2章【Ⅻ】 船出
「……来たぞ」
「思ってたより遅いわね。何して遊んでたのかしら」
ミストラルが停泊している港に、ヴェンと、その彼の手を引かれたシャイナが姿を見せる。先に刺客達をあしらい辿りついていた傭兵と狼は、月に照らされた樽の上でその安い物語の逃避行のような姿を眺めていた。
「ヴェルドナ、残念ながら飯は終わったぞ。残念ながらお零れは無しだ」
息を切らして辿りついたヴェンに対しての、ラリーの第一声がこれ。何とも緊張感のない言葉だが、逆を言えばこの状況でも余裕を持っているという事である。
「そんなのいらんね。こっちはこっちで済ましてきた。それこそ、お腹いっぱいに……な」
と言って、大きくため息。その息には色々と複雑な事情が混じっているのは、体験した本人以外には分からないだろう。
「ふーん。で、そっちの子がシャイナって子ね。随分と疲れてるっぽいけど、まだ動くわよ?」
「分かって……る。でも、ちょっと……休ませて。脇腹が……」
膝に手を付いてぜぇぜぇと荒く肩で息をする。魔法使いと言えど、特に体力が増えるわけでもなく、並の女の子のシャイナに大の大人の男に手を引かれ、それなりの距離を走ればこうなるのは当たり前である。
「まぁ随分と走ってたしみたいだしね。でも、もうちょいでゆっくり出来るわよ」
「したい物だな。ヴェルドナ、お前の船で逃げるぞ」
ラリーが指差す先には、既に帆を開き、錨を上げている最中のミストラルがある。今乗船すればいつでも動き始められるような状態。
「ったく俺の船だぞ。勝手に使いやがって……傭兵ってのは普通、雇い主に忠実なもんだろ?」
「船に乗せてもらったあの時からそのつもりだが。さて狼、お前はどうするんだ?」
リィーデに向けてラリーは、狼と称し問いかける。勿論帰ってくるのは答えではなく、コイツは何を言っているのという非難の表情と、呆れ気味の声。
「おおかみ……? それ、私の事?」
「戦ってる時の姿が狼みたいだったからな。それに、平常時も似てるからな」
傭兵が洒落や罵りを言う時は、鼻で笑いながら口元をニヤリとする。しきたりのような物なのである。この顔で何か言われると頭にくるという話は有名だが、これも例外なくそうであった。ラリーは傭兵の鏡かのように、そのしきたりを貫いて言い放った。
「……ふーん。まぁ、いいわ。それで呼んでも」
「……は?」
だが、帰って来た返事は予想外の物。それに、今度はラリーのほうが呆れてしまう。それもそうだ。普通、狼なんと言われてその呼び名を呑みこむ女の子なんて存在する物だろうか。怒るか開き直るかくらいの反応はするものだ。そう思ってからかった傭兵は、想定外の反応に驚いていた。まったく持って行動が読めない、と。
「よし、俺の船に乗るか。どうせあの連中共がまた追ってくるんだろう?」
「まぁそうね。中々粘着質だと思うわよ、あいつ等」
ラリーが一人立ち尽くしている間に、ヴェンとリィーデは先にミストラルのほうに向かって動き始めていた。その背中を見て暫く考えていると、ラリーの隣に自身より2回りほど小さい少女が、ロッドを杖にして立っていた。先ほどとは違い息が整っており、ロッドに体重をかけている以外は平常時となんの変わらない姿。だが、顔はどこかつまらなそうにしていた。
「ねぇ、いいの?」
「何がだ」
シャイナの主語の無い問い。少し悪戯っぽい口調であった魔法使い見習いのそれは少し可愛らしいくも感じるはずなのだが、ラリーは特に反応を示さない。
「えーと、名前は分からないけど。あの子、取られちゃうよ?」
「生意気な狼を手懐けるのは、海の上に浮かんでる船乗り風情では無理だ」
「おお……かみ?」
すました顔でラリーはそう言うと、シャイナは可愛げに首を傾けて、傭兵の意味の分からない言葉の意味を考えていた。同時に、傭兵というのはいい意味でも悪い意味でも、やはりどこか外れている、とも思っていた。
「何でもない。行くぞ」
「あ、ちょっと待って! まだ足が上手く動かないんだってば」
全員が船に乗船すると、一人の船乗りの声がそれを迎える。この危機的状況であっても手早く仕事をこなし、自身の調子も全く崩さないそして。妙に興奮する事もなく、焦る事もしない。彼の存在こそが、この船を動かしていると言っても過言ではないかもしれない。船長を差し置いて。
「船長遅刻ですよ。おかげで航海予定に見直しが必要じゃないですか」
「ったく、どいつもこいつも何なんだよ……。俺だって苦労してんだぞ」
からかうように嫌味を言うワンドに対し、頭を抱えて自分の頑張りを訴えるヴェン。事実シャイナを誘拐した魔法使いらしき男を追いかけ、中々激しい勝負をしていたのだが。
「ともかく、出港準備は整ってます。後は船長の唯一の見せ場のみです」
「唯一かはともかくとして……分かったぜ」
ヴェンはワンドからの報告を聞き終えると、改めて船に乗る個性豊かな面々を見る。全員がヴェンのそれに対し、一つ頷いて意思表示を見せる。
「おい、あいつらを出港させるな! この国から出すんじゃない!」
その時、港の通りから何人かの慌ただしい刺客が松明と武器を持って、ミストラルに向かって来ていた。どの顔も殺気立つ、というよりかは焦っているようである。
「あーら、まずそうなおかわりが来ちゃったわね。どうするスレイヤー、全員捌くってのも面白いかもよ?」
「面倒だな。それとも、狼はまだ腹が鳴ってるのか」
「まぁそうと言えばそうだけど、私質にはこだわるから」
「成程、同感だ」
刺客達は急ぎ忙しと港の桟橋に群がるが、ある一言が聞こえたと思うと次の瞬間にはその半分が海の中に憐れな姿で転落していた。見れば桟橋の表面は木のざらざらとした手触りでは無く、つるつるとした氷に覆われていた。
「じゃあ、残飯は処理しないとね」
その姿を、魔法使いの少女は小さく顔を笑わせながら見下ろしていた。
そして残るは、船を出港させるだけとなる。それを行うにはまだ一つだけ、やるべきことがあった。ヴェンは右足を樽にかけ、いつものように格好つけ叫ぶ。
「よし、ミストラル出港するぜ!」
そうしてミストラルはゆっくりとその大きな体を、水平線に半分日が顔を出した大海原に向けて動き始めた。