第七章 桃色の脳内
駅での偶然の再開の後も、俺はしばしば飯山と会い、そのたびにお互い声を掛け合って別れる、ということを繰り返した。
あるときは本屋で出会い、一緒に参考書やら何やらを眺めたこともあった。
中学時代から、飯山はどこか物憂げな雰囲気をまとっていたが、高校三年生になり、さらに大人の女性に近づいた飯山のその雰囲気は、色気以外の何物でもなかった。
飯山がその長い黒髪をかきあげてみたり、遠い目をしながら話をしたりするたびに、俺はくらくらするような感覚を感じ、そのたびに俺はあやうくこいつに惚れそうになって、そのたびに心の中の理性維持装置が緊急作動を起こした。
―いくら今の恋愛が行き詰まっているからって、さっそく違う女の子に惚れそうになるなんて、これでは俺はとんでもない色ボケ野郎だぞ。頭の中がピンク色に染まっとるのか。俺は古き良き日本男児の魂を受け継いでいるんじゃないのか。恥を知れ馬鹿者。
こんな理解不能なことを俺は割と真剣に考えていた。つくづく恥ずかしい。
そもそも、この俺のどこに日本男児の魂が受け継がれているというのだろうか。
どう考えても俺は、ただのヘタレで、神経性の胃痛持ちで、モテない童貞野郎である。
なんでも、男女間の友情は、片方がもう片方を異性として認識した段階で終了らしいが、もし本当ならば、俺がちょっと気を抜けば俺と飯山の間の友情はもろくも崩壊するだろう。
それはなんとしても避けたかった。何とか俺は自分の感情を抑えようとした。
だが、それは、絶望的な恋愛に身をすり減らし、なんとかそれを忘れようと必死にもがいていた俺にとっては、とてつもなく苦しいことだった。
さらには飯山は、そんな俺の努力をあざ笑うかのように、短いスカートやズボンをはいてはその美脚を惜しげもなく披露し、その胸元は誰が見てもわかるくらいにこんもりと膨らみ、肩まで伸びたさらさらした黒い髪は妙にいい香りを漂わせながらさわさわと揺れた。飯山と会話していると、予備校のほかの男どもの視線が痛かったぐらいである。
要するに、俗っぽい言い方をすると、こいつは世間的には相当イイ女なのである。
八月の初めのある日。
俺はその日、朝一の講習が入っていた。
講習が終わり、予備校の階段を下っていると、手すり越しに飯山の姿が見えた。
―俺今、無意識にあいつを探してたよな。どういうことだ。
俺は一言小声で、やばい、と呟いた。
すると、前から声をかけられた。飯山だった。
背中を冷や汗が流れるのが感じられた。
「何がやばいの」何も知らない飯山は不思議そうな顔で聞いてきた。どう言い訳しようか。
「もう八月か、とか思って」俺は動揺を取り繕いつつ、苦し紛れの一言を放った。
「そうやんなぁ」「夏休み半分終わっちゃったもんなぁ」飯山が困ったような顔をしながら言った。
俺がうん、と短く答えると、飯山はじゃあね、手を振りながら階段を上がっていった。
いまさら気づいたが、こいつは今日もかなり薄着で派手な格好である。
俺は複雑な気持ちだった。
俺の中のイメージでは、飯山はあんな恰好をするような奴ではない。
清楚で真面目な優等生だったはずである。どうしてこんなことになったのだろう。俺には分からない。
もしかして恋をしたのだろうか。男にアピールしているのか。
夏期講習でこの予備校に通って数日間、いろいろな男子高校生を見てきたが、この予備校に通う男連中は、五割が俺とレベル的にはそう変わらないフツメン未満どもで、三割がどこまでも平均的な顔面偏差値五十前後の連中で、一割が見るに堪えない残念野郎どもで、残りの一割が神に選ばれた特権階級であるイケメンだった。
ここで仮にこの予備校のこの校舎に通う全男子生徒の人数を二百人と仮定すれば、特権階級はだいたい三十人である。
なんと恐ろしい。少なくとも三十人は候補者がいる。
しかも飯山は小佐野のような鬼畜ではない。三割のフツメンどもにもチャンスはある。
なんと候補者の多いことか。俺は狼狽した。今思えば何の意味もない行動であった。
性欲にまみれた獣のごとき思春期の男ども、特にフツメン未満の六割と何人かのチャラ男どもが、あいつのことをじろじろと、いやらしい目つきで見るのを見るのを思うと、俺は鼻持ちならない。断じてそいつらを赦せない。自分のことなど棚に上げていた。なんとお幸せな思考回路なのだろうか、と俺は今になって思う。
あいつはイメージ通りに、白基調のワンピースに淡い色のカーディガンでも着ていればいいのである。
そう、俺が久しぶりにあいつに会った時のように。
そんなふうに、全くもって身勝手で訳の分からないことを考えながら、俺は家路を急いだ。
高校の部活の友人である筑紫敏史が、午後から俺の家に来る予定になっていたのだ。
(第八章へ続く)