゲーだよ、でも・・・見える」
僕の脳裏には昨日の『特訓』と書いて『虐め』と読む昨日の光景がよぎる。リヴァ曰く『龍護って存在になると一部の分野で人間が普段セーブしてる力を引き出せるようになるんだよ。最も分かり易いのが五感の性能向上だろうね。視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、そのどれもがより鋭敏になる』らしい。薄々そうじゃないかと思ってはいたが、どうやら僕が落ちてきた龍にあって気絶して起きた時、感じた世界の新鮮さはこれが原因らしい。『そのうち今回重要となるのは視覚、トードーの場合はまず自分の身を守るために相手の攻撃を見る練習をしたほうがいい』これもリヴァの言葉だ。その時はそんないきなりと思ったが、いざ実際に戦闘を初めてみると不思議なことにリヴァの攻撃―剣の軌道―が視認できるようになった。決してリヴァの攻撃は遅いものではない。『動体視力の向上』それも龍護の受ける効果によるものだった。
僕は右の二本に凍気を振り下ろして腕を切断、そして半身になって左からの攻撃をかわす。切断された右の腕は軌道をずらし僕には届かない。
「昨日のリヴァのほうが早い」
僕は確信した。しかもリヴァの攻撃は力づよく、受けるだけでも一苦労だったが、船幽霊の腕は簡単に切断ができる。
「リヴァの野郎、妖よりお前のほうがよっぽど物騒じゃないか」
一度いなした船幽霊の腕がグニャリと旋回して再び向かってくる。いまさらだが船幽霊の腕には骨が存在していないようだ。旋回するわずかの間に切られた腕はまたもや再生している。今度は正面から四本の腕が束になって迫る。
「・・・それも昨日さんざん練習した動きなんだなー」
僕は冷静だった。昨日の特訓はあまりにスパルタだったがたいていの動きに対応できるようになっている。僕は直前まで腕を引き付けるとすれすれでサッと半身になる。腕はすれすれで僕の体をとらえそこね、僕の目の前にその横さらす。
「えい!」
僕は交わしながら剣を自分の頭上に振り上げると、目の前に四本の丸太よろしく並んでいる腕にむかって、大上段から凍気を振り下ろす。丸太はほとんど抵抗を感じさせずに切断される。切られた先は瞬時に黒い塵のようなものとなって海中に霧散する。しかし、
「リヴァ!これきりがないぞ?」
早くも切断面が黒く泡立ち新たに手が生えてくる。
「ちょっとそのまま耐えて!」
リヴァが応答する。リヴァは僕から二十メートルほど先で船幽霊本体に怒涛のような連続攻撃をしている。『怒涛のような』と言うと多少荒々しい感じがするかもしれないが、そんなことはない。リヴァの操る幾本もの剣はそれぞれが美しい舞を踊るかの如く、満月の光の中で鋭く旋回する。そしてその中で船幽霊を切らんとするが、船幽霊も簡単には切らせない。件の鬼火と黒い霧も、リヴァの剣に呼応して乱舞する。リヴァの剣は鋭い軽やかさを感じさせるのに対して、船幽霊の火と霧からは重い力のようなものが感じられる。
リヴァの戦いに一瞬気を取られたのが拙かった。僕が我に返ったとき再び復活した腕がそこまで迫ってきているところだった。
「まずっ!」
僕は反射的に剣を横にして剣の腹で攻撃を受け止める体制を取る。・・が、目の前の光景に唖然とする。何とか正面からの攻撃は防げそうだと思ったのもつかの間、確かに正面からの攻撃は問題ないが、前から向かってくる腕は・・・・二本だけだった。
「トードー後ろ!」
残りの二本はいつの間にか僕の背後に回り込んでいた。僕は前から向かってくる手を受けると同時に反転し後ろを向く。すると赤い爪はもう二十センチほどまで迫っていた。
「!」
もう凍気を構える猶予も残されてはいなかった。僕の頭は一瞬で真っ白になる。おそらく数瞬のうちに腕は狙いたがわず僕の頭を攻撃し、僕は死ぬだろう。今や恐怖を感じる時間さえ残されていないのが唯一の救いだろう。
僕は目を閉じる。
頭に衝撃が来た。
僕の意識は暗転する。
3
最初に聞いたのはヒュンヒュンと言う音。
僕はゆっくりと目を開く。
僕の目は高速で僕の周囲を乱舞している蒼い剣をとらえる。どうらや音の正体はこれららしい。
「はあ、やっぱり昨日の今日だとこのぐらいが精一杯か」
僕の隣からは聞き覚えのある声がする。リヴァだ。満月の下ではその鱗が一層美しく輝いている。
「ここが死後の世界ってわけないよな」
「少なくともまだね」
リヴァが僕の隣で答える。ここは廃船の甲板の上のようだ。船幽霊と接近戦をしていたリヴァは、今僕の隣にいる。そして船幽霊はと言うと、僕らから十メートルほど先から僕らに攻撃を仕掛けている。霧が、火が、腕が、入れ代わり立ち代わり僕らに向かう。しかしリヴァの操る剣にことごとくはじき返される。
「さて、どうしたものか」
リヴァが呟く。
「僕だけでは船幽霊を攻撃しきれない。トードーだけでは船幽霊の攻撃を防ぎきれない・・・。ならば答えは一つ、いや二つか」
リヴァが何やら結論に達したようだ。
「なにをするつもりだ?」
「トードー選んで!」
「なにを急に?」
リヴァは唐突に僕に選択肢を提示する。
「船幽霊を倒そうって言い出したのはトードーだからトードーに選ばせてあげる。一つ目は船幽霊討伐をあきらめてさっさと撤退するという選択肢。正直言って僕はこっちにしてくれたほうがありがたい。現状、僕の火力だけでは船幽霊に致命傷を与えられない、逆にトードーは船幽霊に殺されるリスクが高い。つまりこの船幽霊討伐は僕らにはまだ難易度が高すぎたと言える。だから撤退は僕らが取れる最良の選択肢と言えるだろうね」
「でもそれじゃあ・・・」
船幽霊はほかの人を襲い始めるんじゃないか?そういい終わる前にリヴァが僕の言葉をさえぎって続ける。
「そうだね、おそらく今回の戦いで多少なりとも傷を負った船幽霊はその傷の回復と、さらなる外敵の襲来に備えるために『栄養を摂取』しようとするだろうね」
「それじゃあ僕らがここに来た意味がないし、へたすると逆効果じゃないか!」
リヴァは僕の声には答えずに次の選択肢を提示した。
「二つ目は・・・」
リヴァが語る計画は確かに僕らが全く今まで考えてはこなかったものだった。理由はリスクが大きいからとしていたが、今の状態なら有用かもしれない。
「それでいこう」
僕は即答する。
「はぁ、まあそういうと予想はしてたけどね」
リヴァはため息をつきながら応じる。まだリスクがあることを心配している様子だ。
「まあじゃあそうと決まれば・・」
リヴァが僕を見る。その眼が「準備はいい?」と僕に問うてくる。
「問題なし」
僕も答える。
じゃあと僕らは顔を見合わせうなずき合ってから顔を前に向ける。船幽霊は依然として僕らに攻撃し続けてはいるが、リヴァの剣が完璧にそれを防御していた。その暗い眼は、なみなみと敵意を漲らせて僕らをにらんでいる。
「さあ、後半戦だ」
リヴァが宣言した。
満月は僕らの頭の上で何も変わらず輝いている。
リヴァと僕はゆっくりと船幽霊に向けて歩き出す。僕らを守護する剣もそれに同期し、僕らの身を護る。僕の手には凍気が握られている。その怪しいほどヒンヤリとした柄が僕に安心感を与える。
船幽霊との距離が三メートルを切ったとき、僕は一気に跳躍して距離を詰める。船幽霊も呼応するかの如く僕に攻撃を仕掛けるが、それにはリヴァの剣が対応する。
「えいや!」
僕は跳躍しながら大きく振りかぶった凍気を船幽霊の脳天めがけて振り下ろした。
僕が選んだ第二の選択肢、それは僕が近接戦闘を行うというものだった。本来の計画ではリヴァが船幽霊を討伐し、僕はリヴァが権能を使えるよう近くにいるだけでよかった。しかしリヴァ曰はく『予想より船幽霊の力が強大だったんだよ』と言うことで、リヴァ単体では船幽霊を倒せない。その上、僕単体も船幽霊の攻撃に耐えられないとなれば、おのずと選択肢は絞られる。すなわち『トードーがわき目もふらず全力で攻撃に参加するしかないね、その間僕は主に自分とトードーの防御を担当しつつ隙を見て攻撃するよ』ということだ。
昨日の段階では、この作戦は、リヴァが『トードーを少しでも危険から遠ざけておきたい』と言って却下されたが、今の状態ならこれがベストだろう。これならまず防御は完璧な上に、『凍気は少なくともいまの僕の剣より格段に鋭い、あの剣なら僕が切れないものでも切れるかもしれない』と言うことで、攻撃の面からみても効果的である可能性が高いのだ。
僕は全力で凍気を振り下ろす。船幽霊は火の球で剣を受けた。剣はゴムのような感触に弾かれ軌道を大きく反らす。意外なことに火の球とは弾力のあるものらしい。
「トードーあの霧見たいのを狙って!」
リヴァが叫ぶ。
リヴァの剣が僕らに攻撃を仕掛けんとした例の黒い霧みたいなものと切り結んで、膠着状態に持ち込んでいる。つまり今なら霧は動かない。
「せいや!」
僕は横なぎに剣を振りぬく。
ガツンッっとまたもや予想に反して嫌に硬質的な音がする。剣は弾かれたが、どうも少し刃が物体にめり込んだ手ごたえがした。
「あの黒いのは火の球より切りやすいし、僕が戦った感じだと腕みたいに再生もしない。もし切り落とせればこっちの攻撃力が船幽霊を圧倒できる!」
リヴァは防御をしながら(と言っても本人はあまり動かないのだが)僕の背中に声をかける。
僕はリヴァのアドバイスに従う。黒いのは船幽霊の足元から伸びている。そこに目を付けた僕は凍気を逆手に持ちかえると同時に背中を反らせる。そして、
「せいや!」
と、掛け声をかけながら反らせた背中の反動を使って黒い霧の根元に振り下ろす。
カーーン。
ブス。
高い澄んだ音とあまり上品とは言えない音が海中に響く。
前者は霧を根元から切断した時に激突した凍気と霧が立てた音。後者は切断した後、凍気が勢い余って甲板に深くぶっ刺さった音だ。
僕は急いで霧の切り口を見る。切断した直後はその断面は黒曜石が割れた時のような、ぱっくりとした切り口だった。しかし怪しいことに切り口は光を全く反射していないようで、そこだけ切り取られたかの如く、ただただ真っ黒なだけだった。根元から切り取られた霧もすぐにその場で海中に塵となって消えって言った。しかしいま改めて見るとその切り口は黒く泡立っていた。
「まさか・・・」
腕の時と同じ光景に僕の背筋に悪寒が走る。しかしその心配は杞憂だったようだ。切り口は腕の時と同じように泡立ちこそするが、黒い塵のようなものをブクブクと出すだけで少なくとも瞬く間に再生するようなことはなさそうだ。
僕がそれを確認すると同時に、見慣れた蒼い鱗が僕の腕にその尾を絡めて僕を後ろに投げ飛ばす。
「上出来だよトードー。後は僕の仕事だからそこで見ててね」
リヴァは僕を後方に一メートルほど突き飛ばす。どうやら役割が済んだ以上、一秒たりとも僕と船幽霊を近づけていたくはないらしい。
後方に転がった僕はリヴァの戦いを観戦する。参加できるなら参加したいが、唸りをあげて相対する剣と火の中にはうかつに飛び込めない。それ以前に投げられたときにそのまま引き抜けなかった凍気は、まだ船幽霊の前に刺さったままだ。つまりどちらにしろ僕が戦闘に参加する余地はもうなかった。
リヴァの剣はその輝きを煌めかせながら、月下を美しく旋回する。船幽霊も火を使って応戦するが、霧がなくなった分、火が眼に見えて以前より忙しく動き回る。腕も剣を受けようと動くが、腕ではリヴァの剣の切れ味には到底かなわず、何の抵抗もなく切られてしまい全く剣を防ぐことはできない。腕は変わらず瞬く間に再生しては、あっけなく切断されることを繰り返していた。
一見さっきと大きく変わらないかと思われた戦局だが、やはり防御手段が減ったのは痛手だったのだろう。一歩また一歩と船幽霊が後退し始めた。
僕は今や丸腰だが、船幽霊の腕は再生するそばから剣が切り落とすので船幽霊には僕を攻撃する余裕はない。
一歩、二歩。ゆっくりと、しかし確実に船幽霊は後退する。すぐに船幽霊は甲板の端まで来てしまう。しかしリヴァの剣は踊り続ける。これでは逃げることも叶わないだろう。
船幽霊のまとうローブのようなものの端が切られる。次に右腕が肩口から切り落とされる。次は右足が。さしもの船幽霊の腕も肩口から切られると再生できないのか、それとも今や入れ代わり立ち代わり体につけられる細かい傷の再生に手いっぱいなのだろうか、腕の再生が鈍い。足も同じだ。水中だからかそれとも妖だからか、足を片方失おうと体勢を崩すことはないが、再生はしない。
満身創痍。今や船幽霊は甲板の端まで追い詰められ、これ以上後退できる場所もそれ以前に後ろに引く足もない。もう大勢は決していた。
「さてこれで最後だ。思ったより大変だったけど・・・、まあ、いいや」
リヴァは攻撃に使用している二十数本の剣のうち、五本ほどを自分の後ろに選び出す。何をするのかと思ってみていると、その剣の輪郭が一瞬溶けるかのように滲む、次の瞬間にはその五本の剣は一カ所に集まり融合する。そしてそこには長さ二メートルにはなるだろうかと言う、長く大きな刃を持つ槍が出現した。『刃』と言ってもその刃は切るためのものではないということが一瞬で見て取れる。おそらくその断面は正三角形。何かの本で読んだ槍の解説では、刃の断面が正三角形の槍は『突く』と言う動作に特化していると書いてあった気がする。そんな八十センチぐらいの穂を持つ大槍はいま、その切っ先を真っ直ぐ船幽霊に向けている。そして
「これで終わり!」
リヴァが叫ぶと同時にその槍は音もなく発射された。船幽霊は火で応じようとしたが、槍の勢いが勝ったのだろうはじきとばされてしまって何の用もなさなかった。大槍は狙いたがわず吸い込まれるかの如く船幽霊の胸に突き刺さり、貫通した。
そして、その瞬間船幽霊は動きを止める。一瞬時間が凍結したようにも思える。そしてゆっくりとその長い腕が下がり、力なく垂れる。青い火も刺さった瞬間大きく燃え上がったがそのまま消えてしまった。
そして、そこには胸に槍を抱いた白骨の、右足と右足がない、しかし左腕だけは干からびた肉を、そして血のように赤い爪をもった、船幽霊の成れの果てが静かに月の光を受けていた。
「終わったよ」
リヴァが僕に声をかける。
僕は目の前で終結した戦いの余韻で茫然としていたが、その声で我に返る。そして船幽霊の骸をもう一度見つめ、
「終わったのか・・」
「お疲れさま」
リヴァがねぎらいの言葉をかけてくれる。
「妖も死んだら体が残るんだな」
僕がリヴァに質問する。なんとなく僕は妖が死んだら跡形もなく消滅するようなイメージを持っていた。だからそこに船幽霊の骸があることに一抹の違和感を感じていた。
「そうだよ、と言っても数日でなくなるけどね」
リヴァが答える。そしてリヴァが説明することには、
「前にも言ったけど妖の正体は『自然の歪み』の集合体。この場合は船の沈没による水死者の魂が、長い時間の中でほかの水死者―おもに入水自殺者―の魂を引き付けて集合体となって船幽霊と言う妖になった。そして今ここで船幽霊が破壊され、集まっていた魂が消滅した。これでこの場から『歪み』は無くなったわけだから脱け殻となったこの船幽霊の骸、そしてこの廃船自体が本来あるべき姿に戻る、すなわち跡形もなく朽ち果てることになると思うよ」
「そうか」
「しかも普通の人からは相変わらず認識されないから何も気にする必要はないよ」
「わかった」
リヴァの説明にはまだ聞きたい部分が多くあるが今はそんなことをする気にはならない。
「じゃあ・・・・・帰るか」
僕はそう切り出す。今は一刻も早く住み慣れた我が家に戻りたいと感じていた。
「そうだね」
リヴァは首肯すると陸のほうへ泳ぎ出す。僕もそのあとに続き海中に飛び出す。
少し泳いでから廃船を振り返る。そこには依然として白骨の異形の骸が大槍に貫かれているのが見て取れる。そこに満月の光が降り注ぎ、不思議なことに、神秘的な雰囲気さえ感じられる。
「トードー先行くよ」
リヴァが僕を急かす。
「すぐ行くよ」
僕はそれにこたえると廃船に背を向けリヴァの後を追う。
『魂は消滅した』とリヴァが言ったが、それで水死者の魂は救われたのだろうか、僕はふとそう思った。僕は頭を振ってその考えを一回リセットすると泳ぐ速度を上げる。
僕はリヴァと共に泳ぐ。するとすぐに陸の光が見えてくる。数時間見なかっただけなのにその光が僕にはたまらなく懐かしく感じられる。
そして
『ただいま』
僕は誰もいない砂浜でそう呟くと、止めてあった愛車にまたがり、懐かしの自宅を目指す。リヴァは僕の腕にいつも通り巻き付く。
満月は僕らの頭上で、万物を静かに見下ろす。
僕はそのいままで全く、そしてこれからもおそらくずっと変わらないであろう、透き通る美しい光に無意識に安心感を覚えながら、自転車をこぐ。
不思議と今日は月がどこか微笑んでいるようにも感じられた。
4
僕の部屋である。
家に帰った僕らはとりあえず風呂につかり、腹が減っていたので軽食を取った。
ふと時計を見るともう日付が変わるところだった。
そして今、僕は疲れた体を休めるために一刻も早く横になりたかったがその前にリヴァが、
「今、正式に龍護の契約をしよう!」
と言ってきたのだった。
そんなわけで、今僕の目の前三十センチには怪しげな呪文のようなものを唱える蒼い龍がいた。
先日の夜に仮の契約を結んだ時と同じ旋律の呪文だ。リヴァは独特の節をつけながらその呪文を高く低くさっきから唱え続けている。その眉間にはやはり先日と同じような、光り輝く珠が形成されていく。
しかし、
「ハア」
僕はため息をつく。もちろんリヴァとの契約が嫌なわけではない。これは僕とリヴァとの約束だから、リヴァが船幽霊退治に協力してくれた以上僕がそれに答えないわけにはいかない。僕がため息をつかざる負えない理由はほかにある。
時計を見る。時計の針は一時を示している。 僕はもう一度ため息をつきそうになるが、そう何度もリヴァの前でため息をつくのは失礼だと思いすんでのところで飲み込んだ(まあ、ものすごい集中しているらしいリヴァにはきっと気付かれないだろうが)。リヴァは一刻も早く寝たい僕の気持ちに反してもう三十分以上も一心に呪文を唱え続けている。
大分疲労が体にこたえているところの僕としては、だんだんとその呪文が子守歌に聞こえてくる。僕はついに迎えに来た睡魔の手を取った。
呼吸ができない。おかしい。息が吸えない。苦しい。・・・・・苦しい。
僕はガット目を開くと体を勢いよく起こす。すると僕の口と鼻を覆っていた水が外れて、まるで無重力の世界にあるかのごとく空中を漂う。そして蒼い鱗に触れると、ふっと掻き消えた。
「お待たせ、準備できたよ」
僕はやっとそこで自分が寝てしまっていたことに気が付く。
「悪いな寝ちまって。それで・・」
僕は部屋の真ん中に浮かんでいる物体を見る。
いつか見た輝く珠の様なものがそこにはあった。しかし前回とはまた全く違う雰囲気を持っている。まず何よりでかい。前回は野球ボールぐらいだったが、今回のはバスケットボールぐらいの大きさがある。しかも気のせいか表面がドクンドクンと脈打っているように感じる。間違いなく美しい珠なのだが、この珠を見ていると不思議と体が緊張して全身の毛が逆立つ感じがする。
「それでリヴァ僕は何をすればいいんだ?」
「まずその珠に手を置いて」
僕は恐る恐る差し出した手を珠に乗せる。
ヒンヤリとしている。表面はすべすべとしていてなかなか触り心地がいい・・・・・が、
「なあリヴァ、この珠ってなんなん?なんかトクントクン脈打ってんだけど」
さっき感じたのは間違えではないらしい。その珠は一定のリズムで心臓よろしく脈打っていた。
リヴァがさもつまらなさそうに答える。
「この珠?もちろん僕の力そのものだよ。と言うか今まで唐堂の中にあったものだよ」
「は?」
またすごい答えが返ってきた。
とりあえず僕は目線でリヴァにさらなる説明を求める。
リヴァが言うことには、
「この珠は『真龍珠』の中身。つまり僕の存在そのものだよ。龍護はその龍の力を入れる器の様なものってのはもう説明したけど、その器に入れるのがこれなんだよ」
「これを?僕が?取り込む?」
寝ぼけているのも多少はあるのだろうが頭の中に大量の疑問符が浮かんで僕の脳内はフリーズ寸前だ。
そんな僕を見てリヴァはため息をつく。
「まあいろいろ面倒臭いけど、説明はまた後で。今はとにかく儀式を終わらせよう」
「おっ、おう」
よくわからないが後回しになったらしい。
「トードーはその珠から手を離さないでね。後は僕の言葉の後合図したら『誓う』って言ってくれればいいから」
「了解」
そして契約の儀式が始まる。
リヴァがおもむろに口を開き、詩というか祝詞の様なものを朗々と唱え始める。
リヴァの声は決して大きな声ではない、しかしなんと言うか深い響きの様なものがあるからか、かなりの迫力がある。祝詞は節をつけながら流れるように紡がれる。
リヴァの声は朗々と響き渡る。僕はそのどこか神秘的な雰囲気にすっかり飲まれてしまい、不思議と眠気は感じない。
暫く祝詞は続いた。しかしそれは唐突に切れる。
やっと我に返ってリヴァを見ると、リヴァが僕に向かってうなずいている。恐らくこれがリヴァの言うところの合図で間違いはないだろう。
僕は堂々と宣言する
「誓う」
僕はその日、正式に龍の保護者となった。
六、転機
1
放課後である。僕は競泳用のパンツをはいて手にはキャップとゴーグル。そして右肩には興奮した蒼い龍が乗っている。
船幽霊討伐戦の翌日。僕は神崎に結果を報告しようと思って少し早めに学校に行ったが、その日は運悪く神崎は休みらしかった。神崎は昔からめったに風邪をひかないやつなので少し心配だが、クラスの奴の話を小耳にはさんだ感じでは、少し体調を崩したぐらいで特に問題はないらしい。何なら帰ってから電話でもしてみようか。
そして今、僕は久しぶりに学校のプールに来ていた。僕の通う高校は進学校として有名だが、同時に進学校あるまじきボロさにも定評がある。しかも自由な校風のせいだろうか、生徒も先生もみんな多かれ少なかれ大雑把な人間なので、校舎のいたるところに立派な綿毛(埃の塊)が転がっている。さてそんなボロ高校にはプールがある。場所は三階建て校舎の屋上、もちろん室外プールだ。二十五メートル八レーン、まあ県立高校のプールとしては一般的な大きさだ。しかしプールサイドは色あせ、周りの腰掛には所々ヒビが見える。
「ボロい」
十人いれば十人がもつ感想だろう。
「おお唐堂、もう準備は万端ですか?」
色が若干黒い男子生徒が話しかけてくる。梅野猛と言う同級生だ。そして・・
「やっとプール開きか」
梅野が透明な水面を見ながらため息交じりに呟く。
「ああそうだな」
僕も答える。
そう今日は我が水泳部のプール開きの日なのだ。
「しかし・・・・」
僕と梅野はプールの水温を記録したファイルに目を落とす。この温度はさっき梅野が温度計をプールにぶっこんで測った、測りたてほやほやの数値だ。
・・・・・・「十七・五度」
今度僕らは二人同時にため息をつく。それもそのはず、今日はまだ五月の中盤、水温が低いのはあまりに当たり前のことだと言える。しかし十七度はさすがに冷たすぎやしないだろうか。
「どんな感じ?」
今度はスポーツ刈りで僕らより明らかに恰幅の良い男子生徒が更衣室から上がってくる(僕らの更衣室は男女ともプールの下にあり、当然プールと更衣室の間には階段がある)。
その坊主頭はプールに手を入れると、弾かれたかの如く手を引っ込める。
「この部活って寒中水泳部だっけ?」
坊主頭は水に触れた指を凝視しながら文句を言う。
彼は五十嵐純太という同じく僕の同級生であり、そして水泳部員だ。
「寒中水泳だともっと冷たいだろう」
「確かに」
梅野が五十嵐にこたえる。確かに寒中水泳というほどでもないが、まともな水温じゃないということは僕ら三人みんなが思っていることだ。
しかし僕ら三人の低いテンションの中に異質なのが一人、いや一匹。
「トードー水がいっぱい!僕をプールなんかにつれてきたってことはもしかしてこれは僕へのご褒美?」
「違うよ、と言うか飲むなよ!」
言わずもがなリヴァだ。プールを見てから興奮して狂喜乱舞している、僕の耳元で。たいそう騒がしい。
「お前そういや前から疑問だったんだけど水なら海にいっぱいあるじゃないか?」
リヴァは毎日食事として家の水道から水道水をジャバジャバ飲んでいる。親が払ってくれるとはいえこのままでは水道代が莫大な金額になってしまう。
リヴァは僕の疑問に答えて言う、
「確かに海に行けば水は飲み放題、でも僕が海から水を飲むと龍の気配の様なものが残っちゃうんだよ」
「なんだそれ?」
「うーん。説明が難しい・・。平たくして言うと『妖』みたいなモノのうち、強い奴が僕の存在を知ってしまうんだよ」
「なんか拙いのか?」
僕は当然の疑問を口にしたつもりだったが、リヴァはそれを聞くと完全に馬鹿を見る目で僕を見る。
「そりゃ拙いよ、だって僕ら龍は本来妖を倒す方の存在なんだよ、実際僕らは多くの妖を日々討伐する」
「ほう」
僕にはまだリヴァの言いたいことが分からない。
「そこでだよ、もしそんな妖の親玉みたいのが、自分の周りに限りなく弱体化した龍がいると知ったら・・」
「知ったら?」
だんだんリヴァの言いたいことが見えてきたがとりあえず、話の続きを促す。
「もちろん弱っているうちに一刻も早く、その龍を倒そうとする!」
「そうなのか」
「そうなんだよ」
リヴァは真面目な顔で深刻そうに言った。しかし僕は例によって理解はしたが、いまいちピンと来ていない。
「つまりお前はまだ海の水は危険で飲めないってことだな」
僕はとりあえず最初の疑問の答えを尋ねる。
「そういうこと」
リヴァが答える。
疑問が増えた気がするのは否めないがとりあえず疑問の解消には成功した。しかしリヴァがまだ何か言いたそうだ。
「どうしたリヴァ」
「いや、なんというか・・・」
いつもはきはきと話すリヴァとしては珍しく言いよどむ。
「どうかしたんだ?」
リヴァはまだ何か躊躇していたが意を決したようだ。
もしかして何か深刻なもしくは重要なことでも切り出すつもりだろうか。
「ねえ唐堂」
リヴァがしみじみと切り出す。
「なんだ」
僕はリヴァの言葉がどんなことを切り出すのか無意識に身構えた。そして、
「・・・・・・・・僕はずっとトードーの友達だからね」
リヴァの目が見る先は僕の後ろ。僕は大変なことを思い出した。『リヴァの声は僕とか安崎以外の人間には聞こえない』、でも『リヴァに話しかける僕の姿は普通に認知される』、僕の背中を嫌に冷たい汗が流れ落ちる。
油の切れたロボットよろしく僕はゆっくりと振り向く、そして僕の目は僕との距離を開けて、引き攣った笑みをむけてくる梅野と、暖かい優しい眼で僕を微笑みながら見守る五十嵐の姿をとらえた。
・・・・・・・・・やっちまった。リヴァの切り出した案件は想像を絶するほど深刻なものだった、主に僕の楽しい楽しい青春高校ライフにとって。
「まて梅野・五十嵐、これは誤解だ!僕は変な人じゃない!」
僕は悲しいことにここ数日で何度目かのセリフを口にする。
梅野は引き攣った顔のままなぜか深く頷くと、
「生物の多様性は重要だよ」
と、正体不明のコメントを発する。
「お前・・・・・・・・・すごいな」
こちらは五十嵐のコメントだ。僕を温かい眼で見つめながら、なぜか感心している様子だ。何を感心されているのか考えたくもない。
「ちょっと待て五十嵐、これには簡単には話せない理由があるんだ!」
「どんなだ」
五十嵐は当然そう返してくる。僕は口をついて出ようとした言葉を間一髪で飲み込む。
『実は数日前道に落ちてた龍を拾って、僕が面倒みるとこになったんだよ。で、その龍が今ここにいて今そいつと話してたんだけど、その龍は僕と一部の人間にしか見えないから今みたいに僕が一人で空気に話しかけてるように見えてるってわけなんだ』なんて、もちろん言えない。それこそ入学早々へたすると一生消えない烙印を押されそうだ。
しかし長谷川は僕の答えを待っている。さてどうこの場を切り抜けようか、とりあえず状況を整理する。
『目的は梅野・長谷川に僕の奇行の訳を説明し、納得させること』
『しかし、リヴァの存在を口に出すと確実に失敗する』
『しかも、西岡がここ数日熱心に布教をしてくれたおかげで唐堂中二病疑惑が広まっていることをすでにこの二人がしている可能性も否定できない』
・・・・・・・・以上の条件の中で目的を達成する方法は?
へたすると大学入試よりも難しい超難問。
「・・・・・・中学校でやった学芸会のことを突然思い出して、懐かしいセリフを言ってみたくなったんだよ」
僕の答え『学芸会の思い出作戦』。
「わかった、俺はお前を一個人として尊敬できると思ってるし、これからもお前の味方だ」
五十嵐は優しい言葉を僕にかけ、最後に僕の背中を励ますようにたたくとプールサイドを歩いて去っていく。
「待て五十嵐誤解だ!ほんとに!頼むから!」
「俺はたとえ唐堂がどんな趣味を持っていても差別することはないから安心しろ」
「言ってる内容は素晴らしいけど、そもそもの前提が素晴らしく間違ってるよ!」
僕の必死の説得もむなしく五十嵐は歩いていってしまった。
僕はそこでもう一人の友人の存在を思い出す。そしてキッと振り向くと・・・、そこには誰もいない。
「マズイ、梅野だけでも誤解を解いとかないと!」
僕は梅野を探して更衣室に降りると、梅野はそこにいた。が、僕を見るとフッと目を反らし、一言
「個性は重要だよ。頑張って」
「おい梅野!お前もか!」
梅野はそのまますたすたと歩いていく。どうも大分ショックだったらしい。
「・・・・ハア」
僕はまたこれまたここ数日で何度目かわからないため息をつく。
誤解を解くのにはしばらくかかりそうだ。
「頑張ってね!」
リヴァが肩の上から僕にそう声をかける。
「僕の高校生活はまだ始まったばかり・・・・だよな」
こうでもして自分で自分を励まさないとやっていけない。
僕はまたプールサイドに出ると、意図的に距離を開けているであろう梅野や、優しいまなざしの五十嵐を見ながら、入水の準備を、一人寂しく始めるのだった。
「はあ部活始めから僕一人か・・」
無意識に漏らした文句にリヴァが反応する。
「トードー僕もいるよ!」
僕は思わず反射的に大声で答えてしまった。
「元はと言えば、お前のせいだろうが!」
ハッ、僕はものすごい『やっちまった感』を感じた。海パン一丁で何かに対して話しかけ、突然大声で怒鳴る男。
どこからどう見ても変人を超越して変態に達していると自覚するのはそう難しくはなかった。
2
さて、あまりのショックに忘れかけていたが今回僕がここにいるのは我らが水泳部のプール開きのためだ。
僕は目の前の水面を見る。キラキラと光を反射している。
これが冷水でなければどんなに良かっただろう。
この水泳部のプール開きには代々伝わる伝統的な方法があるらしい。まず僕らはプールサイドに整列する。一年生が前、二年生が後ろだ。次に、二年生の部長がおもむろに包みを開く。そこからは信じられないものが飛び出した。『芋焼酎 霊界への誘い』の一升瓶。
「!」
僕は思わず二度見してしまった。成り行きで隣に並ぶことになった五十嵐も絶句しているのが気配で分かる。
部長は瓶を開けると、
ジョボジョボジョボ・・・・・
信じられないことにプールサイドを走りながらプールに焼酎を惜しげもなくどんどん投入する。一瞬回って帰ってくるとそこでピッタリ瓶は空になった。
「すごいな高校の水泳部・・・」
五十嵐がたまらず呟く。何がすごいかうまく説明できないが僕も同じ感想だった。
「なんかいいにおいがする」
僕の肩の上でリヴァが反応する。よくわからないが龍って酒が好きなのだろうか?
リヴァに問いただしたいのは山々だが。ここでリヴァに話しかけるとさっきの二の舞になってしまう。
「気を付け!」
突然部長の声が響く。僕は気を引き締めなおす。
「礼!」
「よろしくお願いします!」
僕らは先輩の号令に従ってプールに頭を下げる。
しかし次の瞬間。
僕は誰かが尻を蹴ったのを感じた。完全な不意打ち。たまらず僕の体は前に倒れる。頭の下は水面だ。
ザッブーン
ギャー
前者は先輩方に押された新入部員がプールに落とされた音。後者は心の準備が整っていないのに冷水にダイブした新入部員が、驚いたのとあまりに水が冷たいので上げた悲鳴だ。
僕は急いで顔を空中に出すと、ニヤニヤした顔の先輩方の顔が眼に入る。おそらくここまでがプール開きの儀式なのだろう。
しかし、・・・・・・
「冷たくは・・・ないな」
「あたりまえじゃん僕の、水龍の龍護なんだから」
水に落ちる前に僕の肩から飛び上がっていたリヴァが空中からそう返答する。
「そんなプールなんかより、昨日の夜の海のほうがよっぽど冷たいと思うよ」
リヴァがさも当たり前のように言う。まあ、間違いなく当たり前なのだが。
僕は周りを見回す、梅野が壊れたくるみ割り人形よろしく高速で歯を震わせているのが見える。その奥では五十嵐が、『フォー』とか『ファー』とか言いながらさながら怪鳥のように飛び跳ねている。新入生はみんな似たり寄ったりそんな様子だ。そこに先輩方も飛び込んで乱入し、冷水に悲鳴を上げる。
阿鼻叫喚とはこのような様子のことだろう。僕は周囲に展開された地獄絵図を一人冷静に眺める。
そして不思議なことに少し寂しいような不思議な気持ちになった。
3
そんなことがあった日の夕方である。
「なんかが・・・・・変」
学校から帰ってきて一心地ついたところでリヴァがポツリとつぶやく。
「なにが?」
「何かがいるような気がするんだけど・・・」
「何かって・・・妖か?」
昨日の今日で妖が出現なんかしたらたまったもんじゃない。船幽霊では何とかリヴァの協力を取り付けられたが、次はそうもいかないだろう。それ以前に『なんか変』なんて言われると、たとえ妖の存在を知らなかったとしてもなんだか気味が悪い。
「うーん・・・・わかんない」
「しっかりしてくれよ、なんだか気味が悪いな」
「なんか今日一日中、蚊が飛んでるみたいな変な不快感があるんだ」
「一日中!そんなら早く言えよ」
「いまいち確信が持てなかったんだよ」
リヴァは悔しいのか少し顔をしかめて言う。
「まだほんとに正体もわからないけど気に留めておいたほうがいいかもね」
「わかった」
僕は言いようのない薄気味悪さを感じながらもうなずく。
そこで僕もあることを思い出した。
「そうだ神崎に電話してみよう」
今日神崎は風邪で学校を休んでいる。神崎にしては珍しいことだし、何よりまだ僕らは討伐の成功を彼女に伝えられていない。
僕は電話機を取ると神崎の自宅にダイヤルする(昔から何かと連絡を取ることが多かったので僕は神崎家の電話番号を暗記している)。
プルルルル プルルル ガシャ
『ハイ神崎ですが』
神崎美月本人が電話に出たのが声で分かる。
「おお神崎、僕だけど大丈夫か?」
少しの沈黙。
『・・・・・・・・お掛けになった電話番号は現在使われておりません』
「おいコラ、神崎!居留守は酷いぞ!というか一回電話に出ちゃったらその手はつかえねーだろうが!」
思わず電話口から大声で突っ込んでしまった。
『はあ、で、どちら様ですか?』
「お前絶対わかっていってるだろう!俺だよ俺、唐堂悟!」
『大変!ついにうちにもオレオレ詐欺が!警察に通報しなきゃ、唐堂を!』
「おい神崎!お前それがやりたいがためだけに僕に名乗らせたのか!しかも、もしオレオレ詐欺だったら僕は容疑者ではなく、被害者だ!」
僕は早くもなんで電話をかけたのか忘れてしまった。
今度は電話口からしんみりとした声が聞こえる。
『そうですか唐堂悟さんが・・・・。ええ、優しい方でした、お悔やみ申し上げます』
「かってに僕を殺すな!」
僕は突っ込みすぎで息切れしてしまった。
『あースッキリした、で唐堂一体何の用?』
やっと神崎がまともに応対する気になったようだ、しかし僕は
「・・・ゼエ、ゼエ」
完全に息切れしていた。
『とうどうー、もしもし。生きてる?もしかして体調でも悪いの?』
僕はやっと復活する。
「体調が悪いのはお前だろ、大丈夫か神崎」
やっとまともに本題を切り出せた。
『あー問題ないよ、ちょっと体調崩しちゃって』
「お前が珍しいな、どうした変なもんでも食った?消費期限切れた食材もったいないからとかって食ったりした?」
『最初に思いつく体調不良の原因がそれなんだ・・・、さすがにショックだな』
神崎が珍しくちょっと落ち込んだように聞こえる声を出す。しかし騙されてはいけない、僕は伊達にこいつとつるんできていない。神崎がこういう声を出すのは、僕が神崎を傷つけたと思って狼狽するのを楽しみたい時だ。だから僕はここでさっきの反撃に出る。
「そーだよな悪い悪い。神崎ならたとえ消費期限切れでも全く問題ないよな、普通に消化できるもんな。いやー見くびって悪かったな」
『・・・・さすがに現役の女子高生にそれは酷いんじゃない?』
「現役のアマゾネスに敬意を払ったんだよ」
『・・・・っぐ。唐堂が成長してる』
うまくお返しができて僕も大分すっきりした。さて今度こそ本題に入ろう。
「お前どうしたん?熱でも出た?」
僕は今度は真面目に切り出す。
『うーん微熱。いつもならこんなの問題ないんだけど、今回はちょっと体もだるくて・・・』
神崎も今度は真面目に返してくる。
「ほんとに珍しいな、なんかあったら言えよ。できる限りで協力するから」
『わかった。たぶんないけど気持ちだけ受け取っとく。ありがとう』
「無理はすんなよ」
『わかった。・・・・・・そういえばあんたは大丈夫なの、昨日化け物退治やったんでしょ?』
「あー、まったく問題ない。無事に終わったよ。怪我もしてない。心配かけたな。でも大丈夫だったよ」
『なら良かった』
神崎の声は本当に安心したと感じさせるものだった。
「お前も早く治せよ。お前がいないと張り合いがない」
『たぶん数日以内、早ければ明日にでも登校できると思うよ。私も唐堂がいないとどこでストレスを発散すればいいのか・・・。ほんとに大変だよ』
「・・・・なぜだろう神崎が治るのが急に歓迎できなくなった」
『私は一刻も早く直さなきゃ、て思った』
「・・・・本当に無理はすんなよ」
『わかった』
僕は電話を切る。神崎と僕はもう腐れ縁としか言いようがないぐらい、色んなことを一緒にやってきた。だからだろうか、あいつと話すと不思議とリラックスできた。神崎も同じなら僕も電話した甲斐があるのだが。
「カンザキ、大丈夫だって?」
リヴァが聞いてくる。
「ああ体がだるいだけで特に大病ってわけでもないらしい。数日中に復帰できるってさ」
「わかった。なら問題ないね」
僕は電話を置いて伸びをする。
時計を見るとそろそろ夕食の準備をしないといけない時間だ。
「あっ、夕食の材料飼い忘れた!」
そういえば昨日『腹が減っては戦は出来ぬ』という精神に基づいて、食材を使い切ったのを忘れていた。
「リヴァちょっと買い出しに行くぞ」
「アイアイサ」
僕はタンスの引き出しから財布を引き出し、玄関で靴を履く、肩にはリヴァが乗っている。
船幽霊・神崎の体調という懸念が片付いたからだろうか、僕はいつもより足が軽い気がした。
外に出るとまさに夕日が沈まんとしているところだった。
風には嗅ぎ馴れた潮の香りが混じる。
今日の夕飯は何にしようか?肉か魚か。
そんなことを考えながら僕は赤く焼けたようにも見える道を進む。
夜である。
満月はもう数日前に過ぎ去ったがまだ円と言って差し支えない月が照らす海中に、ゆらりとその船は鎮座していた。
真夜中。
その甲板、数日のうちに驚くほど朽ち果てた甲板には、一つの屍が大きな蒼い槍で縫い留められていた。槍はその胸を真っ直ぐに貫いている。
そのとき異変は起きた。
黒いぬめりを纏った何かが、長い蛇の様な体躯、果てしなく長いその体躯を不気味にうねらせながら現れる。
その『何か』は廃船の上でその一端―おそらくそれが頭なのだろう―を擡げる。そして唐突にその丸太の様な頭部に真っ直ぐな横向きの線が走る。口だった。
そのミミズのような、蛇の様な黒い『何か』は開いた口を、何の予備動作もなく前に―廃船に突き出す。
ただでさえかなり朽ちて今にも崩れそうだった廃船はあっさりとその巨大な口に収まる。
『何か』が口を閉じたときにはもうそこには何もなかった。
黒いミミズはそのままどこかへ泳ぎ出そうとして、フッと動きを止める。
再び口を薄く開くと何かを勢いよく吐き出す。その時に口の端―吐き出されたものが当たったあたり―から黒い靄が海に溶ける。
そして今度こそその不気味な『何か』は、その体をぬめり、ぬめりと妖しく光らせながらどこかへ泳ぎ去る。
月は静かに海を照らす。いつもと同じように。
その透き通る光の中で何かが光った。
波の下、月光を反射する蒼き大槍はゆっくりと海流に乗って陸の方へと流されて行った。
夜、真夜中である。
当たり前だが、この光景を目撃したものは月の他には誰もいない。
勿論、ベットの上で惰眠を貪るリヴァと唐堂は知る由もない・・・・・。
4
プール開きの日から三日が立った放課後。帰り道である。
『帰り道』と言っても今僕らが自転車に乗って向かっているのは僕の家ではない。目的地は神崎家である。
神崎は『明日にでも登校できるかも』と大見えを切っていたが、あの後三日たった今日も学校には来なかった。それどころか昨日から神崎とは連絡がつかなくなってしまった。すなはち、クラスの人間のライン・メールは勿論、僕が神崎家の固定電話に電話をかけても、てんで反応がない。
そこでさすがにおかしいと思い始めたクラスの人間が、誰かに神崎の様子を見に行かせとうと言い出したのだ。
そして僕が抜擢される。まあ妥当な判断だろう、なぜなら僕は神崎の幼馴染だということが知られている。しかもたとえクラスの連中が言い出さなくても僕は神崎の見舞いに行くつもりだった。
そんなこんなで僕はチャリにまたがり、神崎家を目指しているのだった。
神崎家はシングルマザーの母親と神崎美月、そして神崎妹の三人家族だ。母親は毎日夜遅くまで働いているから、神崎家の炊事・洗濯その他家事全般は昔から神崎の担当だった。もし今、神崎が完全にダウンしているとしたら、最悪の場合、神崎家の家庭活動が完全にストップしている可能性がある。
そんなことを考えている時であった。
「やっぱりなんかおかしい」
リヴァが唐突に呟いた。リヴァは自転車で走る僕の顔の横を、珍しく自分で飛んでいる。僕は結構な速度で走っているつもりだが、リヴァは全く問題なくついてくる。
「ああ。あの神崎が学校をこんなに休むなんて。しかも連絡が取れないって、あいつ一体・・・?」
僕が走りながらそう答えると、リヴァは一瞬キョトンと表情をしてから、
「そっちじゃないよ。・・・・ああ勿論、カンザキのことも心配だけど」
どうやらリヴァが言っているのは神崎のことではないらしい。
「僕が気にしてるのは何かの気配だよ。何か、人間ならざる者の気配。それが数日前からかすかに感じられるんだよ」
リヴァが不快そうに眉を顰めながらそういう。が、例によってリヴァの説明はどうも中途半端だ。
「つまりどういうことだ」
もう何度この質問をしてきたことか。
「つまり・・・・弱い妖、もしくは弱体化した龍のような気配がこの町のどこかからするんだよ」
「それはお前みたいなのってことか」
「いや違う。龍護を持つ龍にはそれ特有の気配がある。これは傷ついた龍と言うのがふさわしい気配なような気がするよ」
リヴァはため息をつく。
「まあ今すぐ脅威になるようなことはないと思うんだけどね。なんか髭がチリチリして落ち着かないんだよ」
「とりあえず危険ではないのか?」
「全く問題ないね」
リヴァは即答する。危険じゃないなら今のところはほっといてもいいだろう。僕の頭はそれよりも神崎のことが心配で仕方なかった。
「着いた」
「ここがカンザキの家?」
ちょうどリヴァと話し終わったタイミングで僕らは神崎家に到着した。
神崎家は普通のアパートだ。一階の端が神崎家。
僕はとりあえずインターホンを押す。
ピンポーン
ドアの向こうでは確かに呼び出し音がする。しかし、
「・・・・・・・・・・」
全くドアの向こうに反応が感じられない。
ピンポーン
ピンポーン
・・・・・・・・だめだ。
「カンザキ出ないね」
「ああ。・・・・・・・どうすっかなあ」
ダメもとでドアノブに手を伸ばすが、しっかり施錠されているらしくびくともしない。
さて・・・・困った。神崎の様子を見に来たのはいいが、そもそも家に入れないとは流石に考えてはいなかった。なぜならふつう放課後この時間なら神崎妹がとっくに帰宅しているはずだからである(ちなみに神崎妹は小学六年生である)。
クラスの連中に『唐堂なら』と言われてはいるが、世間でいうところの幼馴染である僕であっても神崎家の鍵は所有していない。
その時、リヴァが信じられないようなことを言った。
「トードー、このドア開ければいいんだよね?」
「・・・・・そうだけど」
「僕できるよ」
「本当か!」
リヴァはドアの正面に浮遊すると何かを唱え始める。もしや・・・
「待てリヴァ!一応言っておくがドアはまた閉められるように開けろよ!件の刀で穴開けて『ほら開いたよ』とかいうのはナシだからな!」
僕が焦るのは当然である。なにせリヴァが唱え始めると同時に、もう嫌と言うほど見慣れたリヴァの水の刀の様なものが一本リヴァの右に生成されたのだから。僕には今にもリヴァがドアを八つ裂きにしそうに見えたが
「わかってるよ!さすがにそんなことはしないって!」
リヴァはさも心外そうに眉を顰める。
しかしリヴァの横には、短刀の様なものが形作られる。しかしよく見ればそれは短刀と言うには、明らかに短い。小さい人差し指程の長さの棒のようなものだった。
リヴァがそれを操作して鍵穴の中に差し込むと・・・・・
ガシャ
ドアが開いた。
「お前これどうやったんだ!」
「これだよ」
リヴァが鍵穴から抜いた棒を今度は僕の目の前に持ってくる。驚くべきことにさっきまでただの棒にしか見えなかったそれの先は、鍵穴から引き抜かれた今、まさに鍵のように出っ張りや切込みが入っていた。
「この棒は、僕の刀や、トードーに貸した凍気と同じように水でできてるんだよ」
リヴァが得意満面で説明する。
「水の本質はその自由さにある。僕はそれを利用したんだよ。具体的には棒の形で液体の水を鍵穴に流し込んで、鍵穴が水で満たされたタイミングで僕の権能で水を固めたんだよ。そうすると当然水は鍵穴の形の通りに固まる、それがこれなんだよ」
僕は棒、いやリヴァの即席の鍵を見る。言われてみればそれはリヴァの刀と同じ蒼い色をしていた。
「お前の権能って意外に便利だな」
「感心した?まあ、これでももともと神龍に数えられてたからね」
リヴァは首を反らす。僕にはリヴァが顎を天に向けて喉を無防備にさらしているようにしか見えないが、そうやら『胸を張っている』ようだ。
「しかし、じゃあこれで」
僕はドアノブに手を伸ばす。今度はすんなりと回りドアが開く。開いたドアから神崎家を覗き込む。第一印象は暗いということだ。電気はついていない上にカーテンも閉まってるのだろうか、ドアの向こうからは『光』と言うものが欠片も感じられない。
「神崎いるかー?大丈夫か?入らせてもらうぞー」
僕は家の中から反応がないことを確認してから、神崎家に上がり込む。
「お邪魔しまーす」
僕は急に心配になる。
神崎の身ももちろん心配ではあるがそれ以上に、
・・・・・母親と姉妹、すなわち女性しかいない家に男子高校生が上がり込む。鍵は・・・勝手に開けた。住人の許可は・・・・・・取ってない。
僕は全くそんな気はないが、もしこの一連の光景を、何も知らない第三者が目撃したら、その眼に僕はどのように映るだろうか?おそらく『変質者以外の何者でもない』と思われることが僕の脳内で容易に想像できた。一度そういうことを思ってしまうと僕はどうしても腰が引けてしまう。
そんなこんなで僕が神崎家玄関先で臆病風に吹かれてオドオドしている(今から思えばその行動自体が僕の変態性を強調しかねない)と、
「なんか・・・・変」
リヴァが言う。もう聞きなれたセリフだ。
「それはまた帰ってから突き詰めるから、とりあえず今は神崎の・・・・」
「違う!そういうことじゃない!」
『神崎の様子を確認しよう』僕はそう言おうと思ったが言い終わる前にリヴァが珍しく固い声で叫ぶ。僕は驚いてまだ玄関先にいるリヴァを見る。リヴァの表情が硬い、体もどうらや緊張しているように感じられる。
「おいリヴァどうしたんだ?」
僕はただでさえ抱えていた不安がムクムクと膨れ上がる。何か大変なことでも起こっているのだろうか?
結論から言うとまさに『大変なこと』が発生していた。リヴァが嫌悪感を滲ませて言い放つ。
「僕が感じていた『人ならざる者』の気配が感じられる」
「なにをいまさら」
膨れ上がった不安が僕の心を圧迫する。僕は強烈な嫌な予感を感じながらもリヴァにそう言わずには居られなかった。
しかし僕の『嫌な予感』は最悪の形で現実化する。
「トードー、この家から・・・・カンザキの家から気配がするんだよ。この家には『何か』いる。とっても嫌な感じがする!」
リヴァが緊張した声でそう叫んだ。
僕はもう一度家の奥を伺う。相変わらず真っ暗で何の動きも感じられない。
しかしその沈黙が今の僕にはたまらなく不気味に感じられた。
5
僕とリヴァはゆっくりと廊下を進む。
僕の手は、まだ抜いてはいないものの、凍気をいつでも構えられるように首から下げたペンダントを固く握りしめている。リヴァも不測の事態に備えてだろうか僕の少し前で、その長い体を緊張させているのが伝わってくる。
リヴァの周りには蒼い珠の様なものが冷たく鋭い光放っている。真っ暗な神崎家を進むには灯りが必要不可欠だが、明り取りの窓の様なものは廊下にはないし、その上なぜか電灯のスイッチを押しても灯りは点かなかった。それでリヴァが灯りをすぐさま作ってくれたのだ。珠の蒼い光は神崎家の暗闇を切り裂いて、あたりを静々と照らしている。
神崎家の間取りは、まず扉の向こうに廊下、そして廊下の右手には襖とドアがひとつづつついている。前者は神崎家母の部屋である和室、後者は神崎姉妹の部屋である洋室への入り口だ。廊下左手にも二つのドアがあり、一つはトイレ、もう一つは洗面所と浴室への入り口となっている。そして廊下の突き当りにもドア。リビングへの入り口だ。
僕らはとりあえず一番近い和室の襖を前にして、
「すみませんどなたかいらっしゃいますか!」
中に呼びかけるがやはり反応がない。
そこで僕は襖に手をかけ、リヴァと目を合わせる。そして同時に一度うなずく。『開けよう』僕らの意見は一致している。
バッと襖を一思いに勢い良く開ける。
そこは机や鏡・化粧台・ベットなどがある部屋だ。僕の記憶に間違いがなければ、そしてもう数年来ていない神崎家の部屋割りが変わっていないなら、ここは神崎母の部屋のはずだ。
「ここじゃない」
リヴァの声は緊張してかいつもより大分小さい。
「次に行こう」
僕も短く答える。
僕はと言えば、自分でも意外なことにあまり精神的な意味での緊張はない。しかし神崎言うところの『チキン』である僕は、勿論肝が太いというわけはない。おそらく普段の僕ならそれこそ歩けなくなるぐらい緊張するはずだ。しかし今、僕の心は神崎への心配が立って、緊張する隙間など微塵もなかった。
次の部屋は予想通り神崎姉妹の部屋であった。ベットと学習机が二つ。最低限の文房具や調度品があるが、さすが神崎と言うか、まったく女子高生の部屋と言う感じはしない。しかもこの分だと神崎妹も姉と大差ない性格のようだ。
トイレと風呂場も異常はない。
しかし残りの部屋が少なくなるにつれて僕らの顔も険しくなる。今まで確認した部屋には誰一人としていや何もいなかった、だとすれば・・・・。僕は最後に残った部屋、廊下の奥のリビングのドアを見る。
神崎家はまだ誰一人として姿が見えない。そしてリヴァはこの家には『何か』がいると言った。ならば答えは一つだろう。
僕らはリビングへ続くドアの前に立つ。
「・・・間違いない。ここだね」
リヴァが言う。『ここ』と言うのはおそらく『何か』がこの部屋にいる。と言うことだろう。僕には神崎がいると断定する手段はないが、なぜか僕もここに神崎がいるかのように感じていた。
そのとき僕は嗅ぎ馴れた、しかしこの場ではするはずのない匂いを感じた。ものすごく濃い潮の匂い。海沿いの町であるここなら多少の潮の匂いがするぐらいのことは普通だ。実際僕は毎朝登校時、潮の香りのする風の中を走っている。しかし・・・。
僕は鼻を抑える。そうムッとするなんてレベルではない。鼻がツンとするぐらいの強い潮の香りがリビングの中から漂っているのである。
「不自然な香りだね。濃い潮の香・・」
リヴァも同じ感想のようだ。しかしリヴァの言葉は続きがある。
「そして生臭い」
僕の鼻はあまりに濃度の濃い潮の香で使い物にならないが、リヴァにはわかるらしい。
「行こう」
僕はそういうと鼻からゆっくりと手を離す。鼻がツンとして涙が出てくるが死ぬ訳ではない。僕は離した手でペンダントをつかみ、そして抜く。次の瞬間僕の手には凍気が握られている。そのヒンヤリとした柄に触れていると頭が軽くなる気がする。神崎がいるかもしれないとは言え、この部屋にリヴァにも得体のしれない『何か』がいるのなら、剣を構えておくのが無難だろう。
そして凍気を持っていないもう一方の手で扉を掴む。
リヴァが僕の隣に飛んでくる。長い体を緊張させて何があっても対応できる構えだ。しかも灯りに加えて、一本の短刀の様なものを作り出して、体の横に浮かべている。
僕らは一度目を合わせると、
バン!
僕は全力でドアを開けて、凍気を正眼に構える。リヴァも短刀の刃をドアの先に向ける。
最初に蒼い光の中に見えたのは、ヌラヌラと怪しく光を反射する床だった。何かが床の上にべっとりと付着している。
僕らはそのままドアの前で身構えるが、数秒しても何も起こらない。
「急に襲ってくることはないみたいだね」
リヴァはそう言いつつも短刀を浮かべたまま、ドアの開いたところに降下して、怪しく光る床を見つめる。
「これは・・・油だね」
リヴァが苦々しげに口を開いてそう言う。
「油?なんでこんな床一面に?」
僕は当然頭に浮かんだ疑問を口にする。しかし僕も周りに気を張ったままだ。
「・・・・・調理用の油を間違えてぶちまけちゃったんなら問題ないんだけどね」
リヴァの口ぶりはなんだか思わせぶりだ。
「リヴァなんか心当たりがあるなら教えてくれよ。これはどういうことなんだ?」
シヴァは一瞬思案してから口を開く。
「たぶんこの家にいる『何か』は油に関する妖みたいだね。この油は食用油なんかじゃなくて、妖の分泌物の類に見える」
『妖』と聞いて僕はとっさには声が出なかったが、すぐに言葉があふれ出す。
「なんで神崎が妖に襲われるんだ!神崎は狙われるようなことはしてないだろうし、それ以前に危険な妖はもうこの町にはいないんじゃのか?」
「まあ落ち着いて」
リヴァが一気にまくし立てた僕を窘める。もちろんその間も僕とリヴァの目はリビングの奥にまだ残っている闇を注視している。
「僕もよくわからないよ。僕は力の弱い妖であっても百メートルも近づけばその存在を認知できる。でも僕は神崎家の扉をくぐるまで、この家の異変には気付かなかった。こんなことはそうないことだよ」
「じゃあこの家で何が起こってるか皆目見当がつかないのか?」
リヴァは僕の質問にすぐには答えない。しかし
「・・・・全く見当がつかないわけではないよ」
「じゃあ教えろよ!」
僕は緊張と心配とで大分気が立っている。しかしリヴァは教えてはくれなかった。しかし
「見るのが一番確実だよ」
リヴァはそう言うやいなや、瞬く間にもう三つほど光球を作り出しリビングの奥へ送る。
リビングが隅々まで蒼い光に満たされる。
そしてそこには三人の体が横たわっていた。
5
「神崎!」
リビングに倒れる三人の内の一人は、見間違えるはずもない神崎美月その人だった。おそらくあとの二人は神崎妹と神崎母だろう。
僕は今や蒼い光で隅々まで余すところなく照らし出されたリビングを見る。リヴァの言う『何か』は見当たらない。
僕はそれを確認するとゆっくりと部屋に足を踏み入れる。
油でヌラヌラと光る床に足を下す。
ヌチャ。足の裏からなめくじの様なものを踏みつけたかのごとき感触が伝わってくる。不愉快なことこの上ないが、今の僕にはそれを躊躇するような余裕はない。リヴァもゆっくりと僕の後ろに続く。僕はリヴァのように浮けたらどんなに良いだろうと思いながらも、一歩また一歩と神崎に近づく。
三人はほぼ横並びに倒れていた。僕は迷わず神崎に近づき、その体に手をかけるが・・
ヌチャ。床と同じような不快な感触に僕は神崎に触れた手をとっさに引っ込める。よく見ると床に倒れている三人も油でヌルヌルだ。僕はもう一度神崎に手を伸ばす。
「おい神崎!大丈夫か?どうしたんだ?」
僕は神崎の肩をゆする。リヴァは隣で倒れている神崎妹をまじまじと観察している。
「ねえ唐堂コレ」
そのリヴァが神崎妹の手のひらを示す。そこにはまるで鋭い刃物に触れたかのような細かい無数の傷が刻まれていた。よく見ると手の平ほどではないが足や二の腕にも同じような傷が見受けられる。
「こっちもだよ」
リヴァが今度は神崎母を指し示す。リヴァの言う通り神崎母の全身にも同様の細かい無数の傷がある。
そこで僕は違和感を覚えた。
神崎美月はどうか?僕はゆっくりと神崎を確認する。しかし、神崎には全く傷がない。見慣れた醤油卵のような肌が見える。どうして神崎家の中で神崎だけ無事なのだろう。
神崎はなぜか妖を見ることができる。
神崎は体の不調で学校を欠席している。
神崎家には人ではない『何か』がいるはずだが、すべての部屋を巡った僕らはまだその姿をとらえてはいない。
神崎家の母・妹が負った無数の傷を神崎は負ってはいない。
僕の中でパズルのピースがどんどん嵌っていき、一つの絵を描き出す。その絵は僕が想像したくもない恐ろしい光景を僕に見せつける。
「まさかそんなことはないよな・・・」
僕は無意識の内に声を出し、自分の頭の中に浮かんだ最悪のシナリオを頭から追い出す。実際そのシナリオは僕の想像でしかないが、確かに筋は通っていた。
そのときリヴァが突然短刀を一閃する。
バサッ。神崎家の窓を覆っていたカーテンが音を立てて落ちる。しかしまだ外は見えない。なぜなら、
「これは何だ?」
僕は疑問を口にする。神崎家の窓には黒い液体の様なものがベットリと付着していて外からの光を完全にシャットアウトしていた。
「これも油だね、たぶん」
リヴァが答える。そして瞬く間に一振りの水の太刀を生成し、一閃する。が、カーンとすんだ音を立てて剣がはじき返された。僕はその光景に面食らってしまった。どうやら無意識の内にリヴァの生成する道具に切れないものは無いと勝手に思い込んでいたようだ。
リヴァはギリリと歯噛みすると困惑顔の僕に、
「僕の生成物はことごとく水の形を権能で変化させたものなんだよ。そうするとこの世で僕の知る限り唯一油に対してだけは相性が悪いんだよ」
水と油。確かに両者は互いに相反する存在だろう。水が油に弾かれるのもうなずける。
「でもこのぐらいなら」
僕が眼を離した一瞬のうちにリヴァは僕の背丈ほどはあろうかと言う大剣を生み出していた。そしてセイッという掛け声とともに勢いよく横なぎに薙ぎ払った。
カーンまたもや澄んだ音が響く。さっきよりも大きく高い音だ。今度は油の膜を切ることに成功したらしい(『切った』と言うよりかは力任せに消し飛ばしたと言ったほうがいくらか正しいかもしれない)。窓からは外の景色がのぞいていて、沈みゆく太陽の茜色の光が部屋に差し込む。
リヴァは大剣を消すと、大役を終えた会社員のごとく一息をつく。
僕は外を見る。神崎家の窓からはかろうじて海が見える。『見える』と言っても累々と続く住宅の隙間からほんの少し海と地平線が見える程度だが。
そして今、偶然にもほんの少し見える地平線のまさにその場所に、赤い太陽が沈まんとしていた。『秋の夕日は釣瓶落とし』と言うが、春である今日の夕日も、あれよあれよと言う間に地平線の向こう側に姿を消してしまった。
ほんの一瞬だけ部屋に差し込んでいた暖かい茜色の光が消えると、再び部屋はリヴァの作り出した光球の蒼く冷たい光で満たされる。
まさに日の光が消えたその瞬間だった。突然部屋の匂いが強くなる。今度は僕の鼻もはっきりと生臭さを嗅ぎ取る。しかしそれは一瞬だけだった。爆発的と言って差し支えないほど急に強くなった匂いは僕の鼻でかぎ取れる限界をやすやすと超えた。僕はたまらず鼻を抑えてうずくまる。あまりに強い匂いで鼻はまるで殴られたかの如くジンジンと痛み、頭もくらくらする。リヴァも浮かんだまま苦しそうに身をよじる。
僕は鼻を抑えたまま、同じく匂いが原因だろう、沁みて涙が出る眼を上げる。そしてとりあえず左手で鼻を抑えたまま、神崎の傍らに置いた凍気を右手で握る。
何かが起こったのはわかったが、僕らはまだ現状を把握しきれていない。そんな中僕の目は、部屋の中の動きを映し出す。
神崎の目がユックリと開く。しかしその眼を見た僕はギョッとする。涙でかすんだ視界でもはっきりとわかる。普段はキラキラとその活発な性格を示すように輝く神崎の目が、今はしかし、虚ろで何の像も映してはいないようだった。
神崎はゆっくりとした動作で状態を起こし、音もなく立ち上がる。
そのとき、茫然とする僕とは対照的に最初のショックからいち早く立ち直ったリヴァが、信じられないことに、さっき生成した太刀を迷うことなく神崎の肩に振り下ろす。
僕はリヴァの行動が理解できなかったが、神崎が今殺されようとしているのを理解して右手に持った凍気で神崎に迫る太刀を跳ね上げんとする。しかし僕が反応をした時には太刀はもう止められる場所にはなく神崎に当たる。僕は怒りと驚きで一瞬目の前が真っ白になる。
しかしその心配は全く的外れだった。事態はもっと悪い状態にあった。
カーン。さっき聞いたような高い音をたてて、神崎の肩は太刀をはじき返す。僕は信じられない光景を見てあんぐりと口を開ける。はじき返された太刀も十分信じられないが、僕の目は神崎の肩に注がれていた。
太刀で切り裂かれた服から覗く神崎の肩には傷一つない。しかし、その肩には黒く鋭い無数の鱗が生えていた。おそらく触れればその鱗はたやすく皮膚を切り裂き、『細かい無数の傷』を負わせるだろう。しかもその鱗からジワリと液体が染み出し床に垂れる。確認しなくてもわかる。油だ。
今、神崎には鋭い鱗が生えてきていた。同時に全身から油が染み出し、床に広がる。
さっき追い出した最悪のシナリオが僕の頭に舞い戻ってくる。
神崎は虚ろな目で僕とリヴァを交互に見ると、口の端をニッ持ち上げる。それがいわゆる『笑顔』だと気づくのに時間がかかったのも無理ないことであろう。
神崎は今や、その全身に黒く鋭い鱗をはやした異形の姿でゾッとするような笑みを浮かべて僕らを見る。
リヴァの言う『何か』がついに正体を現した。
後編に続く
『妖』と言う存在。日本の妖怪、西洋のゴースト。
この世界には多種多様な怪物の話があります。その多くは、土地の特徴や、民族の性格を反映し、話を読むだけで胸が躍ります。
この世に数多ある怪異譚。これだけあれば一つぐらいは真実でもいいじゃないか、という希望を込めての中編。
物語は終章である後編へと続きます。新たな妖の出現。新たな龍の出現。
物語の終わりへと加速していくつもりですので、よろしければこのまま後編にお進み下さい。




