06 - 帰結
肌を柔らかく刺すような薄ら寒い空気の中、ブカは穏やかな寝息を立てているチマをユリアの家の壁に寄りかからせた。寄り添わせるようにテディベアを置くとチマの寝顔がほんの少し弛んだように見えて、ユリアはふっと柔らかい笑みを零した。ブカの説明によると搾取モードが終わるとチマの身体は極度の疲労に襲われるらしく、暫くは目を覚まさないだろうということだった。チマの頬にしがみつく髪をそっと指で払いながら、ブカはチマを気遣ってか小さな声で囁いた。
「………聞かないんですか?」
「…なんて聞けばいいかを考えてたとこ」
ユリアの素直な言葉に小さく笑みを零すと、ブカはもう一度チマの頬に触れ、それから静かに語り始めた。
「七年前、僕が不老不死の術を完成させた時…僕はある小さな村にたまたま滞在していました。そこで僕は不老不死の術を発動させたんです。僕もあの日、あの光と闇を垣間見ました。しかし僕は術の途中で意識を失った。理由は―――正直、わかりません。何故気を失ったのか、いや、何故気を失う程度で済んだのか…本当は術の失敗によって僕は死ぬべきだったのかもしれません。しかし術は成功してしまった。最悪の形で」
遠い遠い過去を見つめるように、ブカは深いほど遠い瞳をしていた。
「気が付くと自分の周りの光景が激変していました。村中の家屋は跡形もなく崩れ去り、あらゆる草木が朽ちていた。のどかで穏やかだった村の面影はどこにもなかった。そして―――その死の世界の中心に…チマが、立っていたんです」
「…生き残ったのは、チマちゃんだけだった?」
「いえ、その表現は適切ではありません」
ブカは眠るチマの顔を窺うように見つめ、その白い頬にそっと手のひらを添えた。
「…チマだけが生き残ったんじゃない。あえてチマ以外だけが生命を吸い取られたんです。チマの身体を不老不死にするためのエネルギー源として」
「…っ!!それ、は…つまり…」
「チマの不老不死の源は幼いチマにとっての世界の全てだった人々の生命なんです。チマは生まれてからずっと共に在った生命を全て吸収し、不老不死となった。そして…チマはそれまでの記憶を全て失いました。精神の後退も見られた。チマが少し言葉足らずなのはそのせいです」
ユリアはあまりの衝撃に何も言えずその場に立ち尽くした。ブカから視線を移し、壁に力無くもたれかかり穏やかな寝息を立てているチマに悲痛な瞳を向ける。そのあどけない表情の中には痛すぎる真実が潜んでいるのだと考えると、直接握り締められたように心臓がぎゅっと痛んだ。
―――神様…あなたはなんて、残酷なことを…!
「僕はあの日チマから…故郷を、家族を、記憶を…世界の全てを奪ったんです。そして、人としての時を生きる権利すらも…」
「それで、チマちゃんを元の身体に戻そうと、旅を…?」
ゆっくりと、間を含めるようにブカは頷いた。そのまま顔を俯かせているブカの表情が自嘲気味に歪んだことにユリアは気付いてしまった。見てはいけないものを見てしまったような気がして、ユリアはブカに気付かれないように瞼を伏せた。
「記憶を失くしたチマが初めて僕を呼んだ時、言葉足らずなあの子は僕を『ブカ』と呼びました。本当に可愛らしい笑顔でした…ははっ、思わず死にたくなるほどに、ね。それから僕は『Booker』 の名を捨て、『ブカ』としてこの子の為だけに生きようと決めたんです。………僕は愚かだった。自分の好奇心を満たすことしか考えていなかった。知識だけを追い求め、人間としての大切なものを軽んじ過ぎていた。何が『Booker』だ。僕は…本当は何も…わかっていなかった…」
一気に言葉を吐き出したブカの声は微かに震えていた。罪の重さに耐えているのだろうか。焼けつくような十字架の痛みに耐えているのだろうか。ユリアがわかりかねていると、ブカはチマから視線を外し傍らに立つユリアを見上げた。
「…貴女にはご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ない」
「なっ何言ってるの!ブカさんがいなかったら私、きっともっとひどい目にあってたわ!」
「しかし貴女が命懸けで護っていたものを…壊してしまいました」
「………それは、いいのよ。私は私の意志でそうしたんだから」
「…すみませんでした」
「謝らないでってば!」
そこでユリアは漸く父のことを思い出した。スミスが消えてしまったとはいえ、今後も同じようなことが起こることは間違いないだろう。不老不死には人を狂わせる魔力がある。次に何か起こった時…その時はもう秘密を護り通せる自信がない。ユリアの不安が滲む顔を見つめながら、ブカは優しく微笑んだ。
「貴女は…お父様の名誉を護りたかったんですね」
その言葉にユリアは一瞬動きを止め、それから唇を噛みしめて俯いた。何かいけないことを言ったのかとブカが不安げにユリアを見つめていると、ユリアは蚊の鳴くような小さな呟きを落とした。
「…父さんは、私を捨てたのよ」
「え?」
ユリアは両手でスカートの裾を固く握り締め、心の内を全て喚き散らすように叫んだ。
「不老不死の研究は私と父さんとで、ずっと二人でやってきたの!別に不老不死になりたかったわけじゃないけど…私も勉強や調査は好きだったし…。なのに、なのに…父さんは術をひとりで、私に黙って行った!ひどいじゃない、あんまりじゃない!ずっとずっと二人でやってきたのに!最後の最後で私を切り捨てるなんて、そんなの…最低な裏切りだわ!」
苦しそうな顔で、しかし決して涙は零さずにユリアはそう叫ぶと、ブカから逃げるように顔を逸らした。勝手に叫んでおいて今更な感情かも知れない。けれど、自分よりもずっと重いものを背負っているこの人に見せてはいけないと思った。
しかしブカは特に同情の言葉を口にするでもなく、穏やかに囁いた。
「―――それでも、そう思っていても、護りたかったんでしょう?」
「………そんなの、わからない。わからないけど…そうしなくちゃいけない気がしたの。父さんを『蒸発』したことにして、重要な研究資料だけ隠した。ただ、それだけよ」
「 “幸せの子” 」
「………は?」
今の会話と何の関連性も見い出せない突然の台詞に思わず顔を上げてブカを見ると、ブカは初めて出会った時のような穏やかな笑みを浮かべ優しくユリアを見つめていた。
「貴女のお父様はガーリア地方の出身でしたね」
「え、えっと…うん。確かそうだったと思う…」
「…ガーリアの言葉で“ユリ”は“幸福”。“ア”は“子供”という意味なんです」
驚いたようにユリアは息を呑んだ。この国ではありふれた名前だと、ずっとそう思っていたのに―――
「貴女のお父様は貴女を捨てたんじゃない。恐らくジン=カーネスさんは術の危険度に気付いたんです。だから貴女をわざと街へ行かせた」
「…どうし、て…?」
「貴女を巻き込みたくなかった。貴女を護りたかったんですよ。『Booker』には言霊を重んじる習慣があります。彼は“幸せの子”と名付けた、大切なただひとりの娘を護ろうとしたんです」
一年前のあの日、家を出るユリアに父が掛けた言葉をユリアはぼんやりと思い出した。ユリア、今日はゆっくり遊んでおいで。夜遅くなっても今日は許すから。
「貴女のお父様は確かに『Booker』でした。しかし本当に大切なものを見失ってはいなかった。僕と違って、彼は知っていたんです。最も護らねばならないものは何なのかを。ジン=カーネスは最高の『Booker』であり…父親であったと、尊敬に値する素晴らしい人間だったと、僕はそう思います」
ブカの柔らかい言葉達が身体中に染みわたっていくようにユリアの心に柔らかな温もりが灯った。一年前のあの日から凍りついていた心が、静かに滑らかに溶けていく。その暖かくなった心から穏やかな感情が顔を覗かせ、それに伴ってユリアの脳裏にある疑問が浮かんだ。
「ブカさん…」
「はい?」
「…チマちゃんの名前には、どんな意味があるの?」
ブカは少し驚いたような顔をしたが、すぐに優しく微笑んでユリアの問いに答えた。
「…僕が生まれた国の言葉で、“人間”という意味です」
ブカの穏やかな声にユリアが切なげに目を細めていると、突然遠くから大声で自分を呼ぶ声が響いた。
「ユリアちゃーん!無事かー!?ユリアちゃーん!!」
息を切らせて駆け寄ってきたマスターと数人の村人達にユリアは不思議そうな顔を向ける。マスターは窓が壊された家を確認し、再びユリアへ顔を向けるとユリアの肩を痛いほど強く掴んだ。
「大丈夫かい?怪我は?痛いとこはあるかい?」
「マスター…?どうして、こんな朝早くに…」
「何言ってるんだ、あんな大きな音がしたらそりゃみんな飛び起きるよ!何事かって外に出たら今度は変な風が吹き荒れてくるし!やっと収まったと思ったら今度はユリアちゃんの家が壊れてるのが見えて!」
無事で良かったぁと安堵したように深い息を吐き出しているマスター。その周りで心配そうに家やユリアを見つめている人々。この村の人々はいつだってそうだ。痛いほどに優しすぎる。いつだってユリアを優しく護ってくれて、父を失くしたユリアを優しく包んでくれて―――
「…ごめ、なさ、い…」
「どうしたんだいユリアちゃん?一体何があったんだい?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ、な、さ…!」
ユリアはマスターの優しい声に乱暴に頭を振って応えた。マスターの服にしがみつき、一度大きく息を吐き出す。それからゆっくりと唇を開いた。
「………父さんは『蒸発』なんかしてないの」
「え?」
「父さんは、一年前のあの日…不老不死の術に失敗して………死んだ、の…」
マスターが息を呑む音が俯くユリアの耳に届いた。胸の痛みが更に強まり、ユリアはきつく瞼を閉じた。
「ごめんなさい、ごめんなさい…!でも私、どうしても言えなかった…父さんが術に失敗したなんて、誰にも言いたくなかった!父さんは素晴らしい研究者だったって、そう思われたままであってほしかった!だか、ら…」
(貴女は…お父様の名誉を護りたかったんですね)
「ごめんなさい…私みんなを騙してた。心配してくれるみんなをずっと騙してた。私は、自分勝手で、最低な…!」
「ユリアちゃん」
ユリアの言葉を遮った呼びかけに、ユリアは恐る恐る顔をあげた。しかしそこには予想に反して怒りも失望も存在せず、ただ哀しげな顔をしたマスターがじっとユリアを見つめていた。
「…辛かったね。ずっと苦しかったろう?今まで気付いてやれなくて、悪かったね」
「…っ!?何で…?どうしてマスターが謝るの?騙してたのは、嘘吐いてたのは私なのに!」
「うん、わかったよ。もうよくわかったから」
マスターの大きな手がそっとユリアの頭に乗せられた。そしてマスターは哀しげに、しかし優しげに。
「ユリアちゃんがそれほどジンさんのことが大好きだったってことは、よく、わかったから…」
だから泣かないで。頭を撫でるマスターの手はユリアの頭に直接流し込むようにそう囁いていた。その言葉は大きく目を見開いたユリアの心に、深く柔らかく溶けていった。
父さんは研究一筋の人だった。昔から父親らしいことなんか何もしてくれなかった。母さんが死んで、父さんは研究ばかりで、幼い頃から淋しい思いをしてきた。だから不老不死の術をひとりで行った父さんを恨んだ。最後の最後まで私をひとりにするなんて、あんまりだとそう思った。
だけど―――私が高熱を出した時、一晩中手を握ってくれていた。決して遠出はせず、いつも家にいてくれた。学校での行事には参加はしなくても、隠れるようにこっそりとだが必ず見に来てくれていた。母さんを恋しがって泣いていた時、黙ってずっと傍にいてくれた。父さんは…不器用だった。だけどとても暖かかった。
私は父さんの名誉を護りたかった?そうかもしれない。それも確かにあった。だけど、それだけじゃなかった。私の心にずっとあった想いは、それだけじゃなかったんだ。
他人の記憶の中だけでもいい。私は、父さんに、生きていて欲しかった―――
「うあ、あぁ…うあああぁぁ…!!」
心の奥底から熱い涙が溢れていく。頬をひたすら滴が伝う。父さんが死んだあの日流した涙とは違う。あの日の涙はただひたすらに冷たかった。こんな温かい涙を私はずっと忘れていた。あの日から私の心はずっと凍ったままだったのだから。
東の空から眩い光が零れ出す。闇を消し去る美しい夜明けが訪れた。そこから流れこむ風が遠くにある草原の香りをユリアの元へと運んだ。シロツメグサの甘い香りが空気を満たす。ユリアは大声で泣き続けながら、遠い日の記憶を思い出していた。ユリアが作ったシロツメグサの冠を嬉しそうに眺めて頭を撫でてくれた父の微笑みが瞼の裏に浮かび、ユリアの泣き声が更に強く大きくなっていった。
ユリアは泣きやんだ後に村中を探したが、もうブカとチマの姿はどこにもなかった。そしてユリアの部屋から研究ノートが消え、ユリアの働く喫茶店からはオレンジジュースが消えていた。ちゃっかりしているところはあの二人らしい、とユリアは自然と笑みを零した。
あの後スミスが闇に呑み込まれたあたりで偶然金色のペンダントを拾った。小さなロケットがついている、あの洗練された雰囲気からはかけ離れた古ぼけたペンダントだった。そういえばあの時スミスのスーツから何かが落ちていったのを見た気がするな、とユリアは何気なくロケットの蓋を開いた。古ぼけた写真の中から病弱そうな少女がこちらに柔らかく微笑みかけている。
(何か…焦らなければならない事情でも?)
あの夜ブカが言った意味深な台詞。あの台詞に何か関係があるかもしれないと思ったが、ユリアはそれ以上考えるのはやめてそっと蓋を閉じた。あんな男に同情など欠片も芽生えないが、理解はできるかもしれないと思った。あの男にも、もしかしたら護るべき何かがあったのかもしれない。
透き通った空を見上げながらユリアはブカを思った。彼は一体何者だったのだろう。穏やかな笑みでオレンジジュースを強請ったブカ。冷酷な口調でユリアを追い詰めたブカ。しかし力強い瞳でユリアを助けたブカ。『Booker』としてのブカ。『ブカ』としての、ブカ。彼の本質はどこにあったのだろう。あの彼の歩む先には、どんな未来が待っているのだろう。
ブカはこれからも旅を続けるのだろう。歳を取ることすら知らないチマを護りながら。ブカはチマが元の身体に戻るその日まで決して歩みを止めてはいけない。怪我で死ぬことも、老いて死ぬことも許されない。例えチマが許そうともブカが決して許さないのだ。それこそが、彼が自分自身に与えた罰なのだから。
穏やかな笑みの裏に涙を隠し、チマの為だけに生き続ける。そんな強く優しい、そして哀しい彼に敬意を表してこう呼ぼう。“不老不死のブカ”と。
こういう「不老不死」もありかなと思った次第です。
ここまでお付き合いくださり、有難う御座いました。
北荘柵弥




