第十九章 歪んだ達観
普通の心を取り戻したい、とは思ったものの、なかなかそういうわけにもいかなかった。
桐島の小村への「媚売り」はおさまっていたが、一度呼び起こされた劣等感や絶望感や人間不信の感情はなかなか心から出ていかない。
そして、村山の隣の席、というのは想像よりはるかにしんどい場所だった。
村山の純粋さとか、優しさとか、そういったものはその頃の俺にとっては心を癒すものである一方で心を傷つけるものであり、不安を増大させるものであり、まるで副作用の強い薬のようなものだった。
十一月中旬。
気候は日増しに寒くなり、いよいよ暖房器具が導入された。
暖房器具が導入されたため、誰も教室から出たがらず、結果として多くの生徒が学校に残って自習をしていた。
もしかしたらこれが学校側の狙いなのかもしれない。というより、たぶんそうである。
だが、さすがに五時を過ぎると残っている生徒の数はぐっと減り、教室には片手で数えられるほどの生徒しかいなくなる。
ある日の午後六時前、三年一組の教室でむさくるしい男ども五人が勉強していた。
先日の二者面談で、俺を含むここにいるメンバーの大半は志望大学のレベルを下げることを提案されていた。
長沢はT大薬学部をあきらめて他の国公立大の理工系学部化学系学科に進むことを勧められ、藤岡は致命的に文系教科ができないことから大幅な志望校ダウンを余儀なくされ、徳元は国立S大学の農学部まで志望校を下げていた。そして俺は、「K大なら受かる」と言われ、日増しにK大へ気持ちが傾きつつあった。
最終的に、いまだに志望校を下げていないのは、小村ただ一人だけだった。
その小村ですら、「トップ合格する」と息巻いていたのが、気が付けば最下位で滑り込む計画ばかり立てるようになっていた。
いよいよ、自分の実力に皆気づかされたのだった。夢を見る時間は終わりを告げた。
俺は、報われもしない恋愛にうつつをぬかした天罰を、今になって受ける羽目になったのだ。
あんまりだよな、と俺は呟いた。あんまりである。
恋愛も、受験もうまくいかなかったら、もはや俺はどうすべきだというのだろうか。
家の事情で浪人は不可能だから、「O大工学部卒、O大大学院工学研究科博士課程前期修了」というプラチナチケットを手に入れるチャンスを、俺はほとんど失ってしまったようなものではないか、と俺は思った。それどころか、K大ですら危ういのが今の俺である。
学力だけが俺の頼みの綱だった。自尊心を満たす唯一の手段だった。なのに。なのに。
俺はもはや絶望していた。だが、それと同時に、周りに「絶対受かる」と吹聴して回っていたK大にだけは落ちられない、と考えた俺は、必死で勉強していた。
もはや、「大学受験」は自分のちんけなプライドを守るための手段と化していた。
そして、十一月下旬のある日。
俺はこの日も放課後に居残って勉強していた。
だが、突然俺の手が止まった。ふと、無力感にとらわれた。
―俺は何をこんなに一生懸命になっているのだろうか。自分のゴミみたいなプライドの為だけに勉強して、何が楽しいというのだろう。勉強していい大学に入ったから幸せになれるというわけではない。断じてない。なら、どうして、俺は勉強するのだろうか。あらゆる面で才能に満ち溢れ、外見もよく、世渡りがうまく、可愛らしい彼女を連れて歩く奴が、世の中にはごまんといる。
そんな奴らからすれば、俺はもはやお笑い草でしかないのではないだろうか。
そう思うと馬鹿らしくなり、俺は荷物をまとめて家路についた。
遠回りをしようと思いつき、駅まで行ってみることにした。
今だからこそいえるが、もしこの遠回りがなければ、俺は今どうなっていたかわからない。
(第二十章へ続く)