第四話
トマスに別れを告げ、おでん屋を後にして二人は再び純白の世界を歩む。
「……少しですけど、僕は思い出しました」
「なんだ。俺への礼儀か。なんなら遅すぎる位だぞ」
「あ、おごって下さりありがとうございます………いやそうじゃなくて。僕の、ちょっとした記憶です」
天使は歩みを止め、オオツキの方に振り向く。突然のことに一瞬狼狽したオオツキは、その影響でぴたりと足を止めてしまった。
「なんで止まった」
「いや、貴方が止まったので」
「並んで歩けってことだよ。横に来て喋れ。立ち話じゃねえといつまで経ってもこんな精神と時の部屋みたいな場所に缶詰だぞ」
若干の間を開けて、そそくさとオオツキは天使の横に急ぐ。オオツキが自分の真横に並んだことを確認して、天使は歩行を再開する。オオツキもそれに倣い、足並みを揃えて歩く。
「随分と気持ちの掴みにくい人ですね」
「そういう性分だからな」
「……まるで、死んだ父にそっくりです」
「死んだ父?記憶戻ったか?」
うっすらと頷くオオツキ。ぼんやりとではあるが、オオツキの頭の中の情景はその片鱗を見せ始めていた。そしてその片鱗は、先程の屋台での二人の会話が契機となり現れたものだった。
「昔、父に何処か、見知らぬラーメン屋の屋台に連れて行かれたことがありました。天使さん、丁度今の貴方と同じ様に」
天使は静かに、しかし聞き漏らすことなくオオツキの言葉に耳を傾ける。無論歩行を続けながら。
「ギャンブルと酒とタバコで成り立っているような、どうしようもない人でした。仕事をしてはギャンブルと酒に金を注ぎ込み、家に帰って来ても酔っていない父を見たことが無い程にギャンブル狂いの駄目な人でした。
もちろん、母は僕をほぼ女手一つで育ててくれました。朝も夜も働き通す姿を今でも覚えています。
父に文句も言わず、ただただ働いていました。今覚えば、父に対してどれだけの仮借を重ねていたか分からない程に母は寛大で強い人物だったと思います。そんな中で僕は父に途方もない怒りを感じていましたが、僕は周りと比べて我を出さない、大人しい子供であったと認識しています。酒に溺れる父を前にして何も言うことは出来ませんでした。
そういった日々が続いたある日のことでした。母は洗濯物を畳んでいる途中で意識を失い、ばたりとその場に倒れ伏してしまったのです。
無論僕は焦り、涙で顔をくしゃくしゃにして母を揺さ振りました。だがしかし、そんな僕よりも数倍狼狽を表面に表していたのは父でした。
震える手で父は救急車を呼び、震えた声で母の名前を呼び、震えた腕で母の肩を抱き寄せました。その時僕は認識せざるを得なかったのです。母を一番愛しているのはこの、人生の堕落者としか形容できない、だらしの無い父なのだと。
そして同時に、今までとは比べものにならない程に父に対しての僕の怒りは爆発的に膨れ上がりました。もしもその頃の僕が未就学児でなく、尚且つ第二次性徴期に入った思春期の身体であったならば、台所の包丁で父を刺し殺していたかも分かりません。父に対する怒りは殺気に近いものがあったかも分かりません。
救急車に母が運ばれ、追随する様に僕と父は救急車に乗り込みました。そこで僕は遂に、今まで胸奥に隠し持っていた憤怒を一思いに吐き出しました。
『どうしてこんなことになる前に気遣ってやれなかったのか』
『どうして今更になって母を心配出来るのか。父さん、貴方に母を心配する資格はあるのか』
僕ははっきりと何を言ったのかは覚えていませんが、とにかく自分の有りっ丈の言葉で父に罵詈雑言を浴びせ掛けたことは覚えています。涙でくしゃくしゃになった顔を更に歪ませて、呂律の回らない舌に鞭を打って、その時分の衝動と感情に身を委ねました。
全てを吐き出した後、父は静かに僕の頭を撫で下ろしました。そして『悪かった』と一言だけ僕に告げ、そこで僕の意識は眠りの底に落ちたのです。
目が覚めた時、僕は家の布団に寝かされていて、その横では父が自分を寝かしつけてくれていました。
僕が起きたことを確認した父は、母が過労による一過性の病で、休めば直ぐに治るということを僕に告げました。
そしておもむろに、僕の手を引いて、秋の肌寒い真夜中の外へと繰り出しました。父の向かった場所は、市街に存在すれば一挙に霞んでしまう様な、古ぼけたラーメン屋の屋台でした。
一杯のラーメンを啜りながら、父は僕に語りかけました。
『確かに俺はダメな野郎だ。家族ともまともに向き合えずに、スロットと酒に金を注ぎ込んで、人生棒に振っちまう様な木偶の坊だ。なんだけどなぁ、あいつは俺のこと、支えてくれるんだよなぁ。そんで俺も、あいつといると心が安らぐんだよなぁ』父の言葉ははっきりと思い出せます。それ程印象が強かったんでしょう。更に父は続けます。
『あいつに甘えすぎて、いつの間にか無理させてたみたいだな。これからは、俺も頑張らなきゃな』
そう語って僕の頭を撫でる父は、それまでの情けない父とは一線を画した、一種の強い決意を秘めた姿でした。思えばそれが僕と父の、最初で最後の思い出になってしまいました。
………一週間後に、父はトラックの下敷きとなりこの世を去りました」
オオツキはそこで一呼吸を置く。自分でもここまで過去をあらいざらい話すとは思っていなかった。密閉された空間の中で誰かを頼りにせざるを得ない自分を嘲笑しながら、オオツキは天使に質問した。
「僕が思い出せるのはここまでです。………父は、父は今天界に居ますか?」
「さあな。話聞いてたらお前の親父さん亡くなったのって20何年前だろう、そんなん行方が掴める訳無いだろ。名前さえはっきりしてりゃ、役所にでも頼んで住居掴めるんだが」
「………そうですよね」
「お前さ、親父さんに会ったとしてだ、どうするつもりだったんだ?文句でも言うつもりだったのか?」
天使の質問に対して、オオツキは自嘲的な笑みを浮かべた。そして、少し間を空けて天使に答えた。
「………おでん屋を経営していたトマスさんが居ましたよね。あの人は贖罪と言いましたよね。
父が彼と同じ様に、贖罪という意味で、何かを行っているのか、確認したかったんです。もしも、父が彼と同じ考えを持って此処に来ていたなら……僕はきっと父を殴ってしまうかもしれません。だって、逃げているとしか思えないじゃないですか。贖罪なんて適当な言い訳を盾に利用して、自分から逃げてるばかりじゃないですか………。謝罪の言葉一つも入れずに、卑怯じゃないですか………」
結局オオツキはそのまま石の様に黙り込み、二人の会話の生命の息吹もそこで鼓動を停止してしまった。
出口にたどり着くまでは。