2章【Ⅵ】 見知らぬ大地
「二体か。一人一体で丁度いいな」
「そうね。さぁて、どっちが先に倒せるでしょうかってねぇ。あ、後の方は今晩の見張りね」
二人は今、山に生い茂る深い森の中を進んでいた。木々の隙間からは頭に雪を被った山が顔を出し、開けた場所を見れば、二人が流されてきた広大な海と、それに流れ出る途方もなく長い川を覗く事が出来る。
一般的に言えば絶景と呼べるほど美しい物なのだろうが、今の二人からしてみればただの忌々しい大自然の象徴である。人の息がかかっている街並みが、恋しく感じているような状況でもある。
遭難しているからと言えば、当たり前なのだろうが。
「いいだろう。約束は守れよ?」
「勿論」
二人の前に立ちはだかる魔物、ホーンディーア。鹿のような体を持つが、体長は背中の高さがリックの胸の辺りまであり、頭はほぼ同じ高さ。自身の首とほぼ同じ長さを誇る、先端が鋭く尖った二本の角を武器に戦う凶暴な魔物。その角は様々な物に流用出来、工房を始め様々な職人からは貴重とされている。腕の立つ者が加工すれば、それは軽く、強度は鉄以上。そして繊細でとても美しくなる、とまで言われるほど。
人とは欲深いものであり、その角を狙って幾人がホーンディーアを狩りに行くのだが、その凶暴さと強い戦闘能力が故に、返り討ちに遭う者が後を絶たないという。
「ねぇリック。コイツらの肉って、確か相当上手いんだよねぇ?」
鍔に親指を立て、ホーンディーアを見ながら、アイラは目を輝かせそう言う。ここ数日、肉に有りつけていなかったためか、それに有りつけるのに期待した声。貴重な角を前にしても、食のほうが優先というのにリックは内心笑ってしまう。自分も同じというのも、それを後押ししているのだが、
「ああ、俺も食いたいもんだな。ホーンディーアのフルコース。逆に、俺達がフルコースにされるかもしれないけどな」
リックの言葉に反応するかのように、二体のホーンディーアは興奮した鳴き声を上げ、その強靭な角を二人に向ける。思わず、反射的に一歩身を引いてしまう。
汗が滲む手で剣を抜き、構える。それを節目に、一体のホーンディーアが砂埃と蹄音を上げながら、リックに襲いかかる。四本の足による、全速力の突進。そのままの勢いで角が刺されば、間違えなく肌色の皮膚を貫通し、体内の臓器を破壊するだろう。
つまりは、即死。
「当たってたまるかよ!」
ホーンディーアの突進を、右へのサイドステップでリックはかわす。標的を失ったホーンディーアは、力の行き場を失い、急停止する。すぐにその勢いを殺したのは誤算だったが、リックはその隙を突き、剣を振り上げ、縦切りを仕掛ける。
「ウソだろっ!?」
しかし、ホーンディーアは砂煙を立たせ素早く反転。前足に体重を掛け、リックに標準を定める。勢いよく切りかかったリックにそれをかわす余裕は無く、砂埃の中から現れた後ろ足に吹き飛ばされ、背中を大木に強打する。
「……っ!」
息がつまり、声の無い空気を吐き出すだけの悲鳴を、リックは上げる。ホーンディーアがそのチャンスを逃すわけ無く、すぐさま方向転換し襲いかかる。
「食らえ!」
素早い攻撃に立ちあがる事も許されないリックは、渾身の力で自身の剣を投げつける。ホーンディーアの額にそれは命中し、減速する。尻を地面に付けた体勢からの投擲だが、一時的に動きを止めるには十分だった。
「うおおぉぉぉぉ!」
額に当たり、地面に落ちた剣を、リックは突撃すると同時に拾う。目の前に迫られたホーンディーアは、前足を上げ、蹄を振り下ろそうとする。だが、リックにとっては最大のチャンス。ここぞとばかりに空いた懐に入りこみ、剣を斬り上げる。
剣がホーンディーアの腹を切り裂き、噴出した赤い返り血をリックは浴びる。ホーンディーアは痛みで甲高い鳴き声を上げ、その場に倒れる。だが、ホーンディーアは深い傷を受けながらもなお、そこから立ち上がろうとする。眼光は今もなお、殺気に満ち溢れていた。
「……」
リックはとどめを指すべく、剣の柄を両手で持ち、ホーンディーアの喉元に剣先を向ける。そのまま腕を振り上げ、剣先をホーンディーアの皮膚に向かって振り下ろした。
「とどめだ!」
冷酷な言葉と共に下ろされた剣は、その喉元をいとも簡単に貫いた。あれほどまでに脅威だった魔物も、こうなってしまえばただの鹿と変わらない。絶命の鳴き声を上げ、二、三回痙攣すると、ホーンディーアは虚しく、その場で事切れた。
「どーやら、私のほうが早かったみたいねぇ。さぁーて、今晩の見張りはよろしく」
リックの背中に、勝利に満ちた高飛車な声が当たる。振り向けば、返り血を服に浴びたアイラがいたずらっぽい笑みを浮かべ、立っていた。
「お前、随分と余裕そうな顔してんのな」
だが、よくよく観察すれば肩で息をしており、どう見ても強がり……よりかは、見栄を張っているという事は、容易に予想出来た。
「当たり前でしょ。アンタよりよっぽど強いんだからねぇ。あれくらい楽勝よ」
「ふざけるな。勝負は五分五分だろうが」
「な……、1本は無効試合よ。だから私の勝ち越し」
―――調子がいい奴だな。
そう思いつつも、無事なアイラの姿を確認してリックは少し安心したのだった。
アイラも内心では同じ事を思っているのに、リックは気付く術は無いのだが。
「ちっ、しょうがねぇな……。さてと、今日の寝床は……、あの洞窟みたいなのでいいよな」
リックが一つの洞穴
日の半分は既に山の中に隠れ、気温も徐々に下がり始めていた。山の気候というのは、気温の上がり下がりが女のように激しいのだ。なので、生身で外で寝るなどという事は、自ら風をひきにいっているような物。
幸い、この辺り一帯は地殻変動の影響なのか、洞穴のような所がいくつもあり、寒さのせいで寝床に困る、という事はあまりなかった。
中で火を焚き、食事を済ませた二人。服の血は草の葉で拭き取ったが、まだかなりの赤黒い返り血の後が残っている。どの道これ以降も浴びる事になるだろうと思い、二人はそこまで気にはかけなかった。
特にする事もなく、ふとアイラの顔を見たリックは、顔色があまり良くない事に気づく。俯いて、どこかぼーっと遠くを見ていた。
「お前、やっぱり治りきって無いだろ」
「別にもう大丈夫……って、え?」
アイラが話しかけられた質問に反応する頃には既に、リックの手のひらが自身の額にあった。突然の事に唖然とするしかなかった。
「……」
「やっぱ熱っぽいじゃねぇか」
妙に冷たく、そして大きい手。それは男の手であって、異性の手。そしてアイラは女なのである。リックはそんな事にためらわず、こうした行動を起こしている。アイラはどうしてか、悪い気はしていなかった。
ただそれを素直に受け取れるかと言えば、そういう訳でもない。
「つっても、薬も無いからどうしょも……って痛てぇな!」
「勝手に触るなっての! 私は寝るから、見張りきちっとしてなさいよ」
リックのその軽率な行動に、アイラはリックの肩に思いっきり拳を振りかざし、額の手を振り払う。決して本気で怒っているわけでは無いのだが、はたから見れば男が女の身体にいきなり触れるなど、恋人でも無ければ普通ではない。
アイラは背中を向けて寝そべると、黙り込んでしまった。リックに悪気は一切無いのだが、いつもその親切は裏目に出てしまう所が傷なのである。
「ちょっとくらい、こっちに頼ったらどうなんだ……まぁいっか」
一人言をアイラの背中に投げかけながら、リックは焚き火の前の石に腰を落ち着ける。今晩は見張りだ。
やる事もなくしばらくぼーっとしていると、今日倒したホーンディーアから取った皮をリックは取り、それをナイフでなめし始める。
上質の皮をナイフで擦る独特の音と、焚き火がパチパチ鳴る音が洞窟に静かに響いた。
「今晩は冷えそうだな……」
そう、小さく呟きながら、リックはひたすらそれに没頭するのだった。