第二十章 桃色の脳内 続編
そろそろ夜の七時になろうかという時間帯、駅前はひどく混雑していた。
学校帰りの中高生、会社帰りのサラリーマンやOLの大群が、長く一列に並んでバスを待つ様子を見て俺は、アイドルの握手会につめかけたファンの大群を思い出した。
その列の横をぼんやり歩いていると、チェック柄のマフラーに半分隠れた、しばらくぶりに見る顔に遭遇した。飯山である。
飯山があっ、という顔をしてこちらを見て、軽く手を振って合図した。俺も手を振り返し、飯山のほうへ歩み寄った。
「夏以来やなあ」「時間が経つのは早いもんやね」
飯山が口元のマフラーを手で下げながら言った。俺は黙ってうん、とうなずいた。
―おかしいな。どうしてこんなに嬉しいんだろう。どうしてこんなに安心するのだろう。
俺はそんなことを思ったが、気の迷いに違いない、ということで片付けた。
「小村君ちゃんと勉強してる?」飯山は笑いながら言った。
「うん、必死こいてる」「お前に騙されて、かわいそうに」俺はそう言うと笑った。
「騙してないよ」「たぶん付き合うことはないと思うけど」飯山が真顔に戻った。
「どうして」「イケメンだよ?」俺がそう聞くと、飯山はまた笑いながら一言言った。
「あの子絶対むっつりスケベの変態だもん」
―なるほど、こいつにはすべてお見通しというわけか。
俺は飯山が怖くなった。俺のさっきの感情も読まれていたら、と思うと俺はひどく恥ずかしかった。
俺と飯山は一緒に笑った。悔しいが、妙に心が癒される。飯山が背を向けているバス停にバスが止まり、到着の合図のブザー音が鳴った。飯山は首だけを少し回して後ろを確認した。
「バス来たから行くね」「ま、もうこんな時期だしさ、お互い頑張りましょ」
そう言うと飯山は自分で自分の発言を確認するかのようにうん、とうなずき、俺の目を見てきた。
長い黒髪がふわっと揺れて、甘い香りが漂う。飯山の大きな瞳が俺の瞳をじっと見る。
俺はまたドキッとした。つくづく軽薄な男である。
「じゃ」飯山がそう言って、やってきたバスに乗り込んだ。バスの中の段差を登ったところで振り返り、こちらへ手を振った。
俺はあわてて手を振り返すと、また家へ向かって歩き出した。
時間にして一分ぐらいだったが、この一分はその時の俺にとっては何十時間もの価値があった。
この一分ほどの会話が、もしこの日に成立していなかったら、俺は今頃、予備校の大講義室にいたに違いない。それほど、俺にとっては大きな意味のある会話だった。
家に帰る途中、俺の頭はフル回転していた。
いったい俺にとって飯山とはどういう存在なのだろうか。村山とはどういう存在なのだろうか。
答えはとうとう出なかった。
そしてふと、自分はとんでもない女好きではないだろうか、という結論に至った。
結局俺は、いちずに一人の女性を愛し続ける、古き良き日本男児の魂を受け継いではいないようだ。
とんだ女好きであり、なのにさえない、モテない、神経性胃弱持ちの童貞である。
俺は笑うしかなかった。俺自身、そして俺の運命を笑い飛ばすほか、俺にできそうなことはなかった。
だがその笑いには、多少の明るい感情も含まれていたのだった。
(第二十一章へ続く)