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最高傑作

作者: 川崎真人

 旧校舎の奥。立ち入り禁止と描かれた看板の向こう、飲み込まれそうに深い暗闇が続いていた。木曽川時子は尻尾を振る子犬のように弾んだ足取りで、躊躇なく暗闇の中に飛び込んだ。

 「付いてきて」

 子供のような笑顔。おれはいぶかしいものを感じながらも、恐る恐る足を踏み入れる。

 「ここ」

 木曽川が指差した先には、今にも崩れ落ちそうに古びた木造の下り階段があった。

 「地下室?」

 「そ。わたしも最初見た時はびっくりした。使われてないし、今はわたしの好きなようにさせてもらってる。さ。降りて。唯人くんなら、この下のものを理解してもらえると思うな」

 ぎしぎしと音をたてる階段を降りる。立て付けられた粗末な扉を開き中に入る。木曽川はわたわたと懐中電灯を振り回すと、蛍光灯の代わりらしいランプのスイッチを入れた。

 部屋の様子が明らかになる。部屋中を見回すと、六畳程度の空間が広がっている。そこにあったのは、僅かに斜めった粗末なベッド。鉄製の机。本棚らしきもの。誰かが住んでいるような、何の変哲もない唯の寝室だ。

 そんなものが学校の地下室に存在しているのが異様に思えた。思わず木曽川の方を見ると、どこか満足そうににこにこと笑っている。おれは恐る恐る部屋に足を踏み出す。

 足元で何かを踏みつけたのを感じた。

 驚いて拾い上げてみると、それはガラスの小瓶だった。中には何やら赤黒いものがびっしりとガラスに張り付いている。ぶよぶよとした質感のそれは、小動物の舌のようにも見えた。

 「うわっ」

 おれは思わずそれを取り落とす。冷や汗を浮かべながら床を見回すと、壁際の本棚から似たようなものがいくつも漏れ出し、床に転がっているのが見えた。

 「これ。猫の舌を集めて作ったの」

 木曽川は誇らしげな表情を浮かべ、床の瓶の破片を見下ろす。

 それから両手を開いて部屋全体を示すようにくるりと一周すると、唇を歪ませて楽しそうにこう言った。

 「タイトルは『狂人の部屋』。すごいでしょ」

 木曽川の笑みはどこまでも屈託のないものだった。

 次に目に入ってきたのは机の前の壁にずらりと並んだ無数の耳。釘で打ち込まれたそれらにおれは思わず駆け寄る。本物でないことを確認し、息を吐いた。木曽川がおかしそうにくすくすと笑う。

 「それもすごいけど。本当にがんばったのはね、これ」

 言って、木曽川は机に置かれた何冊かのノートの一冊を、おれに開いて見せた。

 『ガワコソキキト神の使徒として覚醒してからもう何日が立つだろうか。今日も新たなる生贄を殺害し、耳を切り落として来たところである。この記録をつけ終えてから、仕上げに壁に打ち込めば完璧だ』

 酷い悪筆で、偉く筆圧が濃い。まともに読み取れたのはそこだけで、後の文章は字も汚ければ文法もめちゃくちゃだった。

 「アタマのおかしな殺人鬼が、色んな人を殺して耳をそぎ落とす日記帳」

 木曽川はページをめくってみせる。奇妙な図のようなものが描かれていて、ページ下部には乱暴な文字で『ガワコソキキト神の偉大なる文様』と描かれていた。

 「殺人鬼が死体から切り取る箇所は耳にしたの。簡単だし、それに、人間の耳ってとっても綺麗だからね。目で見るものばかり作ってるわたしたちにとっては、すごく神秘的な機能を持った機関でもあるし」

 おれはぱたりとページを閉じて、眉を顰めながら木曽川の肩に手を置いてこちらを向かせる。

 「この部屋が、おまえの最高傑作とやらか?」

 木曽川は微笑みながら首を横に振り

 「ううん、最高傑作はまだ作りかけ。これはただの器」

 木曽川は自信と確信に満ちた表情でおれの顔を見上げながら

 「その前にこの部屋を君に見せておきたかったんだ。この部屋はどう? すごいでしょ?」

 おれは唾を飲み込んでうなずいてみせるしかなかった。


 芸術家のある高校に進学することに、両親は反対しなかった。おれに才能があったからだ。

 小さな頃から絵画のコンクールでいくつもの賞を取り、市の会館や、県立の美術館にまで絵が飾られた。時には雑誌にも掲載され、有名無名問わずいくつもの評論家に見出された。

 それらは既に煩わしいものでしかなかった。自分の絵の美しさは自分が一番知っていて、他の何者に認められようとどうでも良かったのだ。

 高校の入学式を終えたおれは、自身の絵の能力を最大限に引き立ててくれる充実した設備を見て回った。そこでのことだ、木曽川時子に出会ったのは。

 当時二年生だった彼女は、奇妙極まりないオプジェクトを作っていた。それは包丁やら金槌やら竹刀やら、およそ凶器と呼べそうなものを大量に放り込んだ、それは様式の便器にしか見えなかった。

 「……何を作ってるんだ?」

 恐る恐る、おれは尋ねた。

 「トイレっていうのはね。秘密とか自意識とか、そういうものの象徴なの。誰もが始めて感じる秘密。自分しか知らない瞬間。自分しか感じない自分」

 木曽川は顔をあげ、屈託なく笑う。

 「そこにありったけ、人を傷付けるものを放り込む。タイトルは『衝動』。良いでしょ」

 おれはその翌日。木曽川が作っていたものとまったく同じものを絵に描いた。それおれにとっての最高傑作となり、それを越えるものをおれはまだ描けていない。


 「今ね。わたし、絵を描いているの」

 木曽川は言う。

 「もうすぐ卒業だし、何か残していけって先生が。唯人くんにそれを見て欲しいんだ」

 照れたように木曽川は言う。

 「今、あの部屋にあるの。放課後、そこで会いましょう」

 木曽川はおれの教室から去っていく。誰かがおれに話しかけてきた。

 「先輩から絵の相談をされるなんて、流石だな」

 誰も気付いていない。木曽川の持つ才能に。この世でそれを理解できるのは、木曽川本人を除いてはおれ一人だけだった。

 彼女の感性はまるで火薬のように鋭敏で、とどまることを知らなかった。おれは本当に美しいものとは何なのかを思い知らされた。

 唯一救いだったのは、彼女が自身の感性を絵画などという、すっぺらい紙切れに押し込むことを嫌っていたことだった。分野が違えば、少なくとも直接は差を見せられずに済んだのだ。

 これまでは。

 おれは例の地下室に脚を踏み入れた。

 部屋の中央には、大きなキャンバスが置かれている。おれは思わずそれを覗き込む。そしてぞっとする。目がくらみ、気絶しそうにその場をもだえる。おれは初めて、自分のものより魅力的な絵を目にしたのだ。

 それは、小指ほどの大きさの小さな綿を背中に乗せて、今にも押しつぶされそうにもだえている男の姿だった。引きちぎれそうに歪んだその表情は、苦痛と絶望とに彩られていて、見るものの不安を強く呼び起こさせる。狂ってしまいそうな、そんな絵だった。

 あつらえたように、絵の傍にナイフが置かれているのが見えた。鋭利なそれはぬらりと輝て、おれを深く強く誘惑した。おれは思わずそれを手に取る。

 木曽川のキャンバスを引き裂く。

 そこに愉悦などはなく、ただ全身をさいなむような不安感だけがあった。おれは幾度も自分の手の甲を切り裂きながら、木曽川の絵を徹底的に破壊し続ける。

 おれは放心して息を吐き出し、それに気付いた。

 「あーああ。やっちゃった」

 部屋の扉を開けた木曽川が、こちらを見下ろすように笑っていた。

 「唯人くん……そういうことしちゃう人だったんだね。でも、これで決まっちゃった」

 おれは思わずその場を立ち上がり、ナイフを木曽川に向ける。木曽川は挑発するように笑っている。

 「殺しなよ」

 木曽川は言った。

 「わたしを殺さないと、君は一番になれない。君は、それを認めちゃったんだ」

 ぞくりと、胸に深々と冷たい刃を突っ込まれたような気持ちになった。

 おれは木曽川に切りかかる。木曽川は抵抗を見せなかった。薄い体をナイフは軽々と貫通する。木曽川は激痛にもだえるように目を見開き、体を痙攣させる。

 背中から床に倒れ、木曽川は血まみれの手をこちらに捧げた。そこにはきらりと光る鍵のようなものが握られている。

 木曽川の視線が、狂人の部屋の鉄製の机に向けて動く。

 おれがそれを理解したのを見て取って、木曽川は満足そうに事切れた。

 胸の奥の方から僅かに笑いが漏れる。それはすぐに全身に広がって、おれは気がつけば高らかに哄笑をあげていた。自分がこの世でもっとも美しい絵を描く人間になれたことを、本当に確信した瞬間だった。

 ふと、木曽川の示した鍵を手に取る。

 彼女が何を示していたのか気になった。おれはそれを鉄製の机の前に持っていく。机の引き出しの一つに鍵がかかっているのを発見する。差し込む。

 引き出しから出てきたのは一冊のノートだった。

 『ベッドの下から寝袋を取り出す。木曽川の死体をそこに放り込み、旧校舎の便槽の中に捨てる』

 目を見開く。おれは思わずベッドの下を確認する。寝袋らしき布の塊を確認する。おれは慌ててノートに戻った。

 なんだこれは。

 そこにはこの日記の持ち主が死体をどう始末するかが記されていた。その後のことも書かれている。

 そこには驚くべき殺人計画の数々が描かれている。被害者は全ておれが木曽川に話した、あるいは聞き出された、おれが殺したいと感じる人間の名前。おれをバカにした評論家たちだ。

 それは緻密で大胆で、それでいながら判明する余地が微塵もない。完璧な計画の数々だった。

 日記の文字は少しずつ乱れ、書き手が少しずつ狂気に満たされていく様子が分かる。そして日記の最後には例の『ガワコソキキト神の偉大なる文様』も描かれていた。

 おれは静かにその日記を鞄に詰め込み、木曽川の死体を見る。

 『ううん、最高傑作はまだ作りかけ。これはただの器』

 この部屋におれを招待した時、彼女がそんなことを言っていたのを思い出す。

 おれは静かに木曽川の死体を寝袋に詰め込み、それを捨てる為に部屋を後にした。


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