表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/7

第六話





―――僕は、死んだ。



人として、死んだ。



身体は生きているかもしれない。だが、人として生きる意味を失ったのだ。



生きる意味を持たない人間は生きていると呼べるのだろうか。



生きながらえては腐って死んでいく、くそったれな魂だけが漂っているだけではないのか。







父が死んで、母は退院してから直ぐに働き始めた。


朝も夜も働き詰めだった。毎日毎日働いていた。


僕は母を少しだけでも楽にさせてやりたかった。


僕には祖父も祖母もいない。父はあの破天荒な性格故に実家から勘当され、母も二十歳に成らずして両親を病気で失っていた。


母は僕をせめて高校までは、と言ってはいたが、僕は母の身体にべっとりと塗られた苦痛の色に気付いていた。何年も同じ時を過ごしていたから。



中学を卒業して、直ぐに仕事に就いた。


中卒の人間を雇ってくれる場所はごくわずかで、日雇いの肉体労働が殆どだった。元々身体も弱い方だった僕は直ぐに身体を壊した。

母は僕を看病してくれた。僕以上に忙しいはずの母の手は温かく、何の親孝行も出来ない僕は心苦しくなって泣いた。何度も泣いた。


僕は働いた。友達も居たが、中学卒業以来殆ど会う機会は無かったし、会おうとも思わなかった。母を支える為に生きていく。その為に働く。たった一人の家族の為に。それが僕の人生だ。この決断に迷いは無かったし、何の間違いも無いと、そう思った。そう思っていた。








母が倒れた。



交通事故による意識不明の重体。医師はそう僕に告げた。


事故の当事者は飲酒運転で、母を轢いた時には既にアルコール中毒で死んでいたのだという。


僕は行き場のない怒りを全て仕事に注ぎ込んだ。そうでもしなければ、自分で自分を壊して、周りさえも壊してしまいそうだったから。


僕はその日から毎日毎日母の病床に顔を出す様になった。母の入院代を稼ぐために絶えることなく働き続けた。毎日病院に行った。それでも母は目を覚ますことはなかった。


僕は鈍間な上に身体も弱い。職場では虐めに遇った。


失せろ。消えろ。死ね。カス。ゴミ。グズ。蔑視、蔑称は当たり前の様に浴びせ掛けられた。


それでもくじけたりはしなかった。いつか母がその瞳を開けて、僕に微笑んでくれる。そう信じるだけで、僕は傷みを傷みと感じることのない、従順な機械人形と化することが出来た。



ある日、母は意識を取り戻した。


僕は涙をボロボロと流し、良かった、良かった、と、短い喜びの念を母の手を握りながら確かめた。


母もそんな情けない姿の僕の頭を優しく撫でながら「ありがとうね」と語りかけた。


母は全身不随、と診断された。


右腕を除く全身が事故に因る麻痺で、二度と動く見込みは無いだろうと、医者はそう僕に告げた。


僕はそのことを母に告げなかった。いつか絶対に治ると、淡い希望等ではなく、確信として信じていたからだ。


来る日も来る日も働き続けた。やはり周りからは疎まれ蔑まれたが、それでも僕は希望を胸に働き続けた。









ある日、母は、死んだ。




病床に赴き、母の為に林檎を剥いている最中、用を足す為に御手洗いに向かった、その1分にも満たない間で惨劇は起こった。


僕が使っていた包丁を右手に握った母は、自らの頸動脈を掻き斬ったのだ。


べっとりとした紅が、病床に広がる。その中心には、歯を食いしばりながら自ら死を選んだ、悶え苦しんだ表情で事切れた母が存在していた。




僕は最初、夢かと思っていた。


だって、そんなわけないじゃないか。


あんなに優しい笑顔を見せていた母が、自殺なんて。しかも、こんな無惨な方法で。



朦朧とした意識の中で、僕は先程までは置いていなかった紙切れを机上に見つけた。


くしゃくしゃに丸められていたものだから、ゴミなのかとも思った。でも気が気でない僕は、いつの間にかおもむろにその紙を開いていた。



母の字だった。震えてはいたが、生まれてからずっと読んできた、母の字だった。


震える手で必死に書いたのだろう、所々で文字が横に擦れたり、大小のバランスが崩れたりしていた。


だけど、そこに書いてある文字は確かに僕の心臓を強く地面に叩き付ける様な、確かな母の言葉が在った。



『お別れです、フミヒコ。



私が生きているせいで、貴方が私という存在に縛られて生きていくことは、私にとって苦痛なのです。


もう母さんの身体、動かないことは知ってた。何となくだけど、身体が限界だって教えてた。


フミヒコ。貴方の顔は、会いに来る度に少しずつ少しずつ、だけど確実にやつれていった。


このままだったら貴方は私よりも先に死ぬでしょう。でもそれは、私にとって死ぬより辛いこと。


だから、私は自ら命を絶つことを選んだ。


何も苦に思わないで下さい、これは私のため、貴方のための選択なのです。


だから何も悲しむ必要なんてない。私は天国からでも、貴方のことを見守っています。


だから、だからフミヒコ。貴方は強く生きて下さい。それが母と、父の願いです。




さようなら。』





嘘だと思った。



だって、悲しむ必要なんかないなんて言うんだったら。どうして貴方は、そんな悲しい表情で死に絶えたのですか。どうして僕の胸は今、こんなに悲しい気持ちで溢れているのですか。この喪失感は一体何なのですか。




だってそうだろう、神様。



そんな、そんなはずないじゃないか。


あんなに大好きだったのに、ほんの数分の間でいなくなるなんて。


そうだ。これは夢だ。死んだなんて嘘だ。そうだ。生きてるはずだ。だってそうだろ。そうだろ神様。答えろよ。


だってそうだろ父さんが死んでから一人でずっとずっとずっとずっとずっと戦ってきた母さんがこんな短時間でしかもこんなクソみたいな理由で死ぬなんて嘘だろ僕は何のために今まで頑張ってきたってんだよ答えてくれよ神様なんでだよなんでなんだよ答えてくれよなんでこんな惨い真似が出来るあんたは何様なんだ僕からどれだけのものを奪えば気が済むんだなあ頼むよ答えてくれよ嘘なんだろ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘た嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――――――――――




























―――


「目ぇ、覚めたか」


気が付けばオオツキは、三途の川の大地に横たわり、眼前には立ち上がった天使だけが自分を見下ろしている。


自分がどういった過程で意識を失ったのかが順序立てて説明出来る程に、オオツキの脳内には場景が明白に残っていた。そして、意識を失う以前の自分と、今現在意識を保っている自分とでは大きな変化が生じていることもオオツキには理解出来た。


「戻ったのか、記憶」


「はい。………ぼくは、どうしようもない野郎ですよ」

「ああ、知ってる。お前の下界での様子、覗かせてもらった」


天使の指差す方向には、自分が先程意識を失ったけして美しいとは言えない濁り江、三途の川が波打っている。そこに広がる光景に、オオツキは圧倒される。

航空機に乗用し、天高く空中から街の様子を覗くと盛観だろう。もし自分が今の暗鬱とした気持ちでなければと、オオツキは悔やむ。

三途の川から見える光景。それは間違いなく、オオツキが生まれ育った街の様子。至る所に大仰に描かれた看板にオオツキは見覚えがあった。


「お前の粗方の人生、この三途の川から教えてもらった。そして現世のお前が今どうなってんのかも確認した」


天使はオオツキの横に座して、三途の川を覗き込む。オオツキも続いて覗き込む。


病院だった。清潔なセピア色の壁、いくつもの窓、屋上で背伸びをする老人。診察棟と分かれた巨大な入院棟が胸を張ってそびえ立つ。


入院棟の窓際の一室は、延命装置を装着された青年が静かに横たわっている様子が見られる。


その青年の顔をオオツキはじっと見る、刹那、オオツキは驚天動地と形容すべき勢いで瞳と口を見開いた。



その青年は―――他でもなく、オオツキフミヒコ自身であった。



「……あの後、気の触れちまったお前はそのまま飛び降り自殺を図ったみてえだな。打ち所が良かったのか、即死にはならなかったが意識不明の重体…植物状態てなやつだな」



他人事の様に淡々と、ただそこにある事実だけを述べる天使に対して、オオツキは怒りを顕わにするわけでもなく、自嘲的な笑みのみを浮かべた。


「………ふふ」


「何が可笑しいんだ」


「見たんでしょう。知ったんでしょう。僕の人生を。どうしようもなく糞みたいな、誰の目にも見向きされないような惨めな男の人生を。


滑稽なんですよ、僕は。父も母も失い、揚句の果てに自分を失って、尚その命は植物状態でありながらも生きながらえている。見世物の悲劇にもならない茶番劇ですよ。


その上、その茶番の主人公は僕なんですから」


出会った当初は幼さの残った透き通ったオオツキの黒い瞳は、今は泥濘がこびりついた様な淀んだ黒い瞳に変化していた。


「僕は……これからどうするべきですかね」


「お前が決めることだ。俺はお前の人生の中途にある分かれ道でお前が迷う様を見届けるだけの、しがない天界の公務員だ。それ以上でも以下でもない」


吐き捨てる様に言った天使に対して、オオツキは再び自らをせせら笑う歪んだ笑みを漏らした。


「そうですよね。生死の狭間に居る自分の境遇を他人に委ねてしまう位に、僕は優柔不断で、陰欝で、鈍間で。今僕は、生き返ることが正しいんでしょうか。僕は逃げたいのです。この世界へ。父と母が存在するこの世界へ。天国へ。


父から謝罪を受けて、母へ感謝の言葉を述べ、家族三人で、篤く抱擁を交わしたい。僕のこの気持ちは、現実逃避への表れなんでしょうか」




徐々に小さくなって見えるオオツキの背中。天使は黙したまま彼の言葉に耳を傾ける。



「………いえ、これも、貴方に言う様な話ではありませんでしたね。


それでも話さずにはいられないんですよ。どうしようもないことを、他人に聞いてもらおうと必死に関心を引き付けることは僕だけでなく、人間の生まれ持つ悪なんでしょうね………こんなこと、貴方に訴えたってなんの解決にもならないのに………




………僕は、どうすれば…………」




蓮華の花弁が、オオツキが顔を俯ける三途の川の水面へと、ひらりと落ちる。


波紋によってたゆたい、歪む水面。そこに映る病室に眠るオオツキの姿。



天使は絶えず―――病室に飾られた花束を見つめていた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ