第一話
最初に意識を取り戻した時、彼は眼を覚ましたのかどうかさえも朦朧とした状態だった。
白。白。白。淀んだ白濁などではない、一切の穢れ無き純白。
その純白が自らの網膜が映し出す視界であることに気付いたのは、自分の腕が見えた故だ。
特に何の変哲もない、古着屋に向かえば格安で売買されている様な真っ黒なスウェット。
ここは何処なのだろうか。周りを見回しても一面の純白。距離感覚も掴めない程に純白。
「なんだあんた、ここに来るたぁ珍しいな」
10代,20代の青年の声が背後から耳へと流れてくる。振りむくと、背景の白と真逆の黒いスーツを着込んだ短髪の青年が立っていた。
「あの、あなたは誰ですか」
質問に対して青年は答える。
「人に聞く前にまず自分から名乗り出るもんだろう」
強い口調で言われ、質問の発言者は少し縮こまる。自分が年上であることは明確ではあるのだが、強く出られるとどうしても逆らうことが出来なかった。
「これは失礼しました。えー……オオツキフミヒコです。今年で29になります」
「オオツキか。なんかバンドマンみたいな名前だな」
「そんなこと初めて言われました……それで、貴方のお名前は」
「よし、オオツキ。一緒に来い」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
スウェットの男―――オオツキは弱々しい叫び声を上げて、出口があるのかどうかも不明瞭な純白の世界を歩こうとする青年の腕を掴む。
「なんだよ、わがままな野郎だな」
「わがままというよりも、訳が分からないんですよ!目が覚めたらこんな真っ白な世界で、どこからともなく貴方が現れて!しっかり説明してくださいよ!!」
「落ち着けよ、直ぐキレる奴は女にモテねえぞ」
「これが落ち着いていられますか!」
怒濤の如く青年に向かって言葉を吐き出すオオツキ。目が覚めて見知らぬ世界に降り立ち、見知らぬ青年と二人きりで、その上青年はついて来いと言う。まともな感性を持つと自覚しているオオツキにとっては実に突飛な話で、実際彼の頭は混乱していた。
「まず貴方の名前を―――むぐ」
「分かった。分かったからがっつくんじゃねえ気持ちの悪い。初対面の人間にこうも野蛮に噛み付く野郎がいるかね」
抑えの効かないオオツキの口元に手を当て、宥めの言葉を紡ぐ青年。我に返ったオオツキは心臓に胸を当て、一呼吸おいてから「……すいません」と謝罪した。
相手の意に応じず更に自分の行動を相手にも強要しようとした青年も充分にモラルに欠けていたが、自身の興奮に対する申し訳なさしか残っていなかったオオツキにそこまでの思考力は働かなかった。
「ええと確か、俺の名前だったか」
「はいそうです」
「残念だが俺はあんたに本名を教えることは出来ない」
「え…どうして」
オオツキは再び口に手を宛がわれる。続けて青年は猟犬にしつけを行う狩人の様にオオツキにささやきかける。
「ノンノンノンノンノン。怒るな怒るな。俺はこう見えても胆は小さいんだから」
けして声を荒げた訳ではないのだが、カウンセラーにも似た穏やかさを感じさせる青年の声を聞くと、どんな状態であれ黙らざるを得ない気持ちになる。
「オオツキ。一つ言っておくけどな、お前の住んでる一般社会とは掛け離れたこの空間で一般常識と掛け離れた事を言われても、多少は受け入れなきゃならない。受け入れられなくても話は聞け。最後までな」
「……分かりました」
迂闊に面識の無い者を信じることは一般常識に当て嵌めれば必然的に行わないだろう。だが自分が何処に居るのかも分からない現状である。仮に彼を信じずに此処に一人で佇んでも解決の糸口は掴めない。オオツキは静かに青年に向かって頷いた。
「それじゃまず、名前は教えられないとしてだ……役職で呼んでもらおうかな」
「役職ですか?あの…社長さん、とか、店長さん、とか……将軍さん、みたいな感じですか?」
「どうして最後に将軍てワードが出て来たのかは分からんが……そんな堅苦しいもんじゃあねえよ。もっとこうなんだ、柔らかいイメージの職だな。つーか、世間一般で職っつーのかどうかも分かんねえけど」
柔らかいイメージ。その言葉から見出だされたオオツキの答えは、一般的な答えとはまた大きく異なったものだった。
そしてそれは同時に、この場において最も的を射た答えと相成った。
「ええと……そうですね………
………天使、とか?
はは、そんなわけないですよね」
「すげえな、当たりだよ、当たり。俺は天使だ。あ、種族とかじゃなくて、役職名で」
「………え?」
天使。
間違いなく目の前の青年はそう口にした。
多くの宗教で神と人の仲介人を努め、人間界に遣わされる天の使い。オオツキの脳内にインプットされている天使についての情報はこれが精一杯だった。
漫画やゲームの世界でしか姿を現さない虚構の産物と思われていた天使が、今自分の眼前に存在している。しかも、イメージとは正反対の姿で。
「う……嘘でしょう。貴方頭が可笑しいんじゃないですか?」
「この状況で嘘つく野郎が何処に居る。よっぽど根性の捻くれた野郎なら未だしも、俺の心は至って純粋だぞ」
「そうやって平気で嘘をつく人間は世の中ごまんといますよ!」
頑なに天使という存在を認めないオオツキに対して、天使と名乗る青年は身体の不純物を取り除くかの様な勢いで溜め息を吐き出した。
「一般常識は捨て去れってさっき言ったろ?
そうさなあ……何をやったら信じるよ」
「それじゃあ、翼で空中を飛んだりしてみて下さいよ!天使だったらそれくらい出来るでしょう!!」
翼を使い、更に空中を自由に飛ぶ。もしも彼が嘘を付いているのであれば、行動に移すどころか、表情にも曇りが見えるはずだ。オオツキは我ながら無理難題を押し付けた、と心中自画自賛する。
然しながら、彼の表情には一滴の曇りも見えず、それどころか―――
「ほれ」
―――見事な、神々しささえ感じさせる翼だった。
紛れも無く純白だが、背景のそれとは違う。空間の純白は無機質なものだが、彼の翼は慈悲深さ、隣人愛を胸に訴えかける―――イエス・キリストの精神そのものを表しているかの様に、神々しい輝きを放っている。
その光景を目の当たりにし、オオツキは口をあんぐりと開けて呆けていたが―――次の瞬間、がくんと視界が上下にぶれ、スウェットの後ろ襟を引っ張られる感覚に襲われる。気付けばオオツキの足は地面から浮き、言うなれば宇宙遊泳の様に平行感覚を失った状態だ。
「言っただろ、天使だって」
真上から呆れる様なニュアンスの青年の声が聞こえる。そこで初めてオオツキは、自分が青年によって衿を掴まれ、空中にぶら下がっている状況に陥っていることを自覚した。
「うあっ……わぁっちょっと、どうなってるんですかこれ!」
「お前の望み通りに証明してやってんだ、ほらよっと」
次の瞬間、オオツキは青年によって地面に落とされ、両足を広げた情けの無い姿で着地する。衝撃による痺れの後に、少しずつ痛みが尻に伸し掛かる。
「どうだ、これでもまだ信じないか。触ってみても良いぞ、触り心地はハトなんかの羽毛とそんなに代わり映えはしないし」
「良いです。遠慮しときます」
「そうか、それじゃあ俺のこと天使と信じたって認識してオッケーなんだな」
今行った非日常的な出来事を『さも偶然』と言わんばかりに、彼は表情に大きな変化を見せない。自分の提起した条件を満たしてしまった。
にわかには信じがたい。だが、何時までも疑っていては前にも進めない。オオツキは青年を―――天使と認める、そういった意味での頷きをした。
青年―――天使は一転として無邪気な少年の様な笑みを見せ、地面へ降り立つ。翼は空気中に散乱する様にして一瞬で消え失せてしまった。そしてオオツキに更なる言葉を紡ぐ。
「まあこれくらいで驚いてもらっちゃあ此処から俺の言う事にゃ着いていけないからな。割と順応性有る方みたいで良かった」
「これくらいのこと……ですか」
「そ。まあ此処でゆっくり話するのもあれだからな、歩きながら話そうや」
天使は片手をオオツキに差し出し、オオツキも厚意に応えて天使の手を掴み、立ち上がる。何処が前で何処が後ろなのかも分からない純白の世界を天使は歩み始める。オオツキもそれに続く形で歩き始めた。