8年5ヶ月13日 22時間45分 前
アイジュマル・バイラモフは待っていた。
日本トルクメニスタン共創プロジェクトの中心人物である、と聞かされてはいたのだが、会うのは今日が初めてだった。リモート会議ではいつも欠席だったからだ。
もっとも、彼に対する情報はプロジェクトから得られるものばかりではない。一時期、茶会で彼のことが話題になったことがある。その素晴らしい業績と意外なほどの若さとのギャップに、デザイナーズチルドレンではないか、との噂が立ったのだ。
結局、噂は噂に過ぎなかった。そうこうするうち、彼は一線から引いたらしく、あまり表舞台に顔を出さなくなった。日本の吉祥家に婿入りして苗字が変わった、と教えてくれたのはアレシボ茶会メンバーのマルティナ・ファリアス。何故、彼女がそんなことを知っていたのか、理由は知らない。
それにしたって寒い。
空港に迎えに行きます、と伝えたのだが、現地で、と言われてしまった。
コッペトダグ山脈ギズガラ山手前の大地、海抜2800メートル、首都のアシュガバットからそう遠くないとは言え、ほぼ山中である。緯度経度で直接指定される地点が、待ち合わせ場所として適当かどうかは議論の余地があるかもしれない。
「バイラモフさん」
呼ばれて振り向いたアイジュマルは思わず息を呑んだ。
呼びかけたのは、スーツ姿の青年で、黒い瞳をしていた。もちろん、こんな出会い方でなければ青年のほうに注意がいって当たり前だったが、その時のアイジュマルは彼の後ろにある建造物に釘づけになった。
高さ30メートル、いや、もっとか。アイジュマルは建造物の上半分を構成する白亜の可動ドームを認め、それが天文台であることを瞬時に悟った。
ーーさっきまで、こんなものはなかった。
「亜空間転送…」
思わず口から漏れたアイジュマルの言葉を頑頭は聞き逃さない。
「さすがアレシボ茶会の方です。説明する手間がはぶけて助かります。さあ、中へどうぞ」
アイジュマルは不安げにガントーを見つめたものの、他にどうしようもない。ガントーの後ろに従って天文台の中に入った。
天文台には、2メートル反射望遠鏡が一台と、操作、分析用の付帯設備しかなかった。他のものは自分で用意しろということだろう。
「基本的に現代技術しか使用していませんし、保守も普通の会社を使っていただいて大丈夫ですよ。アレシボリプライとか、別世界通信なんかは参照する必要はありません」
わざわざ、おかしな前置きをつけるものだ。少しぐらいは反論しようかとも思ったが、そんなことより、望遠鏡を前にしてはどうしてもそちらに引きづられてしまう。アイジュマルはふらふらとコンソールの方に近寄った。
「鏡筒を普通よりだいぶ長くしてあります。深井戸効果と液冷撮像子のノイズ低減、画像処理のおかげで、昼でもある程度は観察できますよ」
コンソールに天球座標を入力し、入出力スペクトラムを調整するとコンソールに星影が見えた。
「こぐま座イプシロンですか。ちょうど食に入ったところみたいですね。運が良い」
「確かに吉祥財団から、望遠鏡一脚寄贈いただけるという話はありましたけど、こんなものだとは思いませんでした」
「え? でも、望遠鏡ですよ?」
「ええ、確かに望遠鏡ですね。最高級の」
「最高級? 反射鏡は2メートルしかありませんよ。最新だと10メートル級がごろごろしてますし」
「最高級品です」アイジュマルの語気が上がった「すくなくともアシュガバットで売ってるような類のものではありません」
「いりませんかね?」
「いります」
「それは、よかった」ガントーは本当に安堵したように顔を緩ませた「いつも思うのですが、ちょっと他人と意思疎通をはかるのが苦手でして」
「似たような方と、いえ、もっと問題の多い方たちとやりとりさせていただいてますので、慣れています」
「でしょうね」なぜかガントーはうれしそうだ「あなたのお名前をメンバーリストに見つけたので、いろいろお願いできればと考えたわけです」
「どういうこと?」
「いろいろ忙しくてですね」ガントーは浮かぬ顔で続けた「ちょっと、ヤンチャな人の監視みたいなことをやっているので、時間がいくらあっても足りないんです」
「そんなあなたが、何故こんなプロジェクトに?」
「お互い様だと思いますよ。バイラモフさんも、アレシボ茶会とこの仕事は関係ないんでしょう?」
「個人的な関わりです。なら、あなたは?」
「まあ、学校法人を作ることになってですね」
「はあ」
「現在、生徒が0人で、5年後には2人なんですよ」
「?」
「で、まあ、10年もしないうちに学校そのものが無くなるんですけど…」
「???」
「そんな状態なんで、あちこちに相手にしてもらうのが大変で、それでご機嫌とりにこんなことしてるんですけど…」
「そんな規模なら、許可を取らずとも勝手に学校を運営しても誰も文句言わないと思いますけど」
「そうなんですけど、それだと妻が納得してくれないんですよ。自分の子どもがちゃんとした学校に行ってないなんて許せない、と」
「すみません、よくわかりません」
「わからないですよね。そうなんですよ。よくわからない…。ですから、こういうことにあまり時間が割けないので、バイラモフさんに、あとを取り繕っていただきたいと思ってるんですが」
「私がですか? 私が、この天文台を? いったいどうしろと?」
「ですから、トルクメニスタンと、日本の関係者が、双方努力して、こんな素晴らしい成果を上げて、トルクメニスタンの将来と、ついでに日本と、あと世界全体が目を見張る発展を遂げるとか、なんとか、適当にやっていただければ、と」
「そんなことして、私に何のメリットが?」
「だから、この望遠鏡、差し上げますよ」
あ、ああ、アイジュマルはようやくことの成り行きが飲み込めた。
静粛なリニアモーターの可動音とともに鏡筒が回る。コンソールに映し出されたのはりゅう座βラスタバン、竜の目と呼ばれる黄色の星。
「いりませんかね?」
「いります」
普通に考えて、この天文台ごと望遠鏡がもらえるのなら、後始末などどうということはない、とアイジュマルの頭の中で普通のことが鳴り響くのだが、
それは幼少期から特殊な環境で育てられたデザイナーズチルドレン、アレシボ茶会に属するなどという数奇な運命にあるアイジュマルにとっての普通である。普通の人の普通ではない。本当に普通であればわかりそうなものだが、そうではないのだ。そこをガントーにつけ込まれてしまった。
「基礎ごと亜空間転送したので、しばらくはもつと思うんですよ。杭も200メートル打ち込んで岩盤とも馴染ませてあります。こちらの岩盤と馴染むかは知りませんけど、多少合わなくても自動キャリブレーションがそこそこ優秀ですから、ただ使うだけなら問題ないと思います。改造したら保障の範囲じゃないですけど…」
ガントーの注釈をうわの空で聴き流して、アイジュマルは望遠鏡の操作に没頭している。日本トルクメニスタン共創プロジェクトの一部として、いずれは一般公開になるとしても、しばらくは独り占めできる。
最初に飴をもらったのなら、しゃぶりつくしてから後のことは考えよう。
いつのまにか頑頭の姿が消え、アイジュマルはひとりぼっちで望遠鏡に耽溺していた。




