04 - 暗転
例えるならばそれは人気の無い静かな小川のようだった。さらさらと、ゆらゆらと、柔らかく流れゆく過去の時の残骸。シロツメグサは屈託なく甘い香りを撒き散らしていて、それを両手で閉じ込めるように摘んでいき大きな白い冠を作った。とても上手に作れたことが本当に嬉しく、誇らしかったことを鮮明に覚えている。そして私の目の前ではあの人が笑って、薬品の火傷跡が残る大きな手のひらを、私の頭の上に―――
「―――んっ!んんっ!?」
「こんばんはユリアさん、お目覚めはいかがですか?」
ユリアの穏やかな夢を乱暴に引き裂いたのは口を塞ぐ生々しい程に冷たい大きな手だった。まだぼやけている思考を必死で覚醒させ、ユリアは状況を理解しようと周囲に視線を走らせる。手の主は昼間喫茶店で恐ろしい笑みを湛えていたスミスだった。そしてユリアが横たわるベッドの周りには黒服の男達が何人も立ち、見下すようにユリアに視線を注いでいた。
「んんっ!んーっ!!」
「申し訳ありません。私の趣味には反するのですが、少々手荒にやらせて頂きます」
「んぐっ!!」
言うが早いかスミスの拳がユリアの顔を思いきり殴りつけた。激しい衝撃と痛みにユリアの頭が揺らぎ、口内に鉄の味が広がっていく。ユリアは混乱していた。何が起こっているのかわからなかった。何が起きようとしているのか、わからなかった。
「さてユリアさん。昼間の話の続きといきましょうか」
スミスはユリアの口を抑えていた手を僅かに離し、そのままユリアの細い首をきつく押さえつけた。息苦しさにユリアの顔が歪み、目尻に涙が浮かぶ。しかしスミスはそんな痛々しい様子にも欠片の思いやりも見せず、そのままの体勢で凍ったような表情をユリアに向けた。
「貴女は何を隠しているのですか?」
「だっから、わた、し、は…何、も…ぐぅっ!!」
「私が求めているのはそんな陳腐な台詞ではありません」
スミスの鋭い爪がユリアの首に鈍く突き刺さる。その箇所から直接恐怖を注入されるように、ユリアの心が濁った黒に侵されていく。痛い、苦しい、怖い怖い怖い!!
「貴女のお父様はどこにいらっしゃるのですか?」
「知らな、い…!そんなの、私、は…がっ…は…!」
「貴女の言う『蒸発』の前後、この村に人の出入りは皆無。そこから導き出される答えはひとつです。ジン=カーネスはまだこの村に留まっている。そして貴女はそれを知っている。そうでしょう?」
「…ちが、う…違う違う、ち、が…!!」
「勝手ながらジン=カーネスの研究室を拝見させて頂きました。しかし肝心の研究ノートが出てこない。どこにあるのですか?貴女のお父様が持っていらっしゃる?」
「………っ!!」
返す言葉も見つからず、かといって抵抗する術も見つからず、ユリアは沈黙を選んだ。歯を食いしばりせめてもの抵抗として不自由にしか動かない顔を可能な限りスミスから逸らす。殴られてもいい。殺されたって構わない。だけど、それでも、何も言うものか。肉体に与えられる痛みよりもずっと辛い痛みをユリアは知っているのだ。そう、一年前のあの日からずっと。
しかしスミスの拳が再び振り下ろされることは無かった。いつまで経っても何も起こらない状況に微かな不安を覚え、ユリアは閉じていた瞳を僅かに開いた。そして次の瞬間、更に大きく見開いた。ユリアの緑の瞳に映ったものは、夜闇の中に溶け込みそうな小さな影。ユリアの恐怖が生んだ幻覚でなければそれは確かに注射器の形を成していた。それを握り締め、スミスはにやりと厭らしく笑った。
「何、を…!?」
「私は無駄な時間が嫌いなんですよ、ユリアさん。貴女には今すぐ全てを話して頂きたいのです」
「や、め…!!嫌…っ!!」
「ご安心を。これはとても良質な自白剤です。副作用はほとんど無し。死ぬこともまずありません。しかし効果は…まぁ説明の必要は無いでしょう。今から貴女自身が自ら体験するのですから。ねぇ?」
それまで石像のように沈黙していた黒服の男のひとりがユリアの右腕をベッドに縫い付けた。ユリアの抵抗を残酷に踏みつけるように容赦ない力で抑え込む。鋭い針の先端が右腕に薄く浮かぶ静脈の上に狙いを定めた。スミスの笑みまでもが注射針のように鋭く裂けていく様を、淡い月光が無機質に照らしている。その全てが視界を満たすと、ユリアの背筋を氷よりも冷たい刺激が貫いた。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!!私は話すわけにはいかない。こんな汚い男になどそれこそ絶対に話すわけにはいかない。私は決めたんだから。私はあの日誓ったんだ。父さんを護ると、命に代えても護ってみせると!!
心に溢れ返る決意が涙となって瞳から零れていく。今まさに注射針を刺そうとしている目の前の男よりも、そんな男にされるがままになっている無力な自分自身に腹が立った。少なくとも心では勝っていた。だが十七の女の肉体がそれに比例するかといえばそんなわけがなく、ユリアの細い腕にちくりと、冷酷なまでに淡々と尖った刺激が与えられた。同時に胸の内に溢れ返る絶望感。頬を滑り落ちる涙がやけに冷たかった。それが悔しくてユリアはきつく瞼を閉じた。
その瞬間突然寝室の扉が大きな音と共に乱暴に開かれた。ユリアの腕に注がれていたスミスの視線が瞬時に扉へと向けられる。同じように視線を流したユリアの瞳に映ったものは、今自分の周りにいる者達と同じ黒服の男性だった。部屋中の視線が自分に集まっているにも関わらず、その男性は微動だにせず言葉も発そうとしない。
「………何事ですか。貴方は外で待機するようにと伝え―――」
スミスの苛立ったような声はそこで途切れた。その台詞の対象となる黒服の男性が、壊れた人形のように無造作に膝をつくとそのまま床に倒れ伏したからだ。そしてその倒れた男性の後ろに佇んでいたのは、昨夜ユリアに恐怖を与え、今日ユリアに安堵を与えた白髪の旅人だった。
「………ブカ、さん…!?」
「ユリアさん」
ブカはその緊迫した雰囲気にはどうあがいても馴染みそうもない、柔らかな笑みを浮かべて優しく囁いた。
「もう大丈夫ですよ」
安心させるようなその微笑みはユリアの固く凍りついた身体と心を静かに溶かしてくれた。先程とは違う色の涙がユリアの瞳に溢れ出す。だがスミスはそんなユリアの首を更に強く締め付けることで自分の絶対的優位を主張した。
「これはこれは。御機嫌よう旅人さん。また私の邪魔をしに来たのですか?」
「…噂で聞いた貴方なら、こういうやり方もあり得るだろうと思っていましたが…随分急いでいるようですね。何か…焦らなければならない事情でも?」
どこか意味深なその台詞に昼間と同様スミスの眉がぴくりと上がる。しかしむしろスミスは愉快そうに唇の端を持ち上げ、見せつけるように乱暴にユリアの顔をブカへと向けた。
「状況はわかりますよね?『噂で聞いた』私なら貴方がこれ以上余計な事をするとユリアさんにどんなことをするか…それぐらい理解できるでしょう?旅人さん」
ユリアの背筋に再び冷たいものが伝う。しかし狂ったような笑みを浮かべるスミスとは対照的にブカは微笑みを消し、代わりにあの冷徹な表情を浮かべた。そしてゆっくりとその唇を開き、ただ一言呟いた。
「 “ カ ゼ ” 」
「は?…なっ!?うあ、あああああっ!!」
一瞬何が起こったのかユリアにはわからなかった。突然自分の首を押さえつける圧力が消えたと思ったら、次の瞬間にはスミスの姿まで消えていた。黒服の男達が何か叫びその声が徐々に遠ざかっていった。それに少し遅れて窓が思いきり叩き割られた様な音が鼓膜を貫き、そして部屋の中にはベッドに横たわる自分と静かに佇むブカだけになった。
身体の自由を得たユリアは弾け飛ぶようにベッドから飛び降り、窓枠が吹き飛び何も遮るものがなくなった窓だった場所から家の外を見渡した。闇の中で目を凝らすと、ところどころに人の形をした黒い影が月光の下で転がっているのがわかった。若干白い影もあった。それはスミスが着ていた白いスーツの色によく似ていた。
「な、に…これ…?ブカさん…これは…!?」
「ちょっとした魔術です。とりあえず外に出てもらいました」
「魔っ!?ちょっ…ブカさん!?」
あっさり話すブカに説明を請う視線を向けても無意味で、ブカは平然とした様子で窓から外へ出ていった。思考が固まり呆然としていたユリアだったが、はっと我に返りブカの後を追って同じく窓から外へと飛び出した。
「ブカさん!待って!」
歩みを止めようとしないブカの前に出ようと駆け足でブカの後を追っていたユリアを、ブカは黙ったまま左腕で制止した。促されるように足を止めるとユリアの耳に微かな呻き声が届いた。弾けるように声の方向へ顔を向けると、地面にうつ伏せに倒れていたスミスがゆっくりと自らの身体を持ち上げているところだった。
「…くっ…これは…まさ、か…!?」
「動かない方がいいですよ。今貴方は竜巻で吹き飛ばされたぐらいの衝撃を受けたはずですから」
「ぶ、ブカさん…どうすればそんなことできるの…!?」
「!?………『ブカ』…?」
まだ完全に身体を起こし切れていない状態で、スミスは顔だけを完全に持ち上げブカの顔をまじまじと見つめた。疑わしそうな視線で暫く瞳を揺らしていたが、その表情の上に徐々に皮肉そうな歪んだ笑みが浮かびあがった。
「…はっはははっ!!成程!白髪に高度な魔術…貴方も噂通りですよ。貴方、あの伝説の『Booker』ですね?」
「…え?ブ…何?」
「『Booker』―――それはただひたすらに知識を追い求める者。世界中の知恵と技術を我がものにせんとする者。そうですね、現代の賢者と言えばしっくりくるかもしれません。ユリアさん、この男は貴女のお父様と同じなんですよ」
「…同じ…?同じって、何が…?」
「…おや、ご存知なかったのですか。貴女のお父様も『Booker』だったのですよ?十数年前まではあらゆる知識を吸収した、『Booker』の中でも高い地位と名声を持つ人間でした」
「…父さん、が…?そんなっそんなの知らない…!」
「まぁそれも今ではただの昔話ですがね」
スミスはまだふらついている身体を無理やり持ち上げ、ふらふらとよろめきながら立ち上がった。そして口元だけは笑みを浮かべ、瞳は挑発的にブカを真っ直ぐ睨みつけた。
「確か伝説の『Booker』は数年前、不老不死の術に成功したそうですね?旅人さん?」
「えっ!?」
「しかしその後『Booker』は突然姿を消した。残念ながら証人もいない為にただの伝説のように語られていますが…先程の魔術を見た限りではなかなか信憑性がありますねぇ」
「じゃあ…じゃあブカさんは、もしかして…」
「この話が真実ならば彼は不老不死の身体を手にしたはずですが…どうなんですか?旅人さん」
スミスのメロディを紡ぐような声を最後に音の消えた夜闇を一陣の風が静かに切り裂いた。風は冷気だけを伴い、無意味な程に空間をただ流れていく。しかしブカは何も答えなかった。言葉を全て風に攫われてしまったかのように、何かを頑なに心に閉じ込めるように。
「…無言は肯定と受け取りますよ。貴方は不老不死の身体を手に入れた。しかし何故その貴方がこの村に来たのですか?今更貴方には不老不死の術など必要の無い知識でしょう?」
「…僕は不老不死になる方法を求めにこの村に来たのではありません」
「ほう、では何故?」
「…ブカ、さん…」
不安げに見上げるユリアにブカは一瞬、ひどく哀しい瞳を向けた。しかしすぐにそれを冷酷な表情で覆い隠すと、ブカはどこか遠い場所を見つめるように穏やかに、しかし力強い声で応えた。
「僕が求めているのは、『不老不死になった身体を元に戻す方法』です」
囁きの様な、ほんの微かな声だった。だがしかしその言葉はユリアの心を蹂躙するように激しく揺さぶった。
「…どうして…?どうしてそんなものを?せっかく術に成功したのに…?」
「ふん、くだらない」
スミスは忌々しいと言わんばかりに顔を歪め、吐き捨てるように言葉を吐いた。
「つまり貴方は怖気づいたわけですね?不老不死の身体を手に入れることに成功しながら、いざなってみたら急に怖くなった。馬鹿馬鹿しい、だったら最初から術を使わなければ良かったんですよ。覚悟もできていない愚か者が強大な力を手にしようとするからくだらない後悔をする羽目になるんです」
まるで劇中の役者の様にスミスは大きく両腕を広げ、自分自身に酔いしれる様に狂気じみた笑みを浮かべた。
「不老不死。素晴らしいじゃないですか。この世の絶対の恐怖である『死』を免れる、特別な人間にだけ与えられる特権です。何を恐れることがあるのです?せっかく手に入れた特権を自ら放棄するのですか?『Booker』として永遠に生き続け、永遠に知識を吸収し続けることができるというのに?」
「…貴方にはわからないでしょう。時を失った者の苦しみなど、貴方には永遠にわからない」
「そんなものわかりたくもありませんね。私は貴方とは違う。私は永遠を手に入れる!」
二人の静かな、しかし切り刻むような応酬に、ユリアは思考が追い付かなかった。ブカの哀しげな表情がただ胸に刺さった。だがユリアはどこか違和感を感じていた。確かにブカは哀しみを纏っている。しかしそれはスミスの思っている意味とは少し違うもののような気がした。哀しみと、苦しみと、それから―――何?
「…不愉快なお喋りはここまでです、スミスさん」
ブカは音もなく右腕を持ち上げ右手をスミスへと向けた。スミスは悔しそうに再び眉を寄せる。この状況で自分には成す術がないと理解し、しかしそれを素直に受け止めることができないような憎しみすらこもった表情で。
しかしブカがまさに唇を開こうとした瞬間。
「ブカッ!!」
全員が一斉に声の方向へと顔を向けた。そこには近くの茂みから駆け足で近付いてくる幼い少女の姿が暗闇の中に浮かんでいた。それを視界におさめた瞬間、スミスの表情が再び鋭い笑みを纏った。
「!チマっ!!だめだ!来るなっ!!」
その切迫した声にチマは素直に足を止めた。がしかし既に遅く、スミスの左腕がチマの小さな身体を軽々と抱えあげ右腕は鈍く輝く銃をチマの頭に押し付けた。スミスの狂ったような笑みが水が浸食するように滑らかに凶悪な色へと染まっていく。再び優位を手にしたことに対する狂喜と血に飢える残虐な心を剥き出しにしたような声でスミスは高らかに叫んだ。
「ははははっ!!どうです『Booker』!この子供の頭から血が噴き出るところが見たいですか!?ひははははっ!!」
ブカは微動だにしない。いや、できないのだろう。指先ひとつの動きでチマの命が吹き飛ばされる可能性があるのだから。チマは状況をうまく飲み込めていないようで、恐怖というよりも困惑したような不安げな表情でブカを見つめている。あぁ、だけど、理解しようとしまいと、チマの命がユリアを平然と痛めつけるような、人命など何の躊躇いもなく踏み潰せるような男の手中にあることに変わりないのだ。
どうしよう、どうしよう。私はどうすればいい?全てを話す?そうすればチマちゃんは無事に解放される?でも、だけど…ここで話してしまったらこの一年の全てが無駄になる。何もかもが終わるのだ。そんなもの耐えられるわけがない。私はずっと必死に、命を懸けてここまでやってきたというのに、なのに―――!
「ユリア…?」
スミスの笑い声だけが響いていた不快な暗闇に、ぽつりとか細い声が落とされた。ユリアが呼びかけられた声に反射的に顔を上げると、そこには自分の頭に向けられた銃口になど目もくれず、ただじっとユリアを見つめている少女がいた。
「ユリア、イタイイタイ、ですか?泣かないで、です、お願い、です」
「チマ、ちゃん…」
苦く、重い何かで胸が溢れ返る。ユリアは思わずきつく瞳を閉じた。歯を食いしばる。同じぐらい強く、拳を握り締める。固い爪が手のひらに食い込んで鈍痛が走った。だがそんなものは些末過ぎることだった。そんなもの、この胸の痛みに比べれば、あまりにもくだらない程度だった。
確かに私は命を懸けてこの秘密を護り通すと誓った。だけど、それは。
(………無関係の人を、こんな小さな女の子を犠牲にしてまで護る秘密なんて、そんなの―――)
―――そんな秘密に一体どんな価値があるというのか!!
「やめて!!もうやめて!!全部話すから!!だからチマちゃんを離して!!」
「っ!!ユリア、さん…」
「ほぅ、漸くその気になってくださいましたか」
厭らしく舐めるようなスミスの視線よりも隣に立つブカの気遣う様な色をした視線の方が何故か何倍も心を抉った。今はどんな優しさも鋭い棘となって責め立てるように心に突き刺さっていく。父さんひとり護り抜けなかった愚かしい自分を、いっそ口汚く罵って欲しかった。
自虐と自責で涙すら零れない悲痛な表情を浮かべるユリアを見下ろしながら、スミスはゆったりと余裕を含む声でユリアを促した。
「さて、全てを話して頂きましょう。貴女のお父様はどこにいらっしゃるんですか?」
「………父さん、は…」
手が震える。言葉が震える。不安定にゆらゆらと、痛い程の哀しみを伴って。
―――父さん、ごめんなさい
「あの丘にいるわ」
持ち上げられたユリアの白い指が指し示す先には確かに丘が存在した。ほぼ同時にブカとスミスがその丘へと視線を移す。そしてスミスは困惑の、ブカは驚愕の表情を浮かべた。夜闇が見せる視覚の悪戯でなければ、二人の眼に映った影は大きな十字架の形をしていた。




