02 - 拒絶
明らかに空気の色が変わったのを見て取ったのか、ブカは視線をユリアとマスターの顔の間で行ったり来たりさせている。そして恐る恐るという風に再びユリアに声を掛けた。穏やかだった笑みは、少しだけ曇ってしまっていた。
「あ、の…?僕何か、まずいこと言いましたか…?」
「ましたかー?です」
固形化したような空気の中でもチマは変わらずにこやかに笑っている。その温かい笑顔のおかげか、ユリアの凍りついていた心臓が再び脈を打ち始めた。自らを落ち着かせる為にゆっくりと息を吸い、同じようにゆっくりと吐き出していく。よし、大丈夫。そう心の中で確認してから、ユリアは両の拳をきゅっと握り締め淡く色づく唇を開いた。
「………ジン=カーネスは、」
「ユリアちゃん!」
「…父さんは、もうここにはいないわ」
「へ?ユリアって…あなたがカーネスさんの娘さんですか?」
ぽかんという擬音が相応しいような間抜けな顔でブカが問う。しかしユリアはそれを振り切るように音を立て乱暴に椅子から立ち上がった。いつも慈しむように触れてきた木製のテーブルを、勢いに任せ乱暴に叩きつける。
「いないの。父さんはいない。もうどこにもいないの!!」
「ユリアちゃん!どこ行くんだい!?ユリアちゃん!!」
マスターの声にも答えずにユリアは駆け足で店から飛び出した。出入り口に備え付けられている金色のベルが淋しそうに乾いた音で一、二度鳴いたのを最後に、店の中に気まずい沈黙が下りる。ユリアを止めようと突き出した腕を所在無さげに揺らしてから、マスターは腹の底から絞り出すような深い溜息を吐いた。
「あぁ〜…旅人さん、まずいよぉ…」
「え?あ、あの…ユリアさん、どうされたんですか?」
「どうしたもこうしたもないよ。あの子にとってジンさんの名前は最悪のタブーなんだ」
マスターは俯いたままもう一度小さく溜息を吐く。事情を呑みこめずに首を傾げているブカと、その隣で同じように (恐らく真似をしているのだろう) 首を傾げるポーズを取って笑っているチマを眺めて、今度は天井を仰ぐように視線を持ち上げた。
それからマスターはユリアの飛び出していった出入り口へと視線をちらりと向け、誰もいないことを確認してからそれでも囁くように、注意深く声を発した。
「ジンさんはね、不老不死の術に成功した後…蒸発しちまったんだよ。ユリアちゃんを捨ててね」
あの男は何者だろう。
行くあてもなく店を飛び出してしまったユリアは、とりあえず足の気が向くままにゆっくり歩を進めていた。一歩踏み出す、脳裏に父の背中が浮かんだ。それを振り払うように早足に三歩進む、すると今度は父の無表情な顔が浮かんだ。ユリアは溜息を吐き、ふらふらと倒れこむように近くのベンチに腰を下ろした。
(あの人も不老不死になりたいのかな。だから…父さんの研究を知りたくて…?)
ぶるぶると頭を激しく左右に振り、行儀が悪いと知りつつも両足をベンチに乗せて膝にうずめるように額を寄せて俯いた。白い程の陽の光が遮られ、若干の暗闇が目前に迫る。その闇の中にいつの日か見た不規則に散らばる光の帯が浮かんだ。そしてあの時、こちらに差し出されたのは、あれは―――そこでユリアは無理やり思考を止めようと再び頭を激しく振るった。
「大丈夫、大丈夫…私は、大丈夫…」
自らに暗示を掛けるように短く小さく呟き続ける。今にも震え出しそうな自身の身体を押さえつけるように、両腕に思いきり力を込めた。
「大丈夫だよ父さん、私が絶対守ってみせるから」
喉を伝って吐き出された言葉は思ったよりも力強く、ユリアは漸く安心したような溜息を吐いた。
深夜。暗い闇が嬉しそうに空気を侵食している、太陽が沈黙した時間帯。突然響いた大きな音にユリアは文字通り飛び起きた。外から、ではなかった。確かにユリアが一人で暮らす家の中から響いたものだった。こんな小さな村でまさかとは思うが、念の為にユリアは手近に置いてあった階段降下用の木の棒を握りしめ、音の出所を探る為に忍び足で寝室から這い出した。
音は規模は小さくなったが、今だに小刻みに続いている。それに混じって声も聞こえる。声の主は…内容まではよく聞こえないが大人の男性のようだった。ユリアは近所に住む男性の顔を頭の中でリストアップしながら慎重に足を進め、音の出所がどうやら父の研究室からのようだと気付いた瞬間、稲妻が落ちたように身体を弾ませ薄暗い廊下を走りだした。重厚な雰囲気を醸し出す木の扉を飛びかかるように乱暴に開く。
「誰!?父さんの研究室に勝手、に………」
「あ、あはは…こんばんは、勝手ながらお邪魔させて頂いております」
「ます、ですー」
ブカが腰をほんの少し屈めて両腕を前に出すという不自然な体勢のまま、どうにもこの場にそぐわない気の抜けた丁寧な挨拶を返した。そしてその両腕からは、どうやら…チマのものらしい細い足が二本伸びている。本体は床を埋め尽くすように散らばっている本の中に埋まってしまっているようだ。
「すみませんお騒がせして。チマが本棚に乗ろうとして本の雪崩を起こしてしまって」
「ごめんなさい、です」
「………謝るとこ間違ってない?」
チマを引っこ抜くように持ち上げながら、ブカはやはり丁寧に更に冷静に状況説明をしている。それに合わせてチマが可愛らしい声を出す。やはり、だめだ。この異色の二人組はどうにも力を抜けさせる。ユリアは本日何度目になるかわからない深い溜息を吐いて片手で顔を覆った。
「チマ、言っただろう?『不法侵入をするときは』?」
「『くれぐれもお静かに』、です」
「正解。賢いなぁチマは」
「いたいけな子供に何吹き込んでんのよあんたは!!」
ユリアの的確なツッコミも何のその、愛が溢れんばかりの青年と幼女は穏やかに微笑み合っている。ユリアはもう一度深く溜息を吐き出すと、可能な限り怒りを込めたような声を出した。
「父さんの研究が知りたいのはわかるけど、だったら事前に私に許可を取るのが筋じゃないの?私も鬼じゃないんだから、ちゃんと頼まれればちゃんと見せたわよ。ったくもう…よりにもよってこんな夜中に勝手に…」
「―――何を、ですか?」
「?だからこの研究室、を…」
そこでユリアは思わず言葉を途切らせた。つい今しがたまで穏やかな色をしていたブカの両目が、貫かんばかりの鋭さを含んで静かにユリアを見下ろしている。二つの瞳は窓から射し込む月光と混じり合って、恐ろしい程の色を浮かべていた。
「………見当たりませんね」
「何、が…?」
「研究ノート」
どくん。ユリアの心臓が跳ね上がる。直接鞭を打ち込まれたような衝撃が体内を襲う。血が逆流しているかのように、不自然に身体の中がどろどろし始めた。それに気付いていないのか、それとも気付いているのに知らない振りをしているのか、ブカは何でもないような顔をして静かな、しかしどこか威圧感のある声で続けた。
「ここにある本のほとんどに走り書きがしてありました。そういう人は大抵、研究成果をノート等に記しておくものなんです。本をメモ代わりにする程の研究者が研究ノートを所持していないというのは、些か不自然です」
「そ、そういう人だって、いることもあるで、しょう…?」
「そうですね。ではこれは?」
ブカはすっと右腕を持ち上げ、チマが雪崩を起こした本棚の向かい側に聳え立つ本棚を指差した。綺麗に整頓されている本棚。しかし何故かところどころで本が欠け、いくつもの黒い隙間が生まれていた。
「隙間がありますね。まるである目的の本だけ抜き取ったような、不自然な隙間が」
「そ、それは…父さんが家を出る時に、持ち出した本の…」
「持ち出した?この本棚だけでも十冊分近い隙間がありますよ。全ての本棚を調べたら…いや、調べるまでもないでしょう。家を出ていく人にしては、邪魔になるだけの多すぎる荷物です」
「な、何が言いたいの!?」
まるで責めるような口調で淡々と詰問され、ついに耐えられなくなったユリアが悲鳴のように叫んだ。しかしブカは全く動じる様子も見せず、固く口を閉ざしたままじっと、ただじっとユリアを見下ろしている。まるでモルモットの兎を見るような無機質な瞳で。ユリアが口を開くまで、その心臓が破裂するまで追いつめる、とでも言いたげな冷酷な表情で。
「…わ、たし、は…」
魂を吸い取られていくような恐ろしい感覚に手足が勝手に震え始める。それに合わせて自らの意志とは関係無しに声帯が音を出す。私は、私は父さんの―――
恐怖に促されるように更に言葉を続けようとするユリアの身体に突然、とん、と僅かな衝撃が与えられた。反射的に衝撃を感じた自分の足に視線を落とすと、チマがユリアの足に絡みつき不安げに眉を寄せてユリアを見上げていた。
「ユリア、汗いっぱい、です。イタイイタイ、ですか?」
「チマ、ちゃん…」
「ブカ!いじめる、だめ!ユリア、イタイイタイ、です!」
叱るようにチマがブカを睨みあげると、ブカは軽く目を見開き暫く動きを止めた。それから無機質な瞳に徐々に色が戻り、ゆっくりとユリアが昼間喫茶店で見たものと同種の穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔を見た瞬間ユリアの身体から一斉に力が抜け、重力のままに床にへたり込んだ。
「…怯えさせてしまいましたね。すみませんでした」
「でした、です」
可愛らしく大袈裟に頭を下げるチマの横で、ブカは座り込むユリアの目線に合わせるように膝を折り曲げ爪先だけで身体を支える体勢を取った。しかし顔が近づいた瞬間ユリアの身体がびくりと震え、ブカはほんの少し、淋しそうに笑った。その笑みを見ても未だに先程の恐怖感から抜け切れていないユリアは、不安げに瞳を揺らしながら固く口を閉ざし、ブカを見つめ返した。
「本当に…すみませんでした。しかし僕にはどうしても貴女のお父様の研究データが必要なんです。何かご存知でしたらお願いします。僕にご協力願えませんか」
穏やかに、だけれども真剣に。ブカは真摯な瞳でユリアを真っ直ぐ見つめていた。その瞳の中にはどこか、追い詰められたような必死さが見え隠れしているような気がしたが、ユリアにはその正体がわからなかった。
身体の奥に残る勇気を絞り出すようにきつく拳を握り締める。そして、震えないように注意しながら漸くまともに言葉を発した。
「………帰って」
「…ユリアさん、僕は」
「帰って!今すぐ出てって!もう二度とここには来ないで!!」
激昂したように声を荒げたユリアにブカは哀しそうな視線を注ぐと、何も言わずにゆっくりと立ち上がった。突然のユリアの大声に驚いた様子で口を開いたままのチマを促すように、腕でそっと小さな身体を押した。ブカは鍵を外からこじ開けたらしく、しっかり施錠されていたはずの窓をいとも容易く開放すると、ブカはやはり何も言わないまま窓の外へ身体を移した。そしてチマの身体を持ち上げようとしたところでチマがくるりとユリアに振り返り、哀しげに眉を歪めてユリアを見つめた。
「ユリア、まだ、イタイイタイ、ですか?ぽろぽろ、落ちる、です」
途切れ途切れの短い言葉の羅列に、ユリアは暫く言葉の意味を図りかねた。ブカは一度だけ視線をユリアに向けたが、すぐに逸らし最後まで何も言わずにチマの身体をそっと抱きあげた。器用に音も立てず外から窓を閉じ、そのまま振り返ることもなく真っ直ぐ夜闇の中へと紛れていった。
抱きあげられているチマの哀しげな顔がどんどん小さくなっていって、やがて完全に闇と同化した頃になって漸く、ユリアは自分の頬を涙が伝っていることに気が付いた。
(まだ、イタイイタイ、ですか?)
「あぁ…そういう意味、だったんだ…」
誰もいなくなった薄暗い部屋で床に座り込んだまま、ユリアは項垂れるように床に両手をつき歯を食いしばった。薄く埃が浮かぶ床の上に、自らの手の上に、滴がぽたぽたと透明な湖を作り出す。客観的に自分の涙を認識した瞬間、タガが外れたように喉から引き攣った嗚咽が零れ出した。ひとつ、ふたつと、暗闇に溶ける嗚咽の数が増えていく。遠くで梟の鳴き声が闇に溶けながら不規則に響いている。ユリアから響く嗚咽と同じぐらい、淋しい声だった。
あの人は何者なんだろう。あの鋭い洞察力。そして穏やかな笑みの中に隠された、冷酷な仮面。あの暗い瞳はただの旅人にしては深すぎた。奈落の底に繋がっていると言われても信じられそうな、そんな恐ろしいあの瞳は、一体。
「………父さん…父、さん…ひっく、ひっ……父さ、ん…」
縋るように愛しい父を呼び続ける。返事などないとわかっているのに。その当たり前の事実がひどく痛くて、ユリアはきつく目を瞑った。そして吐き出すように、何度も何度も空白に問うてきた言葉を呟いた。
「…ねぇ父さん…どうしてあの時、私を…『捨てた』の…?」
いくら空白に問うても返ってくるのは、同じ空白とほんの少しの空虚だけ。




