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ちいさな悪役令嬢リゼット

悪役令嬢は、欲しがり妹に全部あげませんわ!

作者: 夏白 薫
掲載日:2026/09/28

「リゼットおねえさまー!」


 春の陽射しが降りそそぐアルヴェイン公爵邸の玄関前に、元気いっぱいの声が弾けた。

 石畳の上で、馬車の車輪がきしんで止まる。扉が開いた、その直後だった。


 アプリコット色を帯びた淡い金髪が、ぴょこん、と飛び出す。


「フローラ!」


 出迎えに立っていたリゼットも、ぱっと顔を明るくした。


 フローラ・アシュフォード。


 リゼットより一つ年下の、四歳の従妹である。

 普段は父親と領地で暮らしているので、会えるのは時々だけ。

 けれど、会えばいつも――。


「リゼットおねえさまー!」


 全力で走ってくる。今日もそうだった。

 クリーム色のドレスの裾をぱたぱたさせて、フローラが駆けてくる。

 小さな足では歩幅が足りず、走っているというより、ほとんど小走りだ。


「そんなに走ったら転びますわ!」


「だいじょうぶ!」


「だいじょうぶでは――」


 言い終わる前に、フローラがリゼットへ飛びついた。


「おねえさま!」


「きゃっ」


 ぎゅうう。


 おなかにぶつかってきた身体は、ぽかぽかと温かい。日向のにおいと、ほんのり甘いミルクの匂いがした。

 リゼットは少しだけよろめく。


 それでも、なんとか踏ん張った。


 今日は自分がお姉さまなのだ。


 転んではいけない。


「もう。フローラったら、あいかわらずですわね」


「会いたかった!」


「わたくしもですわ」


 リゼットはちょっぴり得意げに胸を張った。くすぐったいくらい、嬉しい。

 いつもは自分が、エレオノーラの後ろをついて歩く側だ。

 けれど、フローラと並ぶと、自分のほうが少しだけ背が高い。


 手も、ほんの少し大きい。


 五歳と四歳。


 たった一歳。


 されど一歳。


 今日はなんだか、とてもお姉さんになった気分だった。


「フローラ。お屋敷のなかへ行きましょう。お母さまたちがお茶を――」


 そこまで言ったところで。


 フローラの丸いコーラルピンクの瞳が、きらりと輝いた。


「それ、かわいい!」


「え?」


「それ!」


 小さな指が、リゼットの髪を指す。太陽の光に当てられて柔らかく光る淡い金髪の横で、ネモフィラの様な鮮やかな青のリボンが風に揺れていた。

 朝、侍女と一緒に選んだお気に入りだ。つるりとした絹の手ざわりが好きで、さっきから何度も触っている。


「このリボンですの?」


「うん!」


 フローラが、ぴょん、と跳ねる。


「わたしもほしい!」


「え?」


「これは、わたくしの――」


「あっ!」


 今度は別のものを見つけたらしい。

 フローラの視線が、すとん、と下がる。


「おはな!」


 ドレスの胸元には、小さな布の花が飾ってある。


「これですの? これは、侍女がわたくしのために縫って――」


「わたしもおはなつける!」


 にこにこ。満面の笑みである。


「それから――」


 フローラの視線が、さらに下がった。


 嫌な予感がした。


「おくつ!」


「…………」


「わたしもそれがいい!」


 リゼットは自分の靴を見下ろした。


 白い革靴。


 つま先に、小さな青い花がついている。


「……フローラのお靴も、かわいいですわよ?」


「でも、おねえさまのやつがいい!」


「そ、そうですの」


 リゼットは笑った。


 少しだけ、頬が引きつった。


 けれど、まあ。


 久しぶりに会ったのだから、きっと嬉しいのだ。

 リゼットだって、エレオノーラが新しいドレスを着ていたら、つい見てしまう。

 だから、これくらいは普通。


 普通。


 ……たぶん。


 そう思えたのは、最初だけだった。


 サロンの窓辺では、白いレースのカーテンがふわふわと揺れていた。

 お茶の時間である。テーブルの上には、焼きたての小さなタルトが並んでいる。


 艶のある赤い苺。


 ふわりと香るバター。


 まだほんのり温かい生地から、甘い匂いが立ちのぼっていた。


「おいしそう!」


 フローラが身を乗り出す。


「料理長が、フローラが来るからって作ってくださったんですの」


「じゃあ、わたしこれ!」


 フローラが指をさした。


 リゼットのお皿を。


「……こちらにもありますわよ?」


「おねえさまとおなじの!」


「全部おなじですわ」


「これがいい!」


「…………」


 リゼットは、自分のお皿を見る。


 それから、フローラを見る。


「……どうぞ」


「わーい!」


 交換した。


 まったく同じ苺のタルトと。


 フローラは大満足である。


 さくり。


 自分のタルトをかじると、バターの香りと苺の甘酸っぱさが、口いっぱいにひろがった。


 おいしい。


 とてもおいしい。


 なのに、なんだろう。


 胸の奥に、苺の種みたいな小さな引っかかりがある。


 お茶のあと、二人はリゼットの部屋へ移った。


「今日は特別に、わたくしのお人形を見せて差し上げますわ!」


「ほんと!?」


 これはリゼットの自慢だった。


 窓から光がさしこむ棚の上には、大切な人形たちがずらりと並んでいる。


 華やかなドレスの令嬢。


 剣を持った騎士。


 王子様。


 そして最近、リゼットが一番気に入っているのは、濃い紫色のドレスを着た令嬢の人形だ。


「この子は、とっても強い悪役令嬢ですの!」


「かわいい!」


「そうでしょう?」


「ほしい!」


「…………」


 ぴたり。


 リゼットの笑顔が止まった。


「これは、わたくしのお人形ですわ」


「あっ、こっちもかわいい!」


「それも、わたくしのですわ」


「これもほしい!」


「…………」


 リゼットの青紫色の瞳が、ゆっくりと細くなった。


 リボン。


 お花。


 お靴。


 お菓子。


 お人形。


 朝からずっと、フローラが欲しがるものは、リゼットのものばかりだ。


(……なんだか)


 胸の奥が、ざわりとした。


(この感じ、どこかで……)


「リゼットおねえさま?」


 リゼットは無言で、腰に挟んでいた扇へ手を伸ばした。

 エレオノーラから譲ってもらった、濃紺の大きな扇。縁にはレースと薔薇の飾りがついている。

 リゼットの宝物であり、悪役令嬢には欠かせない、大切な道具である。


 ばさっ!


 勢いよく開く。顔がすっぽり隠れて、青紫色の瞳だけが、扇の縁からのぞいた。


 すると。


「わあああ!」


 フローラのこぼれそうなほどの大きな目が、今日一番に輝いた。


「それ!」


「…………」


「それもほしい!」


 ぴたり。


 リゼットが固まった。


(それも……?)


 リボンも、お花も、お靴も、お菓子も、お人形も。


 そして――扇まで。


 そのとき。


 リゼットの頭に、昨夜読んだ恋愛小説の一場面が、ちらりと浮かんだ。


『お姉さまのものなら、なんでも欲しいの』


「…………まさか」


「?」


「なんでもありませんわ!」


 ぱちん、と扇を閉じる。


 手のひらが、じんわり汗ばんでいた。


「フローラ。ちょっとだけ、お庭で待っていてくださる?」


「なんで?」


「わたくし、確認しなくてはいけないことができましたの」


「わたしもする!」


「だめですわ! これは、悪役令嬢の極秘調査ですの!」


「ごくひ?」


「そうですわ!」


「わたしもごくひする!」


「ですから、ついてきてはだめですの!」


 リゼットは近くにいた侍女を呼び、フローラをしばらく庭へ連れていってもらうことにした。


「お姉さまもくる?」


「あとで行きますわ!」


「じゃあ待ってる!」


 侍女と手をつないだフローラが、部屋を出ていく。


 ぱたん。


 扉が閉まった。


 急に、部屋が広くなったみたいだった。時計の音だけが、こち、こち、と聞こえる。リゼットは、そろりと扉へ近づき、耳を当てた。ひやりとした木の感触。その向こうで、フローラの足音が遠ざかっていく。


 よし。


「いまですわ!」


 くるりと振り返る。向かう先は、壁際の本棚だ。床に膝をつき、背表紙を一本ずつ指でなぞる。


 ざらり。


 つるり。


 革と布の手ざわりが、指先を順番に通りすぎていく。


「あった!」


 引き抜いたのは、赤い革表紙の恋愛小説だった。寝台によじ登る。


 ぱら。


 ぱらぱら。


 古い紙とインクのにおいがふわりと立って、急ぐ指がページをめくる。


「ありましたわ!」


 そこにいた。


 ――欲しがり妹。


 姉のリボンを欲しがった。


 姉のドレスを欲しがった。


 姉の宝石を欲しがった。


 そして最後には――。


『お姉さまの婚約者も、わたしにちょうだい?』


「…………」


 リゼットの顔から、さっと血の気が引いた。今日のフローラが、次々と頭に浮かぶ。


『わたしもほしい!』


『おねえさまのやつがいい!!』


『それもほしい!』


 ぱたん。


 リゼットは本を閉じた。


「……まちがいありませんわ」


 ごくり。


 唾を飲みこむ。そして、青紫色の瞳をかっと見開いた。


「きましたわ……!」


 扇を手に取る。


 ばさっ!


「欲しがり妹ですの!」


 妹ではなく従妹だけれど。そこはだいたい同じである。


「……たいへんですわ」


 リゼットは青ざめた。


「このままでは、アレクシス様まで取られてしまいますの!」


 これは一大事だった。


リゼットは、もう一度、恋愛小説を開いた。ねだられるたび、物語の姉は、なんでも譲っていた。そうして最後には、大切なものまで奪われてしまったのだ。


「…………」


 リゼットは考えた。


 眉間に皺を寄せる。


 腕を組む。


 五歳の頭で、一生懸命考える。


 そして。


「わかりましたわ!」


 ぱっと顔を上げた。


「なんでもあげるから、いけないんですの!」


 つまり。


 だめなものは、だめ。


 そう言えばいい。


「ふふふ……」


 リゼットは扇を構えた。


「わたくし、悪役令嬢として、欲しがり妹にきっちりわからせて差し上げますわ!」


 ばさっ!


「なんでも思いどおりになると思ったら、大まちがいですの!」


 完璧だった。


 少なくとも、本人はそう思った。


 第一の対決は、その日の午後にやってきた。庭に出ると、芝生が日差しを吸って、ほんのり温かい。


「リゼットお姉さま!」


「なんですの?」


「そのリボン、ほしい!」


 きた。


 リゼットの目が、きらりと光った。


 いつもならたぶん、「いいですわよ」と言ってしまう。

 フローラは可愛い従妹だ。欲しいと言われれば、貸してあげたくなる。


 けれど。


 今日のリゼットは違う。


 立派な悪役令嬢なのだから。


 ばさっ!


「だめですわ!」


 フローラが目を丸くした。


「……だめ?」


「だめですの!」


「なんで?」


「これは、わたくしのだからですわ!」


「…………」


 言った。


 言えた。


 リゼットの胸の中に、ふつふつと喜びがわき上がる。


(わたくし……)


 扇を持つ手が、わくわくで震える。


(とっても悪役令嬢ですわ……!)


 なんという悪さ。欲しいと言われたのに、あげなかった。

 これはもう、かなり悪役令嬢なのではないだろうか。


 ところが。


「……そっか」


 フローラの肩が、しゅん、と下がった。


「おそろい……したかったの」


「…………」


 扇が。


 すこしだけ、下がった。

 

ふっくらとした丸い頬。

 いつもはきらきらとした目の上で上がっているのに、今は下がった眉。

 さっきまできらきらしていたコーラルピンクの瞳が、足もとの芝生を見ている。


「……でも」


 リゼットは扇を持ち直した。


 だめ。


 ここで渡したら、負けなのだ。


 恋愛小説のお姉さまと同じになってしまう。


「同じものは、だめですわ」


「うん……」


「でも……」


 リゼットは、自分のリボンに触れた。

 絹がつるりと指をすべる。


 それから。


 何かを思いついた。


「ちょっと待っていてくださいませ!」


 ぱたぱたと部屋へ走る。

 リボン箱を引っぱり出して、蓋を開けた。


 赤色。


 緑色。


 桃色。


 白。


 黄色。


 たくさんのリボンが、ふわりとほどけて足元に広がっていく。


「これではありませんわ。これも……ちがいますの」


 一つずつ、持ち上げる。


 やがて。


「あ!」


 見つけた。


 自分のネモフィラのような青いリボンより少し明るい、アクアマリンを思い出させる水色のリボン。


 よく似ている。


 でも、同じではない。


「フローラ!」


 リゼットは、それを握って庭へ戻った。


「これを差し上げますわ!」


「リボン?」


「そうですの。わたくしのとは、ちょっとだけ違いますけれど」


 リゼットは自分の青いリボンを指した。


 次に、手の中の水色のリボン。


「これなら、いっしょですわ!」


「……おそろい?」


「そうですの!」


「おそろい!」


 ぱあっ。


 フローラの顔が、朝の光みたいに明るくなった。


「つける!」


「では、わたくしがつけて差し上げますわ」


 リゼットは、フローラの後ろに回った。


 ところが。


「……むずかしいですわ」


 結べない。

 自分ではいつも侍女にやってもらっている。フローラの髪はふわふわで、指のあいだから、するりと逃げてしまう。


 絹のリボンも、つるつるとほどける。


「むぅ……」


「リゼットお姉さま、まだ?」


「いまやっていますの!」


 三回目で、なんとか形になった。


 少しだけ曲がっている。


 けれどフローラは、噴水の水面に映る自分を見た瞬間、嬉しそうに笑った。


「おそろい!」


「ふふん」


 リゼットは胸を張った。


(見事ですわ)


 欲しがり妹を退けた。しかも、泣かせていない。

 完璧である。

 実際には、年下の従妹に似合うリボンを、一生懸命選んであげただけなのだが。

 リゼットは、まったく気づいていなかった。


 しかし。


 本当の戦いは、ここからだった。


「リゼットお姉さま!」


「なんですの?」


「それ、ほしい!」


「これはだめですわ!」


 即答だった。


 フローラが指さしているのは、濃紺の大きな扇。


 これだけは絶対にだめ。


 エレオノーラから譲ってもらった、リゼットの宝物だ。


「これは、お姉様からいただいた大切なものですの!」


「ばさってしたい!」


「だーめーでーすーわ!」


「したい!」


「だめ!」


「むぅ……!」


 二人で睨み合う。


 五歳。


 四歳。


 どちらも一歩も引かない。


 やがて、リゼットは腕を組んだ。


 扇の骨が、腕の中でかたりと鳴る。


「……ばさって、したいんですの?」


「うん!」


「わたくしみたいに?」


「うん!」


「…………」


 リゼットの目が、きらりと光った。


「でしたら!」


 使用人に頼んで、子どもの手でも持てる小さな扇を用意してもらった。


 薄いクリーム色。縁には、小さな薔薇の模様。


 リゼットのものとは、全然ちがう。


 けれど。


「わあ!」


 フローラは、両手でそっと受け取った。


「わたしの? リゼットお姉さまとおそろい?」


「扇がおそろいですわ!」


「おそろい!」


「ただし!」


 リゼットが人差し指を立てる。


「扇というものは、ただ持てばいいのではありませんの」


「?」


「こう持つんですわ」


 リゼットは姿勢を正した。


 背筋をぴん。


 顎を少し上げる。


 そして。


 ばさっ!


 大きな扇を開く。


「こうですの!」


「こう?」


 ぱさっ。


 フローラも開いた。


「もっと優雅にですわ!」


「ゆーが?」


「とっても悪役令嬢っぽく、ですの!」


「わかった!」


 分かっていなさそうだった。


 ぱさっ。


 ばさっ。


 ぱさっ。


 ばさっ。


 何度も繰り返すうちに、リゼットの腕がぷるぷると震えてきた。

 大きな扇は、思っていたより重い。

 でも、ここでやめては、お姉さまの名がすたる。


「できた!」


「なかなかですわ!」


 フローラが嬉しそうに笑う。


 その顔を見て、リゼットもなんだか嬉しくなった。

 教えるというのは、少し楽しい。

 自分の知っていることを、フローラができるようになると、胸のあたりがむずむずする。


 なんだか。


 ちょっとだけ。


 エレオノーラになったみたいだった。


 ――そのとき。


「リゼット」


 聞き慣れた声がした。


 振り向く。


 庭の向こうから、銀金色の髪の少年が、芝生を踏んで歩いてくる。


「アレクシス様!」


 穏やかな緑色の瞳が、木漏れ日の中でやわらかく細められる。


「何してたの?」


「フローラに、扇の使い方を教えていましたの!」


「そうなんだ」


「アレクシスさま!」


 フローラが叫んだ。


 ぴたり。


 リゼットの笑顔が止まった。


(きましたわ)


 恋愛小説では。


 ここからだ。


 リボン。


 ドレス。


 宝石。


 そして、最後に欲しがるもの。


 婚約者。


 フローラが、アレクシスの前へ走っていく。


「アレクシスさま!」


「こんにちは、フローラ」


「リゼットお姉さまの、こんやくしゃ!」


「そうだよ」


「じゃあ――」


 リゼットの指が、扇をぎゅっと握った。その指先が緊張で白くなっていく。


 いよいよ。


 ついに。


 婚約者まで――!


「わたしも、こんやくしゃほしい!」


「…………」


 沈黙。


「リゼットお姉さまと、おそろいにする!」


「そっちですの!?」


 思わず、素の声が出た。


 フローラが振り返る。


「?」


「い、いえ。なんでもありませんわ」


 アレクシスは少し考えてから、にこりと笑った。


「フローラにも、いつかできるかもしれないね」


「ほんと!?」


「たぶん」


「やったー!」


 フローラが小さな扇をぎゅっと胸に抱えたまま、ぴょんぴょん跳ねる。

 リゼットだけが、取り残された。


(アレクシス様を、欲しがったのではありませんの……?)


 おかしい。恋愛小説と違う。


 ばさっ!


 扇で顔を隠した。

 胸の奥が、ふうっと軽くなった気がする。


 ほんの少し。


 ほんのちょっと。


 安心したことは、絶対に秘密だった。


 けれど。謎は、まだ残っている。

 フローラは、そのあともずっと、リゼットの後ろをついてきた。


 庭を歩けば。


「わたしも!」


 花を摘めば。


「わたしも!」


 テラスでお絵描きを始めれば。


「わたしも!」


 リゼットが赤い色鉛筆を取れば、フローラも赤。


 リゼットが猫を描けば、フローラも猫。


 ろうの匂いのする色鉛筆が、紙の上でしゃりしゃりと鳴る。


「べつのものを描いてもいいんですのよ?」


「お姉さまとおなじがいい!」


「そうですの……」


 リゼットが立ち止まれば、ぴたっ。

 歩けば、てててて。

 右へ行けば右。左へ行けば左。


 じい。


 リゼットは、フローラを見た。

 フローラも、見返す。


 そして。


 ぱっと笑った。


「おねえさま!」


「……なんですの?」


「わたしも悪役令嬢になる!」


「…………」


 今日一番の衝撃だった。


「それはだめですわ!」


「なんで!?」


「悪役令嬢は、わたくしですの!」


「なる!」


「だめ!」


「なる!」


「だーめーでーすーわー!」


「なーるー!」


 二人の声が、庭じゅうに響く。驚いた小鳥たちがバサバサと枝から羽ばたく音が一斉に聞こえた。


「悪役令嬢は、そんなにたくさんいりませんの!」


「いる!」


「いりませんわ!」


「なんでえ!」


 フローラの声が、ふるえた。


「…………」


 リゼットが、止まった。


 フローラの大きな瞳に、涙が浮かんでいる。


 一粒。


 まつ毛のところで、きらりと光った。


 風が吹いた。庭の木々が、さらさらと鳴る。

どこかで小鳥が一度だけ鳴いて、それきり静かになった。


 リゼットは、扇を下ろした。


「……フローラ」


「なに……」


 フローラが、鼻を赤くしながら、すんとすする。


 リゼットは困ってしまった。泣かせたいわけではなかった。

 悪役令嬢だから、欲しがり妹をやっつけなくてはいけない。


 でも。


 フローラが泣いているのは。


 なんだか、嫌だった。


「……ひとつ、きいてもいいですの?」


「うん……」


 リゼットは、少し迷った。


 ずっと不思議だったこと。


「どうして、わたくしのものばかり欲しがりますの?」


 フローラが、瞬きをした。


「だって」


「?」


「リゼットおねえさまみたいになりたいの…」


「…………」


 リゼットが思ってもみなかった言葉にぴしりと固まった。


「リゼットおねえさま、かわいいの」


「…………」


「おはなし、いっぱい知ってるの」


「…………」


「おともだちも、いっぱいなの」


 リゼットは、黙って肩をひくっと上下させる小さな女の子の話を聞いていた。


「わたし、おねえさまと、あんまり会えないから……」


 さっきまで元気だった声が、小さくなる。


「おうち、遠いから」


「……ええ」


「つぎ会うと、おねえさま、知らないこといっぱい知ってるの」


「…………」


「だから」


 フローラは、自分のアクアマリン色のリボンに触れた。

 リゼットが選んで、リゼットが結んだもの。

 三回目で、やっと形になった、少し曲がったリボン。


「おなじにしたら、いっしょなの」


 風が吹く。白い薔薇の香りが二人の間を通り抜けていくと、フローラのアプリコットブロンドの髪が、ふわりと揺れた。

 アクアマリン色のリボンの端が、ひらりと踊り舞い上がる。


 リゼットは、何も言えなかった。

 欲しかったわけではない。

 少なくとも。

 物だけが欲しかったわけではない。


 リゼットが持っているから、欲しかった。


「…………」


 リゼットの頭の中に、一人の少女が浮かんだ。

 ローズブロンドの長い髪。

 深いローズ色の瞳。

 綺麗で。

 優雅で。

 なんでも知っている。


 大好きな姉。


 エレオノーラ。


 リゼットも、ずっと思っていた。

 お姉様みたいになりたい。


 お姉様が綺麗なドレスを着ていたら、自分も着たかった。

 お姉様が優雅にお茶を飲んでいたら、真似をした。


 そして。

 あの大きな扇だって。

 最初は、エレオノーラが持っているのを見て、


『お姉様! それ、とっても悪役令嬢ですわ!』


 と、目を輝かせたのだ。


「…………」


 リゼットは、フローラを見る。

 自分より少し小さい。

 手も小さい。

 足も短い。

 だから、自分の後ろをついてくるときは、いつも一生懸命、小走りになる。


「……フローラ」


「なあに?」


「わたくしのものを、ぜんぶ欲しがるのは、だめですわ」


「……うん」


 しゅん。


 また肩が落ちる。


「でも!」


 リゼットは胸を張った。


「おそろいなら、いいですわ!」


 フローラが顔を上げる。


「おそろい?」


「そうですの!」


 リゼットは、フローラの水色のリボンを指した。


「わたくしは青。フローラは水色」


 次に、扇。


「わたくしは大きいの。フローラは小さいの」


「ちょっと違う…」


「ちょっとは違いますわ、でも…おそろいですの!」


 リゼットは、自信満々に言い切った。


「だって、色はちがっても同じ絹のリボンですし、扇も大きさはちがっても同じ薔薇の刺繍が入ってますわ」


 自分でも、うまく説明できない。


 けれど。


 まったく同じじゃなくても、いっしょにはできる。


 そんな気がした。


 フローラは少し考えた。

 四歳の頭で、一生懸命考えているらしい。

 やがて。


「……お姉さまと同じ?」


「いっしょですわ!」


 ぱあっ。

 フローラの顔が明るくなった。


「おそろい!」


「ええ!」


 二人は、庭にある様々な花が咲き誇る花壇へ向かった。


 それぞれ選んだ花を一輪ずつ摘んだ。

 リゼットは白いアネモネ。

 フローラは淡い黄色フリージア。

 甘い花の香りが、指先に移った。


 そして。


 最後は、扇。


「フローラ。持ち方がちがいますわ」


「こう?」


「もうちょっと上ですの!」


 リゼットが大きな扇を構える。


 フローラも小さな扇を構える。


「いきますわよ!」


「うん!」


 ばさっ!


 ぱさっ!


「おーっほっほっほ!」


「おーっほっほっほ!」


「もっと大きな声ですわ!」


「おーっほっほっ……けほっ!」


 フローラが、盛大にむせた。


「フローラ!?」


 リゼットは慌てて扇を畳むと、ちいさな背中をとんとんと叩く。背中に触れる手のひらからぽかぽかと陽だまりそのもののような体温が伝わってきた。


「だ、だいじょうぶ……」


「無理はいけませんわ! 高笑いは、ゆっくり練習するものですの!」


 涙目のまま、フローラが笑う。


 つられて、リゼットも笑った。


 庭に、幼い笑い声がころころと転がっていく。


 通りかかった庭師が、足を止めた。


 侍女たちも、そっと振り返る。


 けれど、誰も止めなかった。


 みんな、少しだけ笑っていた。


 その夜。


 寝支度を終えたリゼットは、エレオノーラの部屋にいた。

 燭台の火が、やわらかく揺れている。ほのかに、薔薇の香油の匂いがした。

 エレオノーラは寝台の縁に腰かけ、リゼットを膝に抱えながら絵本を読む。何度も読んでいる、お気に入りの物語。勇敢なお姫様が、不思議な森を旅するお話だ。


 「――こうして、お姫様はいつまでも幸せに暮らしました。おしまい」


ぱたん。最後の一ページを読み終わったエレオノーラは絵本を枕元へ置いた。

 それから、隣にいるリゼットを見る。


「今日は、フローラと何をしていたの?」


 待ってました、とばかりに、リゼットが振り返った。さらりとした柔らかな金色の髪がエレオノーラの鼻をくすぐる


「きいてくださいませ、お姉様!」


「ええ」


「今日は、欲しがり妹を完璧にやっつけましたの!」


「まあ」


「フローラったら、わたくしのリボンも、お人形も、お扇も、なんでも欲しがるんですの!」


「それは大変ね」


「そうなんですの! ですから、わたくし、なんでも欲しがってはいけないと教えてあげましたわ!」


「どうやって?」


「フローラに似合うリボンを選んで、小さい扇を用意して、持ち方も教えてあげましたの!」


「ええ」


「あと、おそろいのお花も選びましたわ!」


 エレオノーラが、にっこりと微笑んだ。


 来る。


 リゼットは察した。


 いつものあれだ。


『それは、優しい女の子がすることではないかしら?』


 絶対に、そう言われる。


「今日は、とても素敵なお姉さまだったのね」


 リゼットが止まった。ばさっと開きかけた扇も一緒に止まる。


「……お姉さま?」


「ええ」


「わたくしが?」


「そうよ」


 リゼットは、瞬きをした。


 お姉様。


 その言葉は、ずっとエレオノーラのものだった。


 綺麗で。


 優しくて。


 なんでも知っていて。


 リゼットが、いつも追いかけている人。


「……わたくしも、お姉さまですの?」


「フローラにとっては、ずっとそうでしょうね」


 リゼットは考えた。


 今日。


 何度も自分を呼んだ声。


『リゼットおねえさま!』


 後ろを一生懸命ついてきた、小さな足音。


『リゼットおねえさまみたいになりたいから!』


 なんだか。


 胸の真ん中が、ぽかぽかした。


 お茶を飲んだときより。


 焼き菓子を食べたときより。


 ずっと。


 あたたかい。


 リゼットは、しばらく黙っていた。


 やがて。


 口元が。


 にんまりと上がった。


「では!」


「?」


「フローラには、もっと悪役令嬢のお勉強をさせてあげなくてはいけませんわ!」


「……そちらなの?」


「もちろんですの!」


 ばさっ!


「立派なお姉さまとして、当然ですわ!」


 エレオノーラは、一度だけ目を瞬いた。


 それから。


「そうだったわね」


 楽しそうに笑った。


 翌朝。


 アシュフォード伯爵家の馬車が、公爵邸の玄関前に停まっていた。


「リゼットおねえさまー!」


 窓から、フローラが顔を出す。朝日に照らされきらきらと輝くアプリコットの髪には、アクアマリン色のリボン。小さな手には、リゼットと同じ薔薇の刺繍の入った小さな扇がしっかりと握られていた。


「またですわー!」


 リゼットも手を振った。


「つぎ会ったら、もっと悪役令嬢するー!」


「しっかり練習しておくんですのよ!」


「はーい!」


 御者が手綱を取ると、馬車が、ゆっくりコトコトと音を立てながら動き出した。

 車輪が石畳を転がる音。

 フローラは窓から身を乗り出しそうな勢いで、ずっと手を振っている。


「リゼットお姉さまー!」


「なんですのー?」


「つぎはー!」


「はいー!」


「おっきい扇もほしいー!」


「それはだめですわー!!」


 馬車の中から。


 きゃはは、とフローラの笑い声が聞こえた。


「もう!」


 リゼットは、頬をぷくっと膨らませた。


 どんどんと遠ざかる馬車はうっすらとしていく。その最後の姿が地平線へと吸い込まれるとリゼットは腰の大きな扇に触れる。


 これは。


 あげない。


 絶対に。


 だって。


 これは、リゼットの大切なものだから。


 でも。


 次にフローラが来るまでに。


 もう少し格好いい扇の開き方を、考えておいてあげてもいいかもしれない。


 もちろん。


 お姉さまとして、ではない。


「ふふふ……」


 リゼットは扇を開いた。


「立派な悪役令嬢として、ですわ!」


 ばさっ!


 大きすぎる扇に、顔がすっぽり隠れた。

 その向こうで。

 リゼットは、少しだけ、青紫の瞳を嬉しそうに細めて笑っていた


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