第十四話:プロポーズと……
春の風は、少しだけ冷たかった。
公園の桜は散り際を迎え、薄桃色の花びらが舞い落ちる中で、真柴悠斗は小さく息を吸った。
「——紗良」
呼びかける声が、わずかに震えていた。
白瀬紗良は、隣で小さく微笑んだ。
肩までの栗色の髪が春風に揺れ、淡いベージュのコートの裾が光を弾く。
社会人三年目の彼女は、変わらず穏やかで、聡明で、どこか人の心を和らげる雰囲気を持っていた。
彼女の瞳は少し灰がかった茶色で、昔から、悠斗はその色を見ると季節の匂いを思い出した。
その隣で、彼自身——真柴悠斗は、黒髪を短く整えたごく平凡な青年だ。
営業職らしいスーツ姿が少し窮屈そうで、それでも彼女の前では姿勢を正していた。
幼稚園からずっと一緒だった幼馴染。恋心を自覚してからもう十年以上経つ。
桜並木の下、ベンチの前に立つ悠斗の手には、小さな箱が握られている。
「紗良。ずっと言いたかったことがある」
声がかすれる。心臓の鼓動が耳の奥で鳴る。
彼女は驚いたように目を瞬かせ、それでも逃げるようなそぶりは見せなかった。
まるで——この瞬間を、どこかで知っていたように。
「俺と……結婚してほしい」
静寂。遠くで風鈴のような鳥の声が響いた。
紗良の肩がわずかに震え、そして、ふっと笑みがこぼれる。
春の光が彼女の髪を透かし、微かに光の粒が浮かんだ。
「……うん。もちろん」
その答えを聞いた瞬間、悠斗の頬に、春の風が触れた。
あの時と同じ、柔らかな風。
ただ一つ違うのは——今度こそ、世界が止まらなかったということだった。
紗良の微笑みが、陽の光を受けて輝く。
涙が滲むほど美しくて、胸の奥がいっぱいになる。
やっと、この瞬間を越えられた。
“始まり”を繰り返して、ようやく辿り着いた“続き”。
そして一年後。
季節は春。
桜が満開となる、あの日とよく似た空の下。
紗良のウェディングドレスは、柔らかな桜色だった。
白ではない。薄紅ではない。
光に透ければ、今にも花びらになって舞い散りそうな淡い色。
「……似合ってるよ、紗良」
悠斗の言葉に、紗良は緩やかに笑って目を細めた。
「”ゆーとくん”こそ。……ちゃんと大人になったね」
その言い方がくすぐったくて、二人で笑った。
会場には、紗良の家族、悠斗の家族、親戚、友人たち——
拓真が泣きながら写真を撮り、あかりは目元を拭きながら花束を抱えていた。
そして——
美奈も微笑みながら拍手を送っていた。
彼女は二人を見て”あの日”のことを思い出していた。
放課後の廊下。
春の柔らかな光が差し込む。
「……久しぶり」
美奈は、以前と変わらない笑顔で立っていた。
「話があるの」
二人は校舎裏へ移動する。
美奈は深呼吸し——
胸に手を当てて、絞り出すように言った。
「好き。ずっと好きだったの。今度こそ、ちゃんと伝えたかった」
悠斗は、黙ってその言葉を受け止めた。
瞳に宿る真剣さも、痛みも、全部感じていた。
だからこそ——
優しく、静かに言う。
「……ごめん」
美奈は息を呑む。
その一言だけで、終わった。
沈黙。
春の風が二人の間を抜ける。
やがて美奈は、微笑んだ。
涙はこぼれず——
けれど、その笑みは震えていた。
「……ありがとう。振ってくれて、ありがとう」
声が掠れる。
「一人になっても、いい……?先に行って」
悠斗は頷き、背を向ける。
歩き出した瞬間——
「う……っ、ひ……っ!」
抑えていた涙が弾ける音が、背後に響いた。
「っっ……ぅぅ……うわああああん!!」
泣き声は次第に大きく、空に吸い上げられていく。
悠斗は振り返らない。
振り返れば、迷うから。
春の風が吹き抜け、桜の花びらが雨のように降った。
「……好きだったよ、ほんとに……」
夕陽が沈み、空が藍色に染まる。
美奈は顔を覆いながら、泣き続けた。
でも——その涙はきっと、未来へ繋がる痛みだ。
もう、消えることはない。
存在は残り続ける。
美奈として生まれ、美奈として恋をして、美奈として泣いた。
それが——
何よりの救いだった。
美奈はあの日の事を胸に刻み二人を祝福する。
「お幸せに」
彼女の声は澄んでいて、痛みも晴れも、その奥に秘めていた。
牧師の言葉が静かに響く。
「あなたは、彼女を永遠に愛し、支え、共に歩むことを誓いますか?」
悠斗はまっすぐ紗良の瞳を見つめた。
「誓います」
「あなたは、彼を信じ、愛し続けることを誓いますか?」
「誓います」
二人の言葉が重なった瞬間、外の桜が一斉に舞い上がった。
まるで世界が祝福しているように、花びらが風に乗って二人を包み込む。
悠斗と紗良が誓いの口づけを交わした瞬間、また世界が祝福するかのように風が桜を揺らした。
花びらが舞い降りる。
歓声が沸く。
二人は、ようやく辿り着いた。
何度も奪われ、壊れ、消え、失い——
それでも、たどり着いたのだ。
数年後。
春。
夕暮れ前の桜並木。
悠斗と紗良の間に、小さな手がひとつ。
男の子。
ふわふわの髪。
きらきら揺れる瞳。
「パパ、ママ! みてー! 桜いっぱいー!」
自分の身長より高い花びらの渦を、子どもは手を広げて走り抜けた。
紗良が笑う。
悠斗が笑う。
子どもが笑う。
その笑い声が、風に溶けていく。
「悠斗くん」
「ん?」
「しあわせだね」
「……ああ。ほんとに」
紗良は、子どもと手を繋ぎながら振り返る。
そこには未来があった。
誰にも奪えず、誰にも壊せず、ふたりが掴んだ未来。
桜並木を歩きながら、悠斗は紗良の肩にそっと腕を回す。
紗良も悠斗に寄り添いそっと桜の木を見上げる。
風が吹き抜け、淡い花びらが降る。
その花びらの中に、一瞬、光が走ったように見えた。
まるで“誰か”がそこから、「よかったね」と呟いたように。
悠斗はその光景を胸に焼きつけ、静かに紗良の手を握りしめた。
「……ありがとう、紗良」
「え?」
「また、出会ってくれて」
紗良が照れくさそうに笑う。
「なにそれ、改まって言わないでよ」
「紗良」
「今度はなぁに?」
「愛してる」
紗良は照れながら、
でも確かに、嬉しそうに言った。
「うん。わたしもだよ」
三人の笑い声が、春の風に溶けていった。
桜並木の向こうには、どこまでも続く穏やかな青空。
今度こそ、本当の現実だ。
何度でもこの瞬間を生きていける。
風が吹き、花びらが舞う。
あの日の涙とは違う。
あの日の痛みとは違う。
今はただ温かかった。
世界は、もう閉じない。
記録は、もう奪われない。
紗良がいて、悠斗がいて、拓真も、あかりも、美奈も——
皆、生きて、存在している。
物語は終わった。
けれど、人生はこれから始まる。
花びらの舞う日常の中で、何度でも言葉にできる。
「しあわせだ」と。
終わり——そして、始まり。
【fin】




