第七話(最終話)
「決めたのか、此処に残るか、戻るのか」
「はい。もう向こうに未練は在りません。何一つ」
三途の川のほとりにある巨大な岩に腰を下ろし、天使はオオツキに質問を送る。
オオツキは暫くの間、自我との対面に時間を費やしていた。天使と平然と会話が可能な精神状態とは程遠く、彼は自らの殻に閉じこもっていた。
今現在、天使と平常心を保ちながら話してはいるが、数分前は頑なに口元の錠を外そうともしていなかった。
記憶が判明するまでの所用時間はほんの数分で済んだ。その数分間で、オオツキの表情は座礁した魚の様にぐったりとしたものに変わってしまっていた。
「お前、此処に残ったとしてどうする気だ。母親にでも会いに行くのか?」
「それも良いですね。トマスさんと同じ様に母を探して、また共に暮らすことを当分の目的にしましょうかね」
オオツキは笑っていた。欺瞞の入った渇いた笑みを浮かべながら、川の水面へと手に握った石を投げ付ける。
「僕を生涯支えてくれた存在はただ一人、母だけです。喜びも悲しみも分かち合ったただ一人の家族です。父が亡くなってから僕と母がどれだけの苦労を重ねたのか、貴方には分からないでしょう。共に味わったその痛みを」
「そりゃそうさ。俺はお前じゃないんだから、お前の痛みを知る方法なんか存在しない」
ほんのわずかにオオツキの身体が震える。
天使がオオツキの奮えに気付いた時、同時にオオツキの細い腕が天使の襟元を掴んだ。
そこはかとない怒りが骨張った指から滲み出ていた。
「なんのつもりだ、この腕は」
「………」
「俺は俺の思ったことを正直に言ったまでだ。お前が感情を奮い立たせる場面等何処にあったというんだ?」
オオツキの眼光はしかと天使を見据え、睨んでいる。まるで愛する人を殺した憎悪の対象と言わんばかりの瞳で。
天使はオオツキに一つの問いをぶつけた。
「お前………もしかしてよ。今の話全部、俺に同情を求める意味で言ってたりするわけ?」
オオツキの片腕が天使の頬をかすかに薙いだ。天使がオオツキの肩を突き放し、そのままオオツキの身体はバランスを崩してしまった。岩から転げ落ち、身体を地面に打ち付ける。その衝撃でオオツキは乱れた咳払いを抑えることが出来ず、情けない姿を晒す羽目となった。
「お前が俺の言葉でどう思ったかは分からん。だがお前が俺に対して奮ったこの拳はお前の感情だろう。何を思って俺を殴ろうとした?オオツキフミヒコ。答えろ。その理由を。納得出来る理由を」
咳込みに抗うオオツキを見下げながら、天使は尚も問いを続ける。オオツキは必死に天使を睨み続けていた。ただ、その口から天使に打ち当てるべき言葉は浮かんではこなかった。
「………答えられないか?というよりも、その目を見れば『答えたくない』と言った方が正しいか。
黙っていて済む程社会は甘くないことは知ってるだろ、てな位言ってやりたいところだがな」
そう言って天使は再びほとりの岩へと腰を下ろし、静かに水面に瞳を映す。
自分でも拳を向けた理由は、至極衝動的なものであった。
この拳で天使を殴打した瞬間、自分は地獄の底に叩き落とされるのではないか、暴行罪で取り押さえられるのでは無いか。自分を陥れる結末が訪れる可能性の存在は数秒でも思索すれば、安易に気付いた筈だった。だがその考えに及ぶ前に、彼は衝動を抑え切れず拳を奮った。
同情を求めてなどはいない。
ただ天使の口振りが、母を侮辱された様に思えて仕方なく、我慢ならなかった。だから殴り掛かった。結果としては受け流されてしまったが、オオツキの心には後悔や恥辱は無く、そこには病室に寝込む青年を映し出す、無情な川だけがオオツキの眼前に広がっていた。
オオツキの心は既に冷めきっていた。
~~~
「オオツキ」
オオツキは意図的に天使の声を無視した。誰とも話したくない気分だった。
「おい、殴り掛かったと思ったら今度はだんまりか。情緒不安定ってのはお前のことを言うんじゃないか?」
「全くもってそうですね。自分でも自分が分からなくなってきました。色んな情報が自分の中で交錯して、もう頭が混乱しっ放しで、自分で何がやりたいのかも分かりません」
今もどうして此処に自分が居るのかという確かな理由が掴めない。そうなる運命だと理不尽なことを言われても許容出来そうな気さえもする。
「貴方も、もう僕のことなんかほっといてくれても構いませんよ。一人で何とかやっていきます。今までもそうしてきたんだから」
「そうはいかねえ、お前みたいなどうしようもない奴をどうにかするのが俺の仕事だ」
「どうにか、ですか。地獄に突き落として笑い者にでもしますか?それくらい天使様の力ならわけないでしょう。どうにでもしてください」
吐き捨てる様にオオツキが天使に言葉を放った瞬間、今度は天使がオオツキの衿を掴み上げた。細身のオオツキの身体は、天使の片腕でいとも簡単に宙に浮き上がる。
「お前は天使って仕事なんだと思ってんだ………良いか、天使ってのはそんな個人の融通が聞く仕事じゃねえ。ただ死者を天界に連れてってはい終わり、だったら誰にだって務まる。死者の心のわだかまりを取り除いて、新鮮な気持ちで新しい環境に馴染んでくれる様全力を注ぐ。それが天使だ。この仕事を舐めてもらっちゃあ困る」
ぎしぎしとオオツキの骨が軋む。地面に叩き付けられる衝撃とは別の苦しみがじわじわとオオツキを襲う。
それでもオオツキは屈せず、凛とした強い口調で天使に言い放つ。先程までの弱々しい口調とは一転して、彼の声は張りのある厳しい声色だった。
「………だったら…………」
「だったら?」
「………だったら、貴方はとてもとてもろくでなしの天使だ!!!僕に嫌な思い出ばかりを見せ付けて、精神を地獄に突き落として、挙げ句の果てにはこうやって僕に暴力を振るい、苦しめている!!!貴方は最悪の天使だ!!!天使なんかじゃない、悪魔だ!!!!そうでしょう!!!僕は何か間違ったことを言っていますか!!!どうなんですか!!!答えてくださいよ!!!!」
「………………」
「殴りたいのならば、殴れば良いじゃないですか。それで貴方の気が済むのなら」
「………言いたいことは、それだけか?」
瞬間、オオツキは呆気に取られた顔を天使に見せた。そして天使の衿を掴む力が失われ、オオツキは地面に尻餅をつく。
これでもかと言う位の罵詈雑言をぶつけたつもりだった。これで尚更殴り蹴られても、後悔しないつもりで吐き出した言葉だった。
しかし、天使の口から零れた言葉は淡々とした、オオツキにとっては空虚以外に当てはまる表現の無い言葉だった。
「この際お前が俺をどう思ってようが構わん。憎まれることなんざもう数え切れん程やった。自分ばっか不幸だと思うなよ」
オオツキは何も言い返せなくなった。感情に任せて一喜一憂していた自分に比べて、ひょうひょうと佇む天使の方がよっぽど苦汁を舐める思いをしている様に思えた。何よりも天使には、今まで気付かなかった、人間の暗部をこれでもかと見据えてきた負の貫禄があらわになっていた。まともな道を歩んだ者には見えない黒い陰影が顔に現れていたのだ。
尚更オオツキは自分が惨めに思えた。自分はまるで、好きなものをねだってぐだぐだと駄々をこねる子供だ。あやされなければ右も左も見えない、後ろに戻ることも前に進むことも出来ない『ガキ』だ。
―――30にもなって、一体僕は―――
「ほれ」
顔を上げると、天使が腕を差し延べていた。非力な自分を持ち上げた腕が、今度は自分を助ける為に差し延べられている。オオツキは直ぐにその腕を借りて立ち上がり、天使に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい。勝手なことばかり言って。僕が未熟でした。自分を見失って、挙げ句の果てに天使さんに怒りをぶつけて……」
「もう良い。慣れっこだ」
「でも」
すると天使は、最初に会った時の様に手をオオツキの口へと宛がった。
「お前が俺のことをどう思ってようと勝手だ。だが俺には義務がある。お前が胸を張って決断出来るようにする義務がな。
お前が最後の決断を行う前に、最後にお前に見せるべきものがある。俺が気付いて、お前が気付かなかったものを。それが俺に出来る、お前への最後の贈物だ」
オオツキの口から手を放した天使の見つめる先は、水面に映る、病室に横たわるオオツキの姿だった。
オオツキは天使の言いたいことが分からなかった。再び自分の死体同然の身体を見つめることになんの意味があるのか。そう問いただそうと口を開く前に、天使の方から一つの問いが投げ出されてきた。
「見えないか」
「………え?」
何を目的に「見えないか」と問うているのか。至極抽象的な質問に、オオツキは戸惑うばかりであったが、天使は端的な言葉を発するのみ。
「花、だ」
「花、ですか?」
花という手掛かりを得て、オオツキは病室の机に置いてあるバスケットに入った一輪の黄色い花に気付く。天使はその花の方向を指差し、続ける。
「あの病室を見た時、モノクロームの背景に一箇所だけ色彩のはっきりした部分が有った。絵画と表現した方が早いか?………とにかく、一寸先には死がこびりついている病室で、あの花だけが生気に満ち溢れている様に俺は感じた」
確かに誰の目から見ても自分の眠る病室は、死を待ち受けるだけの閑散とした、隔離空間以外の何でもない。そんな殺風景な空間であの黄色の花は一際その花びらを懸命に咲かせ、命脈の鼓動を必死に伝えている。オオツキは天使の言い分が理解出来た。
とは言え、彼の伝えたいことに明確に近付いたわけではない。オオツキが再び花について問うと、天使は再び返答する。
「お前、あの花は誰が手入れしているのか、気にはならないか?」
「死期の近い患者に看護師の方がせめてもの手向けとして供えていったもの……では無いんですか?」
「お前、よっぽど他人と関わらない生き方してきたんだな。良く見な」
ぐい、と天使はオオツキの頭を鷲掴みにし、無理矢理オオツキの顔面を水面ぎりぎりまで近付ける。
「お前がここで寝たきりになったのはいつからだ?」
「それが一体何の関係がごぼぼべはは」
「つべこべ言わずに答えろ。このままケツ蹴り上げて川に置き去りにしてやってもこちとら構わねえんだからな」
オオツキの顔をそのまま川へと突っ込む。オオツキの顔中の穴から空気が吹き出し、呼吸が乱れる。
「わ、分かりました!!言います、言いますから………本当に悪魔かと思うくらいに横暴な人だあなたは」
天使の腕から解放されたオオツキは一呼吸置いてから、自分の入院日を思い出し答えた。
「………9月の中旬です。母が自殺を図り、事切れた日とほぼ同時ですよ」
「やっぱりな」
何かしらの確信を持って頷く天使。
「考えてみな。今何月何日だ?」
「11月14日………二ヶ月も入院を………」
自分が二ヶ月も入院していたという事実に翻弄されるがまま、オオツキはうろたえる。
「二ヶ月も入院している間に、こまめに花の手入れをしていたのは一体誰だか分かるか?看護師の姉ちゃんが望んで植物状態の患者に擦り寄るか?しかも、お前みたいな死を待ち受けるばかりの情けねえ馬鹿者に、一体どんな物好きが花の手入れを欠かさずに行ってたんだろうな?」
辛辣な言葉だが、真実だとオオツキは心中で呟く。今の自分を支えてくれる人間など何処に居るというのだろうか。
「あの花の名前を知ってるか」
「花ですか?」
「キショウブ、という名前の花だ。花言葉は『信ずる者の幸福』。余り名のある花じゃないし、扱っているフラワーショップも少ないだろうな。稀有な花だ」
「………随分と詳しいんですね。前世はフラワーショップで働いていたんですか?」
「俺が花に興味を持てると思うか?」
「皆無ですね」
冗談を息抜きに加えて、天使は続ける。
「わざわざ有名でもない花を探して、わざわざお前を心配してくれている人はいる。キショウブという黄色い花はその証拠なんじゃないか?」
「まさか………僕を買い被ってますよ。僕にそんな気遣いを示してくれるような人はいないでしょう。仕事場でも下男同然に蔑まれた僕です。周りに対して良い印象なんて………」
折も折、病室のドアが開かれる様子が見えた。
黒髪の美しい、紫のセーターを着用した女性だった。病室の椅子に座り、じっとオオツキの眠る表情を見守っている。わざわざ一人の患者の為に足を運ぶ私服の看護師、というわけでもない様だ。
「………あの人は………」
「お前は忘れているかもしれないが、俺はお前の記憶の中で、確かにあいつを見た。お前は気付かなかったかもしれないが、何処かの誰かがお前のことを心配してくれてたんだ。お前を見守ってくれていたのは、お前の母だけじゃなかったんだ」
オオツキは自ら川に近付き、その女性の顔を凝視する。幸福に見えるかどうかと問われれば薄幸に思える儚げな表情。その表情がオオツキの抽斗の奥底に眠る、細かく入り乱れた記憶を引きずり出す。次第に、次第に蘇っていく、反芻されていく記憶。
オオツキは涙を流していた。
ぽたぽたと、その雫は肌を伝って、川の水面へとこぼれ落ちる。
まるでその姿が自然体とでもいうように涙はオオツキの瞳から溢れ出んばかりに、次から次へと流れる。
「あの子は……死に物狂いで働いているお前を支えてくれていた、中学の頃に出会った同級生。そうだろ?」
「………仕事で偶然出会って、内の家庭事情を知るや否や、僕のことを応援してくれて、辛いときも一緒に居てくれて………………。
………シオリ………」
どうして。どうして今まで記憶から忘却することが出来ていたのだろうか。
母とはまた別の感情で、大切に想っている人の存在を。
現に彼女は今も、自分という存在を支える為に、寄り添ってくれているではないか。
オオツキの喉からは自分に対する嫌悪感が沸き上がる。そしてそれを洗い流すかの様に、続けざまにシオリという女性への感謝の気持ちが込み上げてくる。
「お前は、母が死んだことによって信じることを諦めていた。だが彼女は、たとえ植物状態となったお前を目の当たりにしようとも、お前が蘇ることを信じていた。諦めなかった。
オオツキ。お前の記憶が薄れたのは、お前が信じることを忘れてしまっていたからじゃないのか」
オオツキは唇を噛み、溢れ出す涙を抑えようとしたが、それでも洪水が治まる気配は見当たらない。それ以上に、愛する人、という自分に対する救いが胸の中に希望を植えていく。
「幸い、お前の身体は大きな外傷は無い。意識だけがこの世界に飛んでいった状態に過ぎない。戻ろうと思えばお前は直ぐにでもあの娘に会いに行けるんだ。ただし此処には戻れないけどな」
後戻りという選択肢を失ったところで、オオツキの心持ちは既に決まっていた。涙を拭いたその瞳は、決意に満ちた輝きを放っている。
「僕は………戻ります。
どれだけ踏み潰されようとも、蹴落とされようとも、自分を必要としてくれる人の為に、前を向いて歩きます。寄り添って守るべき人の為に」
「くっせえ言葉だな。じゃあお返しに一つ言っておくよ。
死ぬことは簡単だ。逃げることも簡単だ。だが生きて、立ち向かうことは難しい。
お前はまたぬかるんだ道を歩き出すんだ。けしてそれは平坦じゃない。平坦じゃないが故に、一歩一歩の幸せを噛み締めることが出来る。だから、行け。振り向くな。負け犬と言われようが木偶の坊と言われようが、お前は歩き続けるんだ。分かったな?」
天使の言葉を胸に刻み付け、オオツキは強く頷く。これが最後だと思うと、また涙がこぼれ落ちそうで、上手に正面を向くことが出来なかった。
「それじゃあ、さよならだ」
「帰ったら、天使さんの眠っているお墓に参りますよ」
「バーカ、此処に居た記憶は残りやしねえよ。大体お前に俺の墓なんざ教えてたまるかってんだ」
「最後の最後まで意地っ張りな人ですね………友達居ないでしょう」
「おかげさまで、クズ同士惹かれ合うもんなのさ」
「納得出来ます」
「違いねえ」
じゃれあうように冗談を飛ばし合うオオツキと天使。
オオツキはこの時間が、なぜだか遠い記憶のように思えてきた。
まるで、どこかに置いてきた古い古いレコードに録音された――――――
――――――
「………ヒコ」
「………ミヒコ」
「………フミヒコ!!!」
瞳を開いた時、真っ先に視界に飛び込んで来たのは、黒髪を振り乱して僕の名前を呼ぶシオリだった。
「良かった………!!!本当に良かった………!!!!」
何度も何度も良かったと口にして、シオリは僕に抱き着く。身体が圧迫されて少し苦しい。
母は死んだ。その事実に変わりは無い。悲しみは消えることはなく、僕の心に深い碇を落とした。
それでも、僕の心は何故か晴れやかだった。
こうして僕をいたわってくれているシオリの温かさに身を委ねていることも一因だが、でも何か重要なことを忘れている気がする。
いくら思い出そうとしても、記憶は直ぐにシャボン玉となって気泡が割れ、空気へ散っていく。
それでも何か、大事なものを教えてもらった記憶だけが脳裏に焼き付いている。
「歩き続けろ」
どうしてこの言葉を覚えているのか、そもそも誰に言われたのか、全く検討が付かない。
それでも、僕のこの先の人生において、大事な教訓であることには間違いない。そう思う。
シオリと結婚して、子供を育てて、家族を作って―――僕の両親がやり遂げられなかったことを、僕が叶える。幸せにする。絶対に。
でも今はもう少しだけ―――休んでいよう。
泣きじゃくるシオリの頭を撫でながら、僕は再び目を閉じた。
~~~
オオツキが現世へ送り届けた後、天使は大きなあくびと背伸びをして、ポケットに手を突っ込む。
「あーあー生き長らえらせちゃった………おまんま食い上げだなこりゃ」
「にしたってあいつ、稀に見る情けない奴だったな………あんな奴好きになるんだからシオリとか言うお嬢さんも変わり種だ」
「でもま………良いことしたかな」
ぼろぼろと愚痴を零しながら、天使はその足を、純白の殺風景な空間に向けて歩く。
彼は腰を下ろし、新たな来訪者にこう言い放った。
「なんだあんた、此処に来るたぁ珍しいな。
ようこそ、羅刹国へ」
終




