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その名も


チョークが黒板を叩く乾いた音が、静かな教室に響く。

「はい、では問題に正解した者から授業終了。少し早いが、休み時間に入っていいぞ」

 教壇に立つ教師の言葉に、最前列の奥田は身を乗り出した。

「イエーイ! さっさと終わらせて遊びに行くぞー!」

 奥田の威勢のいい声が空を切る。教師が最初の一問を書き終えるやいなや、彼女は誰よりも早く、弾けるような勢いで右手を突き上げた。

「はーいっ!」


 教師は、そのまっすぐな挙手を視界の端にも入れない様子で、淡々と口を開いた。

「服部」

 奥田以外の誰かが、正解を口にする。奥田は驚いたように、自分の後ろにいるはずの「誰か」を振り返った。

「正解。休憩に行っていいぞ」

 教師の声は凪いでいる。

「次の問題……」

 再びチョークが踊る。奥田はリベンジとばかりに、さらに高く手を挙げた。

「はーいっ!」

「服部」

「ええっ!? なんでぇ!? 今絶対、奥田が一番だったのにー!」

 納得がいかない。今の挙手には0.1秒の迷いもなかったはずだ。しかし教師は、まるで彼女の姿が透明であるかのように、またも「服部」を指名した。


 三問目。奥田はもはや座っていられず、上半身を奇妙に揺らしながら教師の視線を追う。しかし、

「服部」

「なんでーーー! 奥田が一番先だった!!!」

 四問目。ついに挙手しているのは奥田一人になった。

「奥田しか挙げてない……はーい! はーーい! 奥田わかりました!」

 固唾を呑んで教師を見つめる。だが、教師の口から出たのは残酷な一言だった。

「……ヒントを出します」

「……ええっ」

 奥田はガクッと肩を落とし、唖然として手を下ろした。その隙を突くように、教師の声が響く。

「服部」

「っていうか、このクラス服部多くない!? 先生! 奥田のこと見えてます?」


 必死にアピールを続ける奥田だったが、教師の対応は徹底していた。まるで精巧な機械のように問題を出し続け、そのたびに「服部」という名を呼び、奥田を透明人間として扱い続ける。


「先生、奥田だけ挙げてます! 諦めてくださいよぉ!」

 奥田の声は、どこか甘ったるい響きを帯び始めていた。教壇に歩み寄り、冷淡な教師の顔を覗き込む。

「先生ったらぁ……もぅ、奥田と二人きりなんだから。いつもみたいに、『先生』を脱いでよぉ」

 教師は無言のまま、問題用紙に目を落としている。その指先がわずかに震えたのを、奥田は見逃さなかった。

「先生、この問題! 奥田が服部くんと万博に行った時に、先生がめっちゃ焼きもち焼いてた時の気持ち、出ちゃってるよ!」

 奥田はクスクスと笑いながら、教師の肩に寄り添った。

「でもね、あれって服部くんと、服部くんと……私、あわせて六人で行ったんだよ。安心した?」


 その時、鋭い音が教室を切り裂いた。

 ——キィィィィィィィィィッ!!!

 急ブレーキのような不快な高音。同時に、窓から差し込む西日が異常なまでの強光となって奥田を照らし出す。彼女は眩しそうに目を細め、無意識にポケットからスマホを取り出し、耳に当てた。

「もっしー! ママ? 今授業中……」

 電話の向こうから、冷え切った母親の声が聞こえる。

『いつまでそんなことしてるの。いい加減にしなさい』

「休み時間……? うんとね、一生来なそう」

 奥田の表情から、少女のような愛らしさが消え、重く澱んだ影が差した。

「……それはママに関係ないでしょ! 切るからね!」


 通話を終えると、そこにはまた「教師」と「生徒」だけの時間が戻っていた。

「休み時間、終わるぞ。席に戻って、最後の問題だ」

 教師の言葉に、奥田は後ろ髪を引かれるように席に着く。

 黒板に書かれた最後の一問。それを見た瞬間、奥田の顔から血の気が引いた。


「……距離を置こう」

 教師の声は、これまでで最も低く、重かった。

「……ねぇ、どうして……?」

「あの日の映画、君のお母さんにバレたんだ。とにかく君と会っているのがバレた。……マズいよ、距離を置こう」

「絶対に嫌! お母さんはあの人と仲良くしてるんだから、私が誰と仲良くしようと何も言わせない!」


 教室を支配していた「ナンセンスな喜劇」が、音を立てて崩れていく。

 教師は、黒板に向いたまま静かに告げた。

「服部。……君が本当の服部になるまで、俺ら会わない約束だから」


 服部。それは母親の新しい結婚相手の苗字であり、間もなく彼女に上書きされるはずの、呪いのような名前。

 そして、目の前の男——かつて自分の父親であったはずの男が、元妻との契約を守るために、娘を「愛娘」ではなく「他人の服部」として扱い続けるための、唯一の防壁。


 奥田は立ち上がり、喉の奥から絞り出すように声を震わせた。

「……お、……奥田先生!」


 「お父さん」と呼びかけようとした唇が、かろうじて理性を保ち、彼の苗字をなぞる。

 その瞬間、教室の照明はすべて消え、世界は真っ暗な静寂に包まれた。

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