序章【Ⅷ】 小さな旅の終わり
「向かい風か……」
大海原に吹く風で、バンダナからはみ出た緑色の髪が揺れる。腕を組み、海の様子をまじまじと観察する姿からは、長い旅で培った風格が感じられた。
「ねぇヴェン。向かい風って、大丈夫?」
シャイナが心配そうに、船首にいるヴェンに寄ってきた。ヴェンはその声に振り向くと、狩りに成功し土産を持って帰って来た狩人のような得意げな顔になって、話し始めた。
「帆船は読んで字の如く、帆に風をあてて進む船。前に進むには後ろからの風がいるのは必然だ。向かい風になれば、どうなる?」
「そりゃ、向かい風だったら進めないでしょ」
シャイナは当然の返事をする。実際に、今、船はほとんど動いていない。が、ヴェンはそれを聞いて二ヤリと笑みを浮かべ、人差し指を立てて、舌で音を立てながら左右に振る。
「帆船ってのは、向かい風に向かって進むんだ」
「向かい風に進む…? そんな事出来るの?」
「まぁな。よしお前ら! “ヤード”を動かせ!」
甲板の中心で、使いこまれたロープを持って、並んでいる男達に、ヴェンが指示をする。人数は九人。その中にリックも混じっていたが、シャイナはあまり気にしない。
「オッサン! 俺まで子分呼ばわりか。ふざけんな!」
「へっ、賭けに負けたお前が悪いんだろうが! 今日一日せっせと働きな!」
とか言って不満を垂らしてはいるが、何だかんだでリックは他の男達と楽しそうに仕事をしている。
因みに賭けというのは、いつかの酒の飲みあいの事である。リックは見事に酔いつぶれている。
「で、ヤードって何?」
「ヤードってのは、マスト……つっても分からないよな。マストってのは柱の事な。前からフォア、メイン、ミズンマストって言うんだ。んで、海面と水平についている棒、あれがヤードだ。帆を張るのに使う。んで、今風向きに合わせてヤードを調節してるってわけだ。それでだが……」
ヴェンが船の仕組みを、熱く語り始める。ボウ、スターン、スル、リギン。別の言語のような言葉がシャイナの耳に飛び込んでくる。意味も一つ一つ、詳しく説明しているようだったが、シャイナにとっては、意味不明の単語の組み合わせにしか感じられていなかった。
かろうじでシャイナが理解できたのは、向かい風でも船が進む理由。風に向かって斜めに帆を当てることでジグザグに進む、ということだけだ。
「シャイナ! おっはよ~」
「あ、アイラ。やっと起きた」
「もう一人のお嬢さんのお目覚めか」
もはや聞き流し状態にも関わらず、その場から抜け出せないシャイナに助け舟。アイラの遅い起床のおかげである。髪は寝起きのためか少々崩れていたが、トレードマークの白い鉢巻はかかさず付けていた。
そして、少し離れた所からアイラを見るリックには、もう一つのトレードマークも見えていた。それは一昨日の夜知った―――胸から下げた、二つのガラス玉から成るネックレス。直視出来ないであろうそれを、リックは服越しに見ていた。
だがそれも、船員一人の声によって見えなくなる。自分がアイラから目を逸らしたから。
「どうだ? 俺の船の……」寝心地はどうだった? と、続くはずだったのだが、それを待たずに強烈な返事が、アイラからヴェンに、返ってくる。
「最悪」
女王が奴隷を見下すような視線で、アイラはそう言い放った。
「何でだよ! 一番いい船室なんだぞ!」
「いや、とりあえずアンタの言った事には、否定したほうが面白いから。ねぇ」
苦笑しながらアイラは言う。アイラもリックもヴェンより年下なのだが、態々会話をする時は馬鹿にするような言葉を選ぶ。ヴェンもあながち、本気で嫌がっているわけでもないのだが。
「あ、そういえば壁に引っかかってた絵、落ちてそのままになってんだけど、いい?」
「ふざけんな! あれは必死こいて手に入れた奴なんだぞ! くっそおぉぉ!」
と言い、ヴェンは船内に向かって、全速力走り出す。が、すぐに甲板で足を滑らせ、荷物が重なっている所に、騒音と共に頭から突っ込む。その姿は滑稽で、見ている人を楽しませてくれる。
「なあワンド、オッサン蹴っていいか?」
「だったら仕事してくれ。やる事はまだ残ってるぞ」
「りょーかい。んで、今度は何を?」
目の前に突っ込んできたヴェンに対して、リックは全く心配しない。むしろ追い打ちをかけようと、していた。船員も、全く動じない。それだけ、普段からこうなんだと思わされるアイラとシャイナ。そう考えると、先ほどよりも増して、面白くなってしまう。
「アッハッハ! バッカじゃないの? 頭から突っ込んだよコイツ」
「ホント馬鹿ね……。ったく、どうしょもない人」
そんな賑やか航海も出発してから一週間ほどで終わり、目的地シフランの港に到着した。
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シフランは大陸の東を領地にし、領地の多くが森で作られている国、ディースの首都である。治安の良さは世界の中でも最高峰。気候と地形にも恵まれ、とても活気のある城下町が広がる。町は塀で囲まれ、魔物からの攻撃もほとんど無く、安全。そして何より、魔法文化が盛んな都市としても、有名である。
霊石、魔道書を始め、様々な魔法分野の研究が進められている。著名な魔法使いの多くも、この国で探究を続けている。
「じゃあ、私は行くけど、一緒に来る?」
下船するなり、シャイナは楽しそうな声で、そう言う。
気分が高ぶっているその姿は愛らしく、“女の子らしい”とはよく言った物だ。
「ここまで付き合ったら、最後まで行くさ。因みにどんな人なんだ?」
あ、そう。聞きたい? また随分と嬉しそうな声で聞いてくる。アイラはその可愛らしい反応に思わず苦笑する。もちろん、シャイナに見えないように、リックの後ろでこっそりとだ。
「私のお師匠様!」
ここで一人の旅の目的が果たされ、それが終わろうとしていた。