2章【Ⅶ】 違和感が走る
「ラリー、シャイナの様子は?」
一生に一度見舞われるか見舞われないかほどの嵐から、命からがら三人が逃げ出してから早くも五日が経った頃。ヴェンの船、ミストラルは砂漠が大部分を占める島国、レスターの首都エミンゲルに停泊していた。
レスターは王に実権は無しに等しく、富を手にした貴族達が中心となって繁栄している国。その格差社会は厳しく、奴隷商なども盛んである。勿論反対する人間もいるのだろうが、それが公になる事は無い。なる前に金の力でもみ消されるか、闇に葬られ存在すら消えてしまうから、である。
その中のエミンゲルは、レスターの中で数少ない……いや、唯一と言っていいか。街が広がり、市が並ぶ巨大な都市。世界一の商業都市と名高い賑やかで、活気にあふれている場所だ。
だが、レスターのほとんどは砂漠が永遠と続く辺境の地。そこで暮らす人間は水も限られ、昼は熱い日差し、夜は冷たい砂嵐が吹き荒れる厳しい環境で生活している。
光ある所にまた 影もあり
美点があるかぎり汚点は消える事は無い
それが世の常であり 哀しき現実なのである
そう、吟遊詩人は静かに詠うのだと言う。
「変わらないな」
「そうか……」
今回の嵐で、船は外装はおろか、帆、船底を始めとする多くの重要箇所に大きく被害が出ており、よくここまでたどり着いたと船大工にも心底驚かれていた。仕舞には、『あいつらの船は、実は幽霊船じゃないのか?』と、ちょっとした酒場のいい話のダシにまでされてしまっていた。
物理的な傷は時間と金を費やせば、どんな物でも大抵の場合は直す事が出来る。しかし、心の傷はそう上手くはいかない。いくら豪勢な食事をしても、高級毛布のベットがある宿に泊まっても、それは癒えない。溺れるほどの酒を飲んで酔いつぶれれば忘れられるかもしれないが、次目を開ければまた傷は浮かび上がる。それほどまでに大きい傷跡を、あの嵐は残していったのだ。
「まぁ、今はそっとしとくのがいいだろう。俺達にはそれを最善……いや、それくらいしか出来ないと言った方が、上手く当てはまるのかもな」
「ああ。にしても、人は無力だ。たった二人も助けられなかった。それどころか、一人に深い傷まで負わせてしまった」
「へっ、全く持ってその通りだよ」
と言い、大きめのジョッキに入っているウイスキーを口に流し込む。まだ朝飯の時間帯なのだが、このヴェンという男はどうも酒好きなのでこの時間からでも特に抵抗は無いらしい。
対するラリーも、付き合っているのか同じ大きさのジョッキを右手に持ち、左手に硬く、黒いライ麦パンを持っている。
「さてと、ずっとテーブルに腰を下ろして飲んでくれるのも中々一興だが、生憎やる事があるからな。飯食ったら、せっせと働くとするかな。勿論、手伝ってくれるよな?」
「俺は傭兵だ。願望なら、俺は動かないぞ」
真面目な顔でそう答えるラリー。ヴェンはそれに対し、苦笑し椅子から立ち上がりながら、こう返答する。勿論、鼻で笑いながら。
「じゃあ命令だ。仕事しろ、この傭兵野郎が」
「報酬の分は、な」
そう言って、ライ麦パンの最後の1欠片をウイスキーで流し込むのだった。
♦†♦†♦†♦†♦
「暑いな」
「ああ、この暑さは何回来ても慣れねぇな。自然の熱さじゃない、人の熱気って奴はよ……ん?」
「どうした、ラリー?」
「いや……」
ここはエミンゲルの商店街。眩しく照りつける昼の日差しに見舞われながら、人々は買い、売り、そして富を蓄える場所。そう、この場所こそ国の繁栄の要、商業都市の中心地。
日が傾き始めているかという時間帯。もう市が閉まる直前にもかかわらず、人は右往左往し、いかに自分が儲けられるか、どうしたら敵を蹴り落とせるのか、そんな方法を必死に模索しているようだ。
二人は朝から今現在まで、航海に必要な食糧を始めとする様々な品を買いも求めていたのだが、何故かどこも売る事を控えてきたのである。
「それにしても、普段から入手にはここまで困るもんなのか?」
回りの店のやり取りや、雰囲気を見る限り、この国が普段と様子が違う事は、容易に想像出来た。町全体が、よそよそしい空気でつつまれているのだ。そうなると、売ってくれない理由はかなり絞られてくる。
「いーや、問題が無ければ半日もかからず俺の船に積み込む分の量は手配できる」
「まぁそうだろうな。我ながら馬鹿な事を聞いた。さてヴェルドナ、今日はもう市も閉まる。この辺で諦めないか?」
「そうだな。さてと、ならこっちだ。ちょっとばかしいい所に案内してやるよ」
ヴェンが親指で指差した方向は、街外れの裏通り。人通りは無く、一日中日陰なのか、冷たい独特の空気で覆われていた。商店街の表通りに並ぶ酒場では無く、わざわざヴェンはこの場所を選んだ。
その理由はただ一つ。二人が先ほどから感じている違和感の正体を暴くため。
「さてと……、いい加減出てこいよ」
誰もいないはずの裏路地の影。そこを傭兵の経験で培った鋭い眼差しで睨めつけながら、ラリーはその暗闇に言う。だが、返事は無い。
「返事しないんだったらこっちから行くぞ、お嬢さん」
続いてヴェンが軽い調子で問いかける。だが右手はしっかり腰のナイフに触れており、警戒は全く解く事は無い。それでもなお、返答は無い。
「中々遊び心溢れてるじゃねぇか。だったら……それっ!」
ヴェンは脅しでは無いと証明するためか、腰のナイフを薄暗い路地に向かって投擲する。すると、それは金属と金属が衝突した高い音と共に地面に落下し、代わりに髪を三つ編みに纏めた銀髪の少女が姿を現した。
「やはりバレてたか。っま、こんなのも分からなかったら、とうに奴らに殺られてる、か」
そう彼女は笑うように言いながら、先ほどヴェンが投擲したナイフを器用に足でけり上げ、手でその柄を掴む。それをクルクルと手遊びしながら、ヴェンとラリーを試すような視線で見つめる。
「……」
ラリーは無言で腰の剣を抜き、少女にそのギラリと輝く切っ先を向ける。だが少女は動じる事はせず、強きな口調を崩さずに一歩ずつ、二人にじりじりと近づいていく。
「あーあー、そんな物騒なモン向けないでよ。別にアンタらを付けてるのはただの興味心であって、殺すつもりも物取りするつもりも無いからさ。ホラ、これ落とし物」
少女は喉元に突き付けられている剣に臆する事無く、先ほどのナイフの柄をヴェンに向けて差し出す。普通、このような状況で武器を返すなどという事は、どう考えても馬鹿としか言いようがない行動。それを理解してか、ヴェンは軽く苦笑しながらそのナイフを受け取り、元の位置に戻す。
「ほー、なら、ちょいと聞きたい事があるんだが。どうだ? 酒でも飲みながら」
「おー、話が分かる男だね」
「おいヴェルドナ。一日中俺達を付けてた女だぞ? 信用もあったもんじゃない」
傭兵の経験上からの教訓からか、ラリーがきつめの口調でヴェンに反論する。が、ヴェンは人差し指を立てて、ラリーの口の前にあてて言う。
「いやいや、折角いいお嬢さんがお誘いに乗って下さってるんだ。それに、お前は俺に雇われてるんだろ? だったら護衛でもしてくれよ」
こう言われては、事実上雇われの身のラリーは何も言い返せない。傭兵とはそういうものだ。捨て駒にされようがどうしようが、雇い主には逆らえない。ラリーは仕方なく少女に向けていた剣を下ろし、鞘にその刃を戻す。
「でもよ、名前くらいは聞いておかねぇとな。俺はヴェルドナ・クァイス、ヴェンって呼んでくれ。ほら、お前も自己紹介くらいしろよ」
未だに少女を睨みつけていたラリーだが、ヴェンに促され仕方なさそうに軽く挨拶をする。
「俺の事はスレイヤーと呼んでくれ」
勿論、スレイヤーというのは偽名である。本名を教えないのは、信用していないという心の現れだった。
そんな雰囲気を察した少女は、つまんない男とばかりに目で睨みつけてから、咳払いをする。
「ふーん、こっちは愛想が無いね。でだ、私はリィーデ・ランスリー。まぁ、よろしく」
そう言って、少女は小悪魔のような不気味な笑いを見せた。