12年9ヶ月18日 0時間59 分 前
「これから手術受けるんだけど」
コマチ先生は、遊戯室でさっちゃんを膝に乗せ、誰に言うでもなくつぶやいてしまった。
わかった、さっちゃんは振りむいて伸びると、コマチ先生の頭に手をかざし、こわくなーい、こわくなーい、とおまじないをした。
「べつに、怖くないよ」
「ほんと?」
「…いや、ちょっと、こわいかな」先生は首を左右に振った「怖いのは手術じゃない。そうじゃなくてさ、忘れちゃうんだって、なんかいろいろと…」
「べつに手術しなくても忘れるじゃない。あたしがどこから来たか忘れてるでしょ」
「憶えてるよ。福島医科大附属病院」
「違う。病院のことじゃなくて、あたしが来たところ、あだたらやま」
「あだた…?」
「ほら、忘れてる」さっちゃんは笑った「あだたらやまだよ」
「ああ、安達太良山」
「そう、あだたらやま。オニのすむところ」
「鬼?」
「そう、オニ。オニはなんでも見透す。あたしの目を見て、先生」
ーー見たらダメだ
わかっていても、
コマチ先生は、その底なしに深い瞳に見入ってしまった。
ーーオニはいやだ。だから、ゴリラになりたかった
うっほ、うっほ
胸をたたく、
うっほ、うっほ
脚を踏む、
うっほ、うっほ、
うっほ、うっほ、
だいじょうぶ、言ってコマチは抱きしめる。
ーー鬼の目は全てを見透す
だから、あんなに深く麗しい。
「しあわせになろう」
一緒に、
そう言ってコマチは彼女を抱きしめた。
「それじゃ、いいかな、吸引マスクつけて」
亜空間掻爬装置の中で、コマチはパレアナさんの指示通りに麻酔ガス導入用の吸引マスクをつけた。
「ゆっくり、大きく息を吐いて。それから、少しずつ吸ってね。数を数えましょう。いぃち…、にぃい…」
3、4、5、6、7…
いつまで数えても眠くならない。30まで数えたとき、
それがもう夢の中で、夢の中で数えているのに気づいた。
そして周囲が溶けだして、誰かが32と言った。
遊戯室には1人だけだった。
人間はね。
もともと猫タワーなのだが、小柄な子犬はぴょんぴょんのぼる。あっという間に最上皿に座り、静かに床を見下ろす。タワーは高いので、気を許すと頭が天井につかえそうだ。
ヨウムはプラスティックのこども銀行百円硬貨を嘴で挟み、投げては拾い、拾っては投げしている。おもちゃのお金で遊んでいるだけだが、未来のヨウムを占っているようにも見える。
少女は1人座っていた。
胸を叩くこともなければ、声も出さない。
そして、じっと待っている。
その人は見たことない大人の男の人で、大人が着る服を着て、大人が被る帽子を被っていた。服も帽子も緑色だった。
こんにちは、と緑の人は挨拶した。
最初に子犬に声をかける。
「やあ、君はいちばん高いところにいる。トップでテッペン、トッペンだね」
それからヨウムを優しく撫ぜた。
「賢いヨウム、硬貨を投げる。でも、もう先のことを気に病むことはない」
そして少女を抱き上げた。
「2年後に僕の子供が生まれるんだ」緑の人は言った「友だちができないんじゃないかって、すごく心配している」
「どうして緑なの?」
少女の問いに彼は答えた。
「それは、緑がいちばん目立たないからだよ」
周囲が瞬く間に緑に変わる。ジャングルのど真ん中にいたのだ。
うわぁ、うわぁ、うわぁ、
「あたしねぇ、ゴリラになりたいの」
「知ってるよ。君の好きな果物はメロゴールドだ」緑の人が言う「お願いがあるんだよ」
「お願い?」
「僕の息子の友だちになってほしい」
「友だちなんて簡単にできるよ」
「そうでもない」緑の人は悲しそうに頭を振った「宇宙に行くんだ。宇宙にはほとんど友だちがいない」
「宇宙って何?」
「残念だけど、それは誰も知らないんだ」
「友だちになるよ。一緒に宇宙に行くよ」
「ありがとう」
「ありがとう」
「ありがとう」
「ありがとう」
ありがとう
「じゃあ、先生、元気でね」
「ああ、そっちも元気で」
最後の患者の退院を見送る。もう職員もほとんど残っておらず、見送りはほんの数名だった。
「でもさぁあ、まさかあたしが一番最後だなんて、思ってもみなかったなあ。途中で、ここに戻された時はもうダメかと思った」
「むこうの病院の診断ミスだ」横からパレアナが口を挟んだ「N M Rで影が見える気がする、って言うから、こっちで何度も見たんだけど、向こうの機械の故障だって、ほんと勘弁して欲しい。だから安心していよ」
女の子は嬉しそうに笑った。
「さっちゃんが、あたしより先に退院してたなんてね。ほんと良かったよ。どっかで、さっちゃん見かけたら、よろしくって言っといて」
よしえちゃんは、手をめいっぱい振ってさよならをすると、全速力でかけて行った。
「行っちゃったか」
ほんとうは大喜びすべきなのだ。患者がみんないなくなった。みんな治った。喜ばしいことだ。
なのになぜだか、元気が出ない。
くすんだ頭で、よしえちゃんの言葉をもう一度思い出してみた。
さっちゃん、て誰だろう?
「持ち込んだ機械は全部置いていくから」気のない顔を前にパレアナは声のトーンを一段あげた「使えるよね? これ」
「まあ…、たぶん」
「わかんないことあったら、連絡して」
「はあ…」
「あと機械だけじゃなくて、あなたも調子悪かったらすぐ連絡して、どっちかっていったら、そっちのほうが大事だから、いい? 少しでも具合悪いと思ったら、私に連絡、わかった?」
「ていうか、そもそもいま具合良くないんです。頭にモヤがかかってるみたいな」
「え?」
「さっちゃん、て知ってます?」
「し、知ってるけど…」
「誰ですか?」
パレアナはマジと相手の顔を見た。本当に困惑しているように見えた。
「あと、何かさっきからいろいろまとめようとしてますけど、どっか行くんですか?」
「行く、ってか、帰るのよ。だからあなたに引き継ぎしてるんじゃないの」
「帰る? どこへ?」
「家よ、私の家」
「家って何ですか?」
パレアナは話すのをやめた。そして頭をフル回転させた。どうにもこの状況は思わしくない。ここでなんとかしないと、たぶん一生後悔する。
「あなた、私と一緒に来なさい。お母さんには私のほうから言っておく。たぶん治療にもそのほうが良い」
パレアナの言葉に、こんどは相手が戸惑う番だった。
「…いいんですか、その…、アタシなんかがついてって」
「嫌ならいいよ、別に…」
「あ、行きます、行きます。ぜひお供させてください、奥さん」
ーー奥さん?
何だこいつ突然、私とアンタ、たいして年齢変わらんだろ?
パレアナは思わずまなじりをあげたのだが、26%も脳を取り除いたのだ、いろいろ変わるのはむしろ当然で、ここはそのまま許容してやらないといけない。当初告知より掻爬量が多くなったことをパレアナも若干引け目に感じてはいる。
いろんなものを、とりあえず全て飲み込んだパレアナは、最低限説明しなければならないことから口に出した。
「10年ちょっとしたら宇宙に行くんだけど、それまでは家にいていいから、その後はどうするかよく考えてね」
「考えるって何をですか?」
「宇宙に行くかどうかよ」
「あ、宇宙ですか。行きます。行きます」
「そんな簡単に決めて良いの?」
「簡単じゃないですよ。真剣に考えました」
そういえば、デザイナーズチルドレンというのはみんなこうだ。最低でも常人の数倍の思考スピードがある。側から見たら良い加減に見えたとしても、熟考の結果だというのはあり得る。
「じゃ、行くから、ついてきて」
パレアナは亜空間走路を開けた。その異様さに臆することも無く、自分の名すら忘れてしまった女が、のこのこ後をついてきた。




