第十五章 奇跡と悪夢は紙一重
夏休みが終わって最初の体育の授業。
俺の通っていた高校では、体育祭の学年種目では、一年生は盆踊りもどきを踊り、二年生は組体操をやり、三年生はフォークダンスで楽しく遊ぶ、というのがお決まりであった。
その練習が今日から始まるのである。
男子陣の多くは、合法的に女子の手を握り、腰に手を回せる機会を得て、謎のやる気を見せていた。
だが、俺は正直言って嫌だった。
理由は簡単、俺はさえない、モテない、神経性胃弱持ちの童貞野郎だからである。
相手になる女子も俺みたいなのじゃなくてイケメンがいいだろうに、などと考えるだけで俺は胃が強烈に痛み、今すぐにでもトイレに駆け込みたいくらい酷い状況に追い込まれたのだが、必死で我慢した。
多くの男子は「男と組む」というのをなんとしても避けたがっていたが、俺はむしろそっちのほうが気が楽である。そうなってほしい。
出席番号に従って男女一列づつに並ぶように指示があり、俺は出席番号がひとつ違いの滝川宗佑の姿を探した。そしてふと、この状況が最低最悪の状況を生み出しうることに気付いた。
たとえば俺が女子だったとして、あと一人ずれていたら滝川とペアを組めたところを、俺とペアを組むことになったら、俺は自分の運命を呪うだろう。てめえなんか男と組んでろよ、と思うだろう。
そんなことを考えていると、ただでさえ痛かった胃がさらに痛みだしたが、授業途中、みんなの目の前でトイレに行くのも恥ずかしいので、俺は必死で我慢した。
これで基本のペアは確定です、という体育教師の声が聞こえたので、俺は恐る恐る女子のほうを向いた。
俺の隣には、桐島美加が立っていた。
桐島の姿が目に入った瞬間、俺の胃にさらなる鋭い痛みが走ったが、なんとかこらえた。
腹痛のせいかもわからないが、一瞬世の中のすべてがスローモーションに見えた。
神様というのが世の中にもしいるとして、そいつはいったいどういう思考回路をしているのだろうか。
もしこれが半年前なら、俺は小躍りして喜んだだろうが、今の俺にとってこれは拷問以外の何事でもない。俺にとっても桐島にとっても、今の状況はとんでもなく不幸なことである。
しかも、あと一人ずれていたら、桐島の相手は滝川である。
俺は桐島から、滝川と合法的に手をつなぐ手段を奪ってしまったのである。
もう俺の胃は限界に達していた。痛すぎる。なんとかしてくれ。
隣で桐島がよろしく、とかなんとか言ったような気もするが、今の俺にはそれが幻覚なのか現実なのかさえ分からない。なんとか痛みがピークを越したころには、体育教師はダンスの振り付けの説明を半分くらい終えていた。
―しまった。前半の振り付けが全く分からない。
後半の説明を必死で聞いた後、俺は勇気を振り絞り、桐島に話しかけた。
「前半の振り付けがわからん」「眠くて聞いてなかった」
桐島がえっ、とこっちを見た。「あたしもよくわかんない」「聞いてくれてると思ってた」
なんと無責任な二人なのだろうか。仕方がないので、前の二人を見ながらたどたどしく踊った。
正直なところ、卑屈でネガティブな考えとか、変な気遣いさえ忘れてしまえば、これはかなり楽しい。
俺は今、学年屈指の美少女と手をつなぎ、半径50センチメートルほどの円の中に身を寄せ合っておさまり、そのうえ腰に手を回しているのである。
俺はその事実に、何も考えず酔い痴れることにした。その方が幸せになれると気づいたからである。
俺は桐島の白く透き通るようなうなじや控え目に膨らんだ胸元や細長く伸びた手足をちらっと見てはドキドキし、そのたびに自分を律する、ということを繰り返した。
ちょっとした会話も交わすようになった。それと同時に、桐島の視線が時々明らかに滝川のほうを向いていることに気づいて少し落ち込んだりもした。
とはいえ、気づかないうちに練習の時間が楽しみになっていた。そんな日々がしばらく続いた。
(第十六章へ続く)